夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

国民総オタクが日本の実態かもしれない

2013年01月05日 16時43分28秒 | 日記
 書いているうちに次々に閃いてシナプス結合の網がどんどん拡大して出だしからは思いも寄らぬものが出来た!と言うのが日本人の特徴かもしれない。遊びに凝る、仕事に凝る、プライドに拘る、etc..
自分の技に拘って損得抜きで仕事をする人も居る一方で凝りに凝って不必要な機能満載、まさにファックス電話オタク向けファックスや学習機能付き役立たず掃除機など物によっては拙い方向に出たりする。家電の不振は多分拙い方向に懲りすぎた。自動販売機や高機能便器は多分”面白い”方向に懲って外国人が驚くものになった、考え様によっては悪乗りかもしれないが悪乗りもまた日本人の特性だろう。満州事変から太平洋戦争もまた見方によれば凝って悪乗りしたのかもしれない。
 歌舞伎も能も茶の湯も生け花も宮本武蔵も直心陰流も祭の山車も和紙も漆器も陶磁器も、とにかくありとあらゆるものが私にはオタクの成果に見える。工夫をせずには居れない民族性なのだろう。常に長所は短所でもあり、短所と見えるものの中に長所の片鱗が見える。多分市民は放っておけばあらゆる分野で凝って思いも寄らぬものを考え出すと思う。
 私がベーシックインカム論者なのはそこに理由がある。オタクとは基本は遊び人である。この一億の国民を”生活が破綻するのではないか”との恐怖から開放したら、心理的な江戸時代に戻したら、面白いものがゾロゾロ出てくるのではないかと思っている。
 私だったらこのような国民と事を構えるようなことはしない。上手に付き合って”実”を取ろう、と考える。
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西欧啓蒙主義とキリスト教の終焉

2013年01月05日 14時26分25秒 | 日記
 ここまで書いてみて薄々頭に上ってくるのは今日の地上社会の窮状、行き詰まりの原因に西欧啓蒙思想、さらにその先に宗教改革を経たキリスト教、さらに遡ってキリスト教そのもの、さらに遡行してニケアの宗教会議、もっと遡ってパウロの書簡があるように考える。
 そしてその見える症状としてアメリカ人が異質の文化を”未開”と見なして”アメリカ発自分勝手流”を押し付け、以って豊かであった人々を貧窮のドン底に落とし、恬として恥じない、どころかさらなる正義を押し付ける、ところにあろうかと愚考する。
 見える症状は彼ら自らをも襲う、”銃社会”の苦悩と困惑だろう。国際的には自分達の固有の文化を否定されたり破壊されたりした人々による攻撃だろう。アメリカ文化を一言で言えば”ジャンク文化”だろう。そしてその根はキリスト教だろう。
 と言うわけで、2012年12月21日を境にして西欧啓蒙主義は徐々に廃れ、キリスト教はやがて消滅し、替わって立ち現われる概念は”全体性”に価値を置く日本発江戸文化とその思想、ではないか???
 今日、西洋人が何ゆえか日本のへんちくりんな女の子のファッションに魅力を感じたり、アニメだのユルキャラだのに関心を持つ、そうでない場合は日本の伝統文化に関心を持つ、これらの根底に”硬直して窮屈な”キリスト教文化への疲れと忌避がありはせぬか?
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アメリカ人の価値観=キリスト教(とりわけ新教)とピューリタン独善価値観

