あの夏、ひと寝入りして真夜中に物音で目が醒めた。階下でドスンドスンと足音がする、合間にニャーニャーと猫の声がする。物音は暫く続き、やがてまた寝入った。朝、まだ目も開いていないような真っ黒な子猫が衣装ケースの中に居るのを見た。聞けば門の前で車のドアがバタンと閉まる音がしてそのほんの少し後に子猫の啼き声がしたと言う。彼は懐中電灯を灯して家の前を流れる溝から捨てられた猫を拾い上げた。ノミがいっぱいついてぶるぶる震えていたらしい。風呂場に持って行って洗い、ノミを取って衣装ケースを一つ空けてそこに置いたと言う。
2日すると元気になったが我々が座っている膝に登って来てしきりに頭を擦りつけ前足で押す。まだ母猫から乳離れしていなかったのだ。牛乳を飲ませたが今にして思えば子猫には濃過ぎた。それでも何とか育った。脚が長く、どうやら日本家猫ではない、ボンベイとか言う種の外国猫のようだった。息子はそれをとても可愛がった。大きなケージを買って来て実家に戻る時はそれに入れて車に乗せた。
その夏の終わる頃、二つある物置の奥の方に巣を懸けて居た燕が巣だった。その秋に、彼は結婚が決まった。黒猫は幸運を持って来る、或は幸運を知らせに来る、と言う。薩摩の国では『出犬入り猫』とも言う・・出て行く犬はその家から不運を運び出す、入って来る猫は幸運を持ち込む、夜入って来る猫がいい、そして黒猫は特にいい。瀕死の処を援けてクロちゃんクロちゃんと可愛がった息子にその猫は伴侶となる女性を連れて来た。
彼は翌春結婚し、家庭を持ったが猫は今度は我が妻の元に留めた。拙宅の周りは広大な荒地、彼(クロ)はそこを縄張りにして徘徊し、日のある内はどこに行っているのか判らなかった。大抵は日暮れてから戻って来て台所の戸をトンと叩いた。数日戻って来ない事が何度かあったがその時はマジナイをした。カレンダーで居なくなった日を真っ黒に塗りつぶすのだ。必ず戻って来た。6年が経過した。妻は魚をさばいて食べさせたりしてかなり大きくなった。3キロぐらいになったと思う。
荒地にノラが居てしょっちゅう縄張りを巡って喧嘩をしていたが、それがいけなかった、免疫不全を移されてしまった。これは我々の知識の不足、迂闊だった。目を噛まれて片眼がダメになった。しばらくする内に食欲を無くしやせ細って来た。妻は近所の動物病院に入院させて何とか大事には至らなかったがもう外に出してはいけないと言われた、だが出たがった。何処かに出口がないかと探し回った。ネコトイレを用意していても室内のカーテンや本に小便をするので仕方なく外に出した、出したらノラと喧嘩して泥んこで戻って来る、の繰り返しだった。
やがてそこここ毛が抜け始めた。中々元に戻らない、再発するともう駄目だと言われていたその再発が一年後に起きた。毛の抜ける部分が広がり、そこから出血し始めた。知人の薬剤師の女性が火傷の治療薬を買って来て下さり大分助かったみたいだった。時々呼吸困難・・切迫呼吸が起り妻は寝ずに体をさすってやったりした。体力は衰えたが食欲はさほど衰えなかった。しぶとく生きた、相変わらず外に出たがったが最後の数日は庭の柔らかい草の上に居た。クロ!と呼ぶとかすかに尻尾を動かして応答した。非常に不思議な事だが彼の死のひと月ほど前に息子の就職が決まって初出勤から10日ばかりして息絶えた。
最期は妻の部屋に居たが呼吸困難だったようだ、私は看る度胸がなくて傍に行かなかった、誰にも看取られずに死んだ。新しい籠に入れて葬祭場に行った。妻は畑の花、野の花を添えた。3月だったので菜の花や水仙などがあった。手続きをして斎場の阿弥陀如来の前で合掌した。妻は撫でながら『ごめんね、ごめんね』と泣いた。
まさか自分の処の猫がエイズとは、と驚いた。昔そんなの無かったし。何れにしろこの辺りの状況に全く無知で予防注射をしなかったのが迂闊だった。ただ一つの救いは今家にまごねことひ孫猫がいる、好き放題に周りの空き地を縄張りにしていた事だろう。不思議な猫だった。
私は犬猫年寄りが大嫌いだと公言して憚らぬ一種の異常心理者として殆どの人生を生きた。今思うに成育歴に問題があった。私は私を育てた家庭に敵意は持たないまでも侮蔑と嫌悪は未だに禁じ得ない、悉く自身の内奥にまで口出し介入指図されて育ち自分自身になれなかった、あらゆることを先に決められた、あらゆる選択を蹴飛ばされ、少年、青年の密かな夢の箱庭を蹴散らされて生きた苛立ちは自由自在に生きる猫に激しい嫉妬と敵意となって発現し、事あるごとに猫を蹴飛ばした、蹴飛ばして逃げ惑う猫の痛み悲しみを味わった。宇治拾遺か今昔にそのような物語がある。鶏を苛めてその苦しみ嘆く様を見て激しく泣く男の物語だが・・。
『ごめんね、ごめんね』と死骸を撫でて泣いた妻を見て、私の何かが壊れた!あれは自分だ、私は自分を殺して生きるしかなかったのだ、親たちの独善か恐怖か、尊大か何かのいびつな心情によって。その時、自分自身が『ごめんね、ごめんね』と言われているように感じた。
