久しぶりの梨木香歩の新作児童書。
遠い昔に置き去りにしてしまった、かけがえのない感情や輝かしい瞬間を鮮やかに蘇らせてくれる、
いしいしんじや湯本香樹実と共に私にとって愛すべき作家のひとり。(児童文学という特殊なジャンルの枠を超えて)
この一ヶ月余り、持って行き場のない悲しみや理不尽で歯がゆい怒りを溜め込んでゆくことに辛くなっていた。
そして、もうそんなこと忘れようと目を背ける無関心さにも。
さて、本書は手に取って最初のページを繰ったときから、かぐわしい初夏の森へと誘ってくれる。
>>陽の光は新緑のクヌギやコナラの枝の間をぬけ、空中の浮遊物をきらきらさせながら
その下草のシダや落ち葉へまっすぐに降りて、何か特別な場所を指し示しているようだった<<
コペル君14歳。思春期の鳥羽口に立った少年と共に
瑞々しい目線で輝かしい初夏の扉を開ける。
と思っていると見事に世界は暗転する。(裏切られる)
梨木香歩は、この理不尽な世界に、どうやら怒っているらしい。
とはいっても、本作が書かれたのは震災以前だ。
大きな流れの中に与して(くみして)しまう危うさ。
「普通」という言葉で(例えば、そう考えるよね普通。とか)くくってしまい判断停止に陥らせる危うさ。
つまり空気を読んでしまい「おかしい?」と思っても多数に与する怖さを語る。
コペル君の親友ユージンは、そのために小学6年生の頃から登校拒否。
サンクチュアリのような旧家の鬱蒼とした森の中に引き籠り暮らす。
そして、もう一人「いんじゃ」と呼ばれる少女も。
それは鴻上尚史が言っていた「孤独を恐れない」というメッセージに繋がる。
梨木香歩もまた判断停止の圧倒的他者(虐めの構図)に対して、群れを離れる孤独を選択する。
そして本書の巻頭は、この言葉で始まる。「群れが大きく激しく動く、その一瞬前に、自分を保っているために」
梨木香歩の怒りの矛先は、自分を育ててくれた(児童文学の世界)理論社にも、恩師である河合隼雄にも向けられる。
う~ん梨木香歩が理不尽で不気味な判断停止状態の多数に与するものに対して怒っているようだ。
黙っていては何も変わらない。水俣病認定も光市母子殺人事件も訴え続けることで状況が変わった。
沈黙は決して金ではない。それは唯、現状を受け入れ肯定していることにしか過ぎない。
僕は、そして僕たちはどう生きるか | |
梨木 香歩 | |
理論社 |
そういえば、tumoさんの奥さんも山登りしたそうでした。
研究所の後輩の書道教室している。R・Iさんも定期的に皿ヶ嶺にいっているそうです。
8月に美研のグループ展があるので、久しぶりに浅山先生とパンフレット等の件で会いました。
話は、たきに亘り吉本隆明の立て軸と横軸思想の話等、色々でしたが、その中でも邪馬台国は、もともと九州王朝があった(古田武彦著)。の話は説得力があり最高に面白かったです。
昭和40年代の原発のない世界に戻すことは大賛成です。
そして第一次産業への比重を増やすことも賛成です。
農業に適さない不毛な大地でもないのに、国内で食糧自給ができないこと事態がおかしいですよね。
私自身は震災の後に池澤夏樹の著作「光の指で触れよ」を紹介したときに触れたように、
小さなコミュニティ単位の自給自足型の社会(エネルギーも含めて)という選択肢に傾いています。
それはきしくも先日TVで観たブータンの集落単位のコミュニティの有り方に相似していました(ブータンの国民総幸福政策も以前紹介しましたよね)
結局一番の元凶は、際限ない欲望を煽り続ける(消費の奴隷と化した)経済至上主義のシステムでしょうね。
このシステムの社会に生きる限り、「幸福」はいつも近く遠くに見える蜃気楼でしかないと思っています。
ホッホさん、昨日電話で話した「オーバーナイト・ピクニック」は、
素材としては面白かったのですが記事として書き上げるには材料不足でした。
今度二人で夜の山歩きをしてみますか?
五感が研ぎ澄まされて面白そうですよ(笑)
個人住宅は、全て木造住宅とか、第一産業が中心の国造りかえるべきです。
エアコンを使うからヒートアイランドに成るし
熱中症もふえる。
今の生活は、本当に便利ですか?
