夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

鎮魂

2012年07月27日 06時10分15秒 | 日記
 また終戦記念日がやってくる。あれは台北郊外のどこかの村だった、夜中に空襲警報が鳴った。祖母は私を座布団にくるんで抱え、赤土の崖に掘った防空壕に走った。暗い夜空が轟々と鳴り爆撃機の翼端灯が無数に見えた。4発のB29はその4基のエンジンが気味悪いうなりを起こした。中学生になっても空で飛行機の音がすると反射的に木陰に身を潜めた。
 いつの昼だったか忘れた、幸町の家の庭の狭い防空壕から出て部屋に戻った。艦載機の機関銃の貫通穴が欄間の上の壁に開いていた。直径にして50センチばかりあった。 
 どこかの河原でバッタを取った。食べるため、である。

 父には弟が三人居た。私にとっては叔父たちである。でも私はそのだれにも会っていない。上の二人は乙一で徴兵されて満期除隊していたが日支事変の時に志願兵として出征した。
 一人は江蘇省常熟に於いて重機関銃の銃座の中で戦死した。右こめかみから左上顎部への貫通銃創、中国狙撃兵に撃たれた。23歳
 もう一人は広東省鳳山で散兵戦中に戦死。分隊長として突撃中に被弾した。27歳
 この二人とも二の腕の骨3センチばかりが戦友によって火葬にされて戻ってきていた。
 末弟は佐世保海兵団で通信兵だった。昭和19年末、もう生きては戻れない、とのことで一ヶ月の休暇を与えられ家族との別離の為に台北に戻った。休暇が終わって高雄から兵員輸送船で南方へ向けて出航、蘭印方面海上に於いてアメリカ空軍の爆撃を受け船は沈没、行方不明。19歳。

 母には弟が二人居た。末弟は熊本陸軍幼年学校生徒だった。その三年の春休み、帰省の船、高千穂丸が基隆沖、もう後一時間と少し、と言うところで待ち伏せしていたアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没。一発目はかわしたのだが二発目は当たってしまった。乗り合わせた広島幼年学校、東京幼年学校生徒らと共に一旦は救命ボートに乗った。だが一人乗っていた陸軍軍人がボートから降りよ、と命令した。通信士はSOSを打電する余裕もなく船とともに沈没、救命ボートが数時間かかって基隆について大騒ぎになり急遽船を出したがすでに現場海域に誰も残っていなかった。フカにやられたとのことだった。19歳。
 この叔父には風呂に入れてもらった記憶がある。

 私には息子が二人居る。未だに亡くなった叔父たちと姿が重なる。父方祖父母も母方祖父母も息子たちの思い出の残る台北を間もなく後にした。暗い夜だった、大きな貨物自動車が来て私たち家族はそれに乗った。どこかの小学校の講堂に私は寝かされ、父と母が私を見下ろしていた。外では稲光がしていた。それから・・・船に乗った。基隆の港のあかりが遠ざかった。みんなデッキに出て港に向かって合掌していた。私もまた・・・・。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