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ー 「陶芸」 が教えてくれる 15 のしあわせ ー
第六章 : 読んで感じること/その2
その内に、著名な陶芸家の自伝なども読むようになった。陶芸や陶壁と言う言葉を創った巨匠・加藤唐九郎さんや、現代陶芸界の父とも言われる人間国宝の濱田庄司さんの自叙伝などである。感銘を受けた。巨匠 加藤唐九郎さんの自伝 『加藤唐九郎(土と炎の迷路)』 (日本図書センター版) は作歴ともども波乱万丈である。お二人とも陶芸の近世を開いた人たちだが、本の粗筋を掻い摘んで書こう。
加藤唐九郎さんは、半陶半農の窯屋の家に生まれ中学しか出てないが、漢文や南画を自ら学び、17歳で「越嶺」と言う雅号までもらっている。バイオリンも弾き楽団まで組んで演奏会も開いている。陶芸に専念してからは、土を求め土を食べ歩いた人としても有名である。波乱万丈の人生だが巨匠になる人は違う。あらゆるものに秀でてる。不撓不屈である。
本人が一人で瀬戸の古窯址を発掘調査していた時には何度も留置所にぶち込まれている。それを救ったのが偶然にも警察署長になっていた小学校の時の図画でデッサンを教えてくれた先生であった。「お前は唐九郎ではないか・・・」 と。
また、戦時中の中国でのいたましい状況なども生々しく書かれている。ノンフィクションだけに胸に詰まされる。戦争では弟さんや息子さんも5人のうち2人も亡くしている。戦時中も戦後も、陶芸家でありながら、中国やソ連との文化交流を促進するなど日本の工芸美術のために尽くしている。一方で魯山人さんや志野焼の荒川豊蔵さんなどとの出逢いなども知ることができた。偉くなる人や活躍する人たちはみんな何処かでつながっている。
その後に起きた 『永仁の壷』 事件で公職から退いているが、この事件を書いた単行本も読んだことがある。陶芸では最初の人間国宝になったのだがこの事件で返上している。この壷は他の目的で創ったものが訪欧中に永仁時代の壷 (瓶子) として有形文化財に認定されたのである。この壷が習作であることを明るみにした長男の岡部嶺男さんとはこの事件後に絶縁している。嶺男さんも青瓷作品などの著名な陶芸家になっている。嶺男の嶺は唐九郎さんが17歳の時にもらった南画の雅号の嶺である。名字は変わったがつながりが名前に残っている。加藤唐九郎さんが編纂した 『陶器大辞典』 は1,000頁を超える原色の大辞典だが、今も発売されている。
私は加藤唐九郎さんの本を2冊持っている。『唐九郎のやきもの教室』 と 『やきもの随筆』 だ。とんぼの本 『やきもの教室』 には氷柱(つらら)銘などの抹茶茶碗の名品が載っているので、何度となく本を開いて眺めている。気持ちが落ち着く。今も書店で売られている。作品はあのピカソからも所望されたほどである。
又、濱田庄司さんの自伝には民芸運動を始めた経緯や、親友のバーナードリーチとの交流などが記されている。二冊とも日本経済新聞の履歴書に連載された自伝シリーズの配本である。益子焼を見学した時に、濱田庄司さんの 「陶芸記念館」 を訪ねたが、当時の茅葺の工房や作品に感動した。素晴らしい流し掛けの大皿にしばし見惚れた。
時が経ち、今はそのお孫さんたちが陶芸家として活躍する時代になっている。
話がはずれるが、下の写真の 「瓶子」 は、東京・駒場の 「日本民藝館」 で観た濱田庄司さんの 「塩釉紋押花瓶(高さ33㎝ × 胴直径19㎝)」 に憧れて、真似をして私が作った「備前灰釉瓶子(高さ38㎝)」 です。穴窯で薪で焼成して産経新聞主催のアマチュア陶芸コンテスト公募展にも出したが落選した。入選してたら第二の永仁の壷まがいの事件になってたかも?? 同時に出品したお猪口二つは入選した。陶芸教室を開くまでの数年間は公募展にもよく出品した。入選はするものの賞をもらうところまでは行かなかった。この程度だなと思った。
「瓶子(へいし)」 とは、酒などを入れて捧げ物に使う高さが30㎝前後の容器。
- つづく -