母は大正10年に朝鮮で生まれてすぐ台北に移った。南門小学校から台北第二高等女学校に進み三井物産台北支店の石炭課に三年近く在籍した、今のOLのはしりである。カサブランカと言う花があるがアレを見ると母を思い出す。白い夏服がよく似合う造りの大きいモダンでハイカラな人だった。
当時の台北と言えば日本が渾身の力を込めて開発にあたった都市であり東京と肩を並べるぐらいの素晴らしい美しい南の都であった。そこの植民地支配階級としてのプライドと心意気を持ってみな生きていた。終戦で内地に引き揚げて”引揚者”と日陰者扱いされる口惜しさをいつも滲ませていて内地の野暮臭さとは断じて妥協しなかった。それが嵩じて私を強烈に勉学で打ち叩き、後年私が母に冷淡であった一因にもなった。
64歳で肺がんで亡くなった。意識がある間は終始その美学を崩さず医師にも看護師にもきちんとした礼節を保った。女ゆえの弱さも欠点もあったが青眼に構えたその姿勢は変わらなかった。今でも母の声を思い出すと緊張する。母に習ったことは多いが特に印象に残ることが二つあった。
上着は継ぎがあたっていてもよいし多少の汚れは仕方もなかろう、しかし下着だけはいつも新しく清潔なものを身に着けよ、いつ如何なる時に事故にあって上着を切り裂かれ剥がされるかわからない、と。もう一つは耳をちゃんと洗え、と注意された。耳が汚れている人は何事も粗雑だと言っていた。耳の後ろが汚れていると切腹に際して介錯人に見られて見苦しいと思われるから注意せよ、とのことであった。
バカ正直でクソ真面目で真剣に生き、終始利己的甘ちゃんの父に仕え、父にすり減らされて亡くなった。母の両親はオナゴじゃっで、オナゴじゃっで、と終始軽んじ、カネだけ送って寄越して帰省も墓参もしない長男、つまり母の弟をそれはそれは大事にした。クソジジイにクソババア。
当時の台北と言えば日本が渾身の力を込めて開発にあたった都市であり東京と肩を並べるぐらいの素晴らしい美しい南の都であった。そこの植民地支配階級としてのプライドと心意気を持ってみな生きていた。終戦で内地に引き揚げて”引揚者”と日陰者扱いされる口惜しさをいつも滲ませていて内地の野暮臭さとは断じて妥協しなかった。それが嵩じて私を強烈に勉学で打ち叩き、後年私が母に冷淡であった一因にもなった。
64歳で肺がんで亡くなった。意識がある間は終始その美学を崩さず医師にも看護