2013年01月05日 12時26分21秒 | 日記
 大東亜戦争後、アメリカ人は日本人を”精神年齢7歳”と評し、”教育”しなければならないと言っていた。その頃私は小学生、毎日のようにその方面の話を聴いて子供心に不愉快だった。それからしばらくして”粉食をしましょう”との一大キャンペーンがあって”米を食う”のは栄養失調や頭脳力不足に陥るから”粉”即ち”パン”を食え、と言うような運動があった。何のことはない、これはアメリカで小麦が生産過剰になったのを日本に売りつける口実だった。これは心的外傷として未だに残っており、米の飯を食うとき微かな罪悪感がある。くそいまいましい!! 
 連中はこのようにしてアフリカ人をも”教育”して自分達の有利になるような行動・思考様式を彼らに刷り込んでアフリカ人の農業や生活様式を破壊し、今日のアフリカの不幸の元凶となったのだ。
 ”日本人を教育してやる”と言う姿勢が今日の日本を”ダメ”にして”アメリカ人の価値観での男女同権”を言い、”憲法9条”を押し付けた、いや、巧妙に、”日本人がそのように言い出すように教育した”。この手法は来島ドック坪内社長の悪名高い社員教育、その実質は心理的タコ部屋であったD2Pにも採用されて”如何にして業績を回復するか”の論議を社員自らにさせ、その過程でところどころに味の素を振りかけたり醤油をさしたり隠し味に酢を落としたりして・・・”サービス残業を合法的にする”、”その為には定時にタイムカードを打って、席に戻り深夜まで作業する”などと言った結論を社員自らに言わせ、”そうですか、そこまで言う愛社精神は無碍に看過できない”などと言って”実行”する・・・こう言った狡さに姿を変えた。
 最近”何とか・ゴードン”さんとか仰る人が亡くなった由、新聞か何かで見た。どうやら日本人に”男女同権を押し付けた、日本人の未開人部分を開明教育した”人のようだ。一体”自己を殊更に主張する”ことが何故そんなに価値があるのだろうか?今日、アメリカ人が世界各地で、嫌われているのは何故か、考えてみないのだろうか?何故、銃規制が出来ないのかその根本原因を考えないのだろうか?知り合いにアメリカ暮らしの長かった人が居るが彼の話の論理にはうんざりする。”そこまで自己を主張することに一体何のメリットがあるのか?”と。幕末から明治にかけて日本に来た西欧人が日本独特の文化に心酔しながらも”個の確立が出来ていない”、従って魅力的ではあっても”未開人”、教育しなおされるべき人々との感想を持っていたようだし、彼らに迎合して(自分は有識者だとのエセ優越感を持った)一部の日本人たちもそう言ったようだが、そのような”個の主張”こそが今の地上の不幸の根本原因ではないか?そしてこの主張はその根を探って行けばキリスト教に行き着く。だからこそ黙示録は”大いなるバビロン、地の淫婦らと(多分資本主義経済下の企業)憎むべき者(多分政治機構)との母”と言っている。
 ゴードン女史の目には日本の女性が”虐げられている”と見えたらしい。それは彼女の”アメリカ清教徒的価値観のめがね”を通して見えただけではないか?日本の歴史を勉強したか?あなたは真のインテリゲンチャ、考え深い人ではない、”浅薄な博識者”に過ぎない。侍は侍の、商人は商人の、男は男の、女は女の、それぞれに置かれた立場で虐げるものの下にあった、それは今でもある。そこの洞察がなく単に選挙権云々などと言った”見える”何かだけを論って物事を判断裁定する浅慮と傲慢。
 ”流石は『竜造寺のババじゃ、見よこのニギリメシの固い握りようを!』と秀吉がベタ褒めしたのは朝鮮征伐の折、肥前にやって来た彼をもてなした竜造寺家の姫にして家老鍋島直茂の妻であった人のことである。ここから窺い知れるのは日本の女性達が、確かに”表立った活躍”はしていなかったものの”隠然たる力”を持っていたということである。さらに、祖母や母を、今また妻を見ていて感じるのは、日本の女性は表立っての活躍はあまりない、表に立たない、が、”男を背後で操っている”。ほとんどの家庭で経済実権は妻が握っている。男女同権を大声で言うアメリカの家庭はどうか?経済実権を夫が握っていないか?もうそれだけで日本の妻達の方が格段にのびのびしている、・・・ことはテレビのバラエティー番組など見ていれば窺い知れる。
 それを賢しらに男女同権などと叫んで”学”をひけらかし”政治家”などになって”女の浅はかさ”丸出しで、あろうことか外国人に混じって日本に唾をひっかけるようなのが大臣になったりする、憲法9条に疑念を持つことにバネ仕掛けのアレルギー蕁麻疹症状を起こす。これらはアメリカ人、その本質は宇宙を平衡状態に戻したくない勢力が、日本を心理的に支配し日本の体液を吸い取ろうとしてその方便に用いた”エセ愛の教え、キリスト教”の毒である。日本人はもうそろそろ気がつかなければ地球の未来はない。なぜなら”個””我”を主張して行き詰まったのが今の地上世界ではないか?それを解決する思想は”全体性”を尊重する日本文化に他ならないからである。今でも田舎の村には”入会地”がある。あの思想さえあれば、あの思想とそれに付随する自制さえあれば地上の多くの問題が片付くはずではないか?
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日本病:学校秀才の幻想

