Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

東北発の震災論 / 山下祐介

2013-03-12 | 

 

 内田樹は情報を評価するときに最優先の基準は「その情報を得ることによって、

 世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」ということに尽きると言う。

 3・11という記号化された東日本大震災の衝撃のマイル・ストーン以来、

 私たちが寄って立つところの、この世界は見通しがよくなるどころか、

 増々、混迷を深め、それを伝えるメディアも復興を進める行政も指針を指し示すべき学者たちも

 それぞれの枠組みに沿った既存の対応で事に当たろうとするためか、

 現場である被災地との乖離感ばかりが浮き上がってくるような遣り切れなさを覚える。

 

 どんな場合でも、自分が含まれているシステムがどういうふうに成り立っているのかが

 あきらかになるという経験を僕は歓迎する。

 システムは順調に機能しているときは、それがどういうふうに構造化されているかは露出しません。

 ちょうど地震や火事で、家の外装が剥がれたときに、家の構造が露出するように、

 危機的なときに始めてシステムの根本構造はあらわになる。

 メディアにとって、今はそういう時機だと思います。

 内田樹は震災前の2010年に出版された「街場のメディア論」の中で、そう警鐘を鳴らしていた。

 

 私たちは、ある種の判りやすさに流されてしまいがちだ。

 自分たちが理解できる範囲で、定型化された枠組みのなかで物事を判断しようとする。

 それは例えば震災後のメデイアの報道のありかたにおいても散々露出し指摘されてきた。

 「限界集落の真実」で過疎対策の行政と報道の誤りを論じた

 社会学者、山下祐介の新刊「東北発の震災論」は、そんな私たちに新たな視野を開いてくれる。

 

 津波や原発による強制避難によって家や土地を追われ避難した被災者の内、

 仮設住宅に入居した人の内訳は、避難した人々の二割に過ぎないという。

 そのほとんどが高齢者で、彼らは土地に対する愛着が強く故郷への帰還を切望する。

 その他の大多数の人は、被災者対策として優先的に借り上げられた公営住宅や

 知己を頼って個別に転居した家族を伴った人々で、個人情報の保護もあり救援物資やボランティア等の

 サポートにもずいぶん温度差があったようだ。

 またメディアも絵的にも判りやすい仮設住宅に避難した高齢者の声ばかりを被災者の声

 として拾ってきた経緯がある。

 また行政による被災者へのアンケートにしても設問が類型的で、

 あたかのそれが民意であるかのように、そこから出てきた数字を取り上げ、

 本当の声を掬い上げているとは、とても思えない内容らしい。

 

 そして津波による復興のグランドデザインともいえる高台移転という大前提が怪しい。

 震災当時、弘前大学に赴任していた山下祐介は、青森県側から被災まもない三陸海岸を南下する。

 広域災害であった東日本大震災では、あまりにも被災した範囲が広すぎて、

 救援の網から洩れてしまう場所が幾つも存在した。

 そんな場所のひとつ、岩手県境に近い野田村に対して山下祐介は独自に働きかけ、

 (関西のボランティア組織や弘前市長を動かして)救援活動を継続してゆく。

 そしてその流れのなかで岩手県から宮城県まで被災地の現場を自分自身の目で見て回る。

 一概に津波による被害といっても、その状況は、土地土地でずいぶん性格が違うようだ、

 それを中央省庁は一括して「高台移転」という異論を許さない復興のデザインを掲げる。

 将来に亘って津波の脅威から免れる山間部は、確かに安全を保障されるかもしれないが、

 その土地で長年暮らしてきた人々にとって、故郷を追われるということにおいて、

 原発強制避難を強いられた人たちと何ら変わらない。

 彼らは、ずっと津波の脅威に晒されながら、その土地で暮らしてきたのだから。

 海を離れるということは、故郷を追われることと同義なのだ。

 

 社会学者、山下祐介の震災への基本的な視点は、

 中央から周辺へ利益の還流がシステム化されていた広域システムが、

 この震災によって顕在化し、またその個々のシステムが機能しなくなったという問題点にある。

 ちょっと判り辛いかもしれない?

 典型的な広域システム災害である福島第一原発事故を例にとって説明しましょう。

 原発事故においては、東電や国だけでなく、国民全体が深く関わっている。

 それゆえに解決のスキーム(枠組みを伴った計画)を国民全体で理解し、

 またそれに国民全体が取り組んでいく以外に、被災者の救われる道はない。

 にもかかわらず、どこかですでに多くの国民の間には他人事感が形成されてしまっている。

 その根幹には、この震災・事故が一体どういう意味があるのか、一つ一つの事象に何が隠されているのか、

 十分に解析できない科学界と、またそれを十分に察知し、報道できないジャーナリズムの無力さにありそうだ。

 ところがこうした広域システム災害がもたらす復興局面での課題は、原発事故の中だけで生じているものではない。

 同じことはかたちは変われど津波被災地でも起きている。

 そこにはまた被災者の分断と「中心と周辺」問題があり、

 そしてここにも科学とメディアが深く関わっている。

 