無くてもいいものが多いですよね。
あなたが河合隼雄に傾倒しているのはよく判りますが、ちょっと問題の本質からずれていますね(笑)
まぁ好いか。
梨木香歩が恩師である河合隼雄へ批判の目を向けているのは、
彼が文化長官だった頃に道徳教育の副読本として作成した「心のノート」にあります。
これは彼らしくないネガティブなものを否定するような内容だったようです。
それは当時の10代の少年による凄惨な事件が続いたという社会的背景もあったようです。
それに、戦前の道徳教育を礼賛する中曽根康弘が旗振りしたような経緯もあります。
中曽根康弘は日本の原子力政策を強力に推し進めた張本人でもあります。
ジェンダーの話題は、また何時でもお相手しますが、
現在緊急の問題は別にあるはずです。
ネガティブなものから目を背けていては「心のノート」を作成した河合隼雄と同じです。
昨夜放送された、浪江町のこの一年を観ました。
2007年に河合隼雄が亡くなって「考える人」寄せられた梨木香歩の追悼エッセイは、作家になった私が書いた、「裏庭」と言う作品に、解説を書いてもらっいる。その最後の文章は、「人間にとって「庭」はおそらく完成することはないであろう。死ぬまでーいや死んでからもー庭師の仕事は続くのであろう。 河合隼雄という物語はまだ終わっていない。哀悼の言葉など、述べる気にならない。
とまで言っていたのに、恩師河合隼雄に向けられた怒りとは???。
ユングが研究した古代のグノーシス思想では、神は両性具有であるが、神ににたものである人間も、本質的に両性具有である。ところが、発達上のある時期に(ホルモンといった肉体的要因やジェンダーといった社会的要因で)、人は男か女か、どちらかの性を強制される。
自分が男であれば、女性的な面は無意識に否定される。つまり、そのとき否定された部分は、抑圧され、発達させられずに無意識の領域に追しやられる。これが、男性において抑圧された女性的な面=「アニマ」である。(逆の、女性における抑圧された男性的な面が「アニムス」)。
或いは、私が、物事を頭で考えて判断するタイプだったら、感情的な面を無視する傾向を持つ人間になる。感情的に行動する人をみると、自分が否定しているタイプなので、嫌な気がしたりする。それが、「影」とユングが呼ぶものだ。それは、私が私が生きなかったわたしの半身であり、実は無意識に私の行動を支配している隠れた力である。(こうした無意識の対立の統合が「自己」という原型である。)こうした人間が共通にもつタイプを、「原型」とユングは呼ぶ。それは、個人の夢や、民族の共通の夢である神話に、そ典型的な姿を見せる。
そして精神病者にも正常人にも共通な、また時代や文化を異にする人々にも共通な、神話創造を行う心の層があると結論したのである。この心の層を彼は普遍的無意識と名づけた。
ユング「癒し系」の思想:無意識は自己の全体性を回復し治療するより引用。
河合隼雄対話集「こころの声を聴く」での富岡多恵子との往復書簡では、人間が「ジェンダー」をつくってしまう不思議を「意識の二分法」そしてコンピューターが「二分法の組み合わせを原理としている」ことや「混沌を光と闇に」「天と地に」分けるような「二分法」をどんどんすすめて、「その組み合わせによってシステムをつくりあげていくことが、意識の発展につながり」、それによって「人間の意識は環境を理解し、コントロールできると考え」男と女の分類(ジェンダー)を人間に押し付けそのようなシステムを作ることで、人間世界を操作するのが便利だから」二分ほうによってつくられる「浅はかな秩序」がますます堅牢になっていくなかで。
富岡多恵子は、それをカキマゼルのは「芸術」の力だと述べバレエ「ボレロ」をみたときの感想をのなかで化粧によって「彼」は男とも女ともいいがたい、ナマナマしくも美しい実在になっていますハダカの上半身が男を示しています。ところがその肉体が「踊り」によって両性具有化というより、それを消滅させて「彼」でも「彼女」でもなくなり、エロスそのものになります。おそらくそれは、「舞踏家」の「芸の術に」よってです。「踊り」に限らず、芸による術が二分法の秩序をカキマゼルように思えるのは、二分法でこぼれたまま、「共存」までも至らない感情の未分化それ自体と共鳴を起こすからではないでしょうか。と述べている。
日々の生活の中で二分化されていない網膜から脳に送られる情報、無意識という潜在意識の深い深い世界。其処は、宗教や哲学や自然科学によって言語化されていない領域であり、人間が生命の謎を解き明かすためにいくらDNAを分析、分解してもそこにはになにも無いという事実。
ランスケさんに紹介された河合隼雄の世界は、本当に面白く凄い。