奇妙なことだが、丁度『外に出さないように』と動物病院から言われて屋内に留めていた頃、私自身が何故か室内のそこここを探してはこっそり小便をする夢を何度も見た。もしかしたら私自身の何かとこの猫の何かは霊界に在っては共通しているのではないか?と思う。
2日すると元気になったが我々が座っている膝に登って来てしきりに頭を擦りつけ前足で押す。まだ母猫から乳離れしていなかったのだ。牛乳を飲ませたが今にして思えば子猫には濃過ぎた。それでも何とか育った。脚が長く、どうやら日本家猫ではない、ボンベイとか言う種の外国猫のようだった。息子はそれをとても可愛がった。大きなケージを買って来て実家に戻る時はそれに入れて車に乗せた。
その夏の終わる頃、二つある物置の奥の方に巣を懸けて居た燕が巣だった。その秋に、彼は結婚が決まった。黒猫は幸運を持って来る、或は幸運を知らせに来る、と言う。薩摩の国では『出犬入り猫』とも言う・・出て行く犬はその家から不運を運び出す、入って来る猫は幸運を持ち込む、夜入って来る猫がいい、そして黒猫は特にいい。瀕死の処を援けてクロちゃんクロちゃんと可愛がった息子にその猫は伴侶となる女性を連れて来た。
彼は翌春結婚し、家庭を持ったが猫は今度は我が妻の元に留めた。拙宅の周りは広大な荒地、彼(クロ)はそこを縄張りにして徘徊し、日のある内はどこに行っているのか判らなかった。大抵は日暮れてから戻って来て台所の戸をトンと叩いた。数日戻って来ない事が何度かあったがその時はマジナイをした。カレンダーで居なくなった日を真っ黒に塗りつぶすのだ。必ず戻って来た。6年が経過した。妻は魚をさばいて食べさせたりしてかなり大きくなった。3キロぐらいになったと思う。
荒地にノラが居てしょっちゅう縄張りを巡って喧嘩をしていたが、それがいけなかった、免疫不全を移されてしまった。これは我々の知識の不足、迂闊だった。目を噛まれて片眼がダメになった。しばらくする内に食欲を無くしやせ細って来た。妻は近所の動物病院に入院させて何とか大事には至らなかったがもう外に出してはいけないと言われた、だが出たがった。何処かに出口がないかと探し回った。ネコトイレを用意していても室内のカーテンや本に小便をするので仕方なく外に出した、出したらノラと喧嘩して泥んこで戻って来る、の繰り返しだった。
やがてそこここ毛が抜け始めた。中々元に戻らない、再発するともう駄目だと言われていたその再発が一年後に起きた。毛の抜ける部分が広がり、そこから出血し始めた。知人の薬剤師の女性が火傷の治療薬を買って来て下さり大分助かったみたいだった。時々呼吸困難・・切迫呼吸が起り妻は寝ずに体をさすってやったりした。体力は衰えたが食欲はさほど衰えなかった。しぶとく生きた、相変わらず外に出たがったが最後の数日は庭の柔らかい草の上に居た。クロ!と呼ぶとかすかに尻尾を動かして応答した。非常に不思議な事だが彼の死のひと月ほど前に息子の就職が決まって初出勤から10日ばかりして息絶えた。
最期は妻の部屋に居たが呼吸困難だったようだ、私は看る度胸がなくて傍に行かなかった、誰にも看取られずに死んだ。新しい籠に入れて葬祭場に行った。妻は畑の花、野の花を添えた。3月だったので菜の花や水仙などがあった。手続きをして斎場の阿弥陀如来の前で合掌した。妻は撫でながら『ごめんね、ごめんね』と泣いた。
まさか自分の処の猫がエイズとは、と驚いた。昔そんなの無かったし。何れにしろこの辺りの状況に全く無知で予防注射をしなかったのが迂闊だった。ただ一つの救いは今家にまごねことひ孫猫がいる、好き放題に周りの空き地を縄張りにしていた事だろう。不思議な猫だった。
私は犬猫年寄りが大嫌いだと公言して憚らぬ一種の異常心理者として殆どの人生を生きた。今思うに成育歴に問題があった。私は私を育てた家庭に敵意は持たないまでも侮蔑と嫌悪は未だに禁じ得ない、悉く自身の内奥にまで口出し介入指図されて育ち自分自身になれなかった、あらゆることを先に決められた、あらゆる選択を蹴飛ばされ、少年、青年の密かな夢の箱庭を蹴散らされて生きた苛立ちは自由自在に生きる猫に激しい嫉妬と敵意となって発現し、事あるごとに猫を蹴飛ばした、蹴飛ばして逃げ惑う猫の痛み悲しみを味わった。宇治拾遺か今昔にそのような物語がある。鶏を苛めてその苦しみ嘆く様を見て激しく泣く男の物語だが・・。
『ごめんね、ごめんね』と死骸を撫でて泣いた妻を見て、私の何かが壊れた!あれは自分だ、私は自分を殺して生きるしかなかったのだ、親たちの独善か恐怖か、尊大か何かのいびつな心情によって。その時、自分自身が『ごめんね、ごめんね』と言われているように感じた。
奇妙なことだが、丁度『外に出さないように』と動物病院から言われて屋内に留めていた頃、私自身が何故か室内のそこここを探してはこっそり小便をする夢を何度も見た。もしかしたら私自身の何かとこの猫の何かは霊界に在っては共通しているのではないか?と思う。
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