 私自身も、この判りやすさに流されていた傾向を否めない。

 原発による放射能汚染を絶対的な悪とする立ち位置を、疑うことをしようとしなかった。

 問題は脱原発ではなく脱システムにある。

 脱原発という視点に固執していると多くのものが見えなくなってしまう傾向がある。

 開沼博の登場は、確かに私のそんな偏狭な視点を開かせてくれたように思う。

 

 さて山下祐介は、東北地方が本来持っていた土地としての性格?(歴史)を遡ってゆく。

 この辺りの経緯は東北学の赤坂憲雄との共著、「辺境からはじまるー東京/東北の震災論」

 をさらに読み進めてみたい。

 また終章で語られるように、その土地が本来持っているものや声に耳を傾けるという姿勢は、

 柳田国男の見てきた視点とも共通する。

 

 明治以来、西洋から導入してきた近代化の根底には、西洋人にとって切っても切り離せない

 キリスト教における絶対的な存在である神と個人の関係という大前提がある。

 日本においては、その前提が欠けているため主体としての個人という概念が非常に曖昧だ。

 それが日本における近代化を歪なものにしていったという経緯がある。

 

 東北の中で、これからどんな再生・復興を遂げるかによって、日本の未来は大きく変わるだろう。

 人が集合化することで主体が成立する。

 個人がバラバラでは、日本社会は動かず、システムの変更は迫れない。

 我々は西洋近代化を受け入れたが、我々は西洋人ではない。

 すべてを受け入れた時、それはもしかすると主体を失う時である。

 アンケートや投票、ディベートなどといった、個を主体であるかのように扱う手法は注意しよう。

 我々は個になったとたん、無力化する文化の中にいる。

 重要なことは、人々がつながり、集団化することにある。

 その小さなつながりに、例えば国や科学、あるいはメディアがむしろ利用されるなら、

 システムが我々に戻った時だ。

 ただし、「絆」や「連帯」という言葉が、震災化の状況を非常に難しくしている現実もある。

 首都圏の人間は地方のことを理解しない。

 西日本の人間は東日本のことを分からない。

 福島は宮城と違う。岩手も違う。

 それどころか仙台と石巻は違うし、中通りと浜通りは全く違う。

 中略

 二年間震災の現場を見てきた著者は、こう続ける。

 日本人や東北人が一つだと、あえて強調する必要なない。

 実際、各自はバラバラだ。

 にもかかわらず、広域社会の日本社会で暮らすかぎりは一体でもある。

 バラバラなのに一体。一見矛盾だが、これも真理なのだ。

 

 それよりも、分断、分離を徹底的に追求し、それを記述することにこそ本当の可能性があるのではないか。

 すべてが分離したかたちで示され、それでもなお切れずに残るところに、

 人間のつながりの本質が見えてくるのではないか。

 そして社会である以上、人々は必ずつながっており、切れていない。

 人は人同士つながっており、暮らしは暮らしにつながっている。

 決して人は、システムに直結して生きているのではない。

 あらゆる分断が進み、その分断を記述し尽くした上で、それでもなおそこから現れる何か。

 もしそれが、システム以外の何かによってつながっているとすれば、

 それは一体何でありうるだろうか?

 

 

街場のメディア論 (光文社新書)
内田 樹
光文社
東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介

筑摩書房


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1 コメント

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補足 (ランスケ)
2013-03-14 16:48:01
読み返してみて幾つも大事な部分が抜け落ちているように思う。
その幾つかを補足してみます。

我々の手元にあるリスク論は、ほとんどすべてが確率論だ。
この奇妙さに敏感になるべきだ。
数値に置き換えられると一見科学的で客観的で人間にとって、あらがえない真実のようにみえる。
世界をコントロールするのに有効な道具にしかみえない確率統計だが、
これを人間の生の問題に、しかも過去ではなく未来に向けて用いると事態は転換する。
このことの怖さが、いま復興をめぐって展開されている問題の中で顕在化している。

津波被災地では巨大堤防+高台移転以外の選択肢はないという論理を専門家が示す。
だが生活の中では「死」は必ずしもすべておいて優先して避けなければならないことではない。
明治・昭和の経験から津波伝承が避難誘導において正常に機能しており多くの人は逃げているのだ。
本来は復興に向けて様々な論点を比較考量する必要があるのだが、
「あなたのためだから」という強引に復興の未来図が技術問題に回収されてしまう。
科学の名の下に、数字や論理が人間を置き去りにしながら勝手に一方的に、
しかもきわめて重要な決定を固めていく。
それも当人たちではなく別の誰かが、かつ善意で、だが十分に考えつくされたわけでもなく。
しかもしばしば形だけは民主的に。
こうしたことの総合的な結果として復興を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ。
事業から仕方なく逃げ出すにせよ他方で仕方なく従うにせよ、人々の暮らしはこういった操作の果てに、おそらく崩壊する。
こうした形で進められる現地帰還や巨大ハード事業は、結局はすべて失敗に終わるだろ。


株価が上がった景気が上向きになったという威勢のいい声に騙されない方が好い。
円安で輸出関連企業が上向いたとしても、私たちの暮らしや被災地の問題が解決するわけでもない。
それについては、また内田樹が辛い現実を語っている。

http://blog.tatsuru.com/
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