2013年01月05日 09時35分18秒 | 日記
 高校生の学力テストをすると日本はかなり上位になりアメリカはさほどでもないらしい。ところが何か新しいアイデアやモノのデベロップになるとアメリカの学生がダントツ一位であるらしい。
 私が最初、また最後に勤めた会社の幹部は旧帝国大学出身の秀才揃いだった。非常に優秀、我々フツーの頭では気も着かぬような”文章のアナ”を探り出して”法の網を潜り抜ける”類の素晴らしい冴えを示した。問題解決力優秀、弁舌さわやか、英語ペラペラ、・・・平和時に置ける磐石の幹部であった。
 でも会社を潰してしまった。実戦場を駆け巡って身に着く”動物的カン”と”嗅覚”がなかったのだと思う。日清、日露戦争までは軍人達にこの要素があったのではないか?秀才ばかりを集めエリート教育、ノーブレス・オブリージュ養成みたいなことを始めて”野生”が失われたのではないか?
 それが無謀なインパール作戦を机上計画したり、”これは危ないがあいつがせっかく言うのだからカオを立ててやろう”などの論理になったのではないか?このような同じ心理象限の中に、競争力を失った、失いつつある(といわれている)日本の会社組織があるのではないか?
 純血種は弱い。甚だ不謹慎だがこれを危惧した昭和30年代の宮内庁長官が高貴の血を避けて活力旺盛な一般庶民の血を入れようと図った、と当時聞いた。組織もそうであると思う。採用にあたって面接担当者は履歴書なしで”オーラ”を見て判断すべきではないか?
 平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、これらの大政治家は”トーキョーダイガク”を出ていたのだろうか?”キューシューダイガク”を”ナダコーコー”を出ていたのだろうか?要るのは学歴ではない、人間歴、人間力ではないか?
 昔の子供は”ヤマ学校”などと称して朝、登校すると家を出るものの、学校に行かずに山に行って遊んでいた、と言う例は多かった。私みたいな”お人形さん秀才”よりも生活力があった。”学校”、”学校の成績”をあらゆることの指標にする”ビョーキ”、”日本病”から抜け出して初めて日本の”日はまた昇る”。
 しかしこのように言うとすぐさま”ユトリ”などと言う”ズンダレ、フシダラ、怠け心迎合”みたいな発想が起こる。或いは、”ユーシューな奴はユーシューなダイガクを出た者の中に居るのだ”などと言う尤もらしい事を言う人々が必ず居る。そのような枝葉の話をしているのではない。”落ちこぼれ”と言われながらも密かに爪を研いでいる者が居る、失礼ながら”ジャマナカ先生”のような人々の中に見過ごす事の出来ない素質を持つ人々が居る・・・そういう人材は学歴や職歴などのフィルターからは漏れてしまうと言うことである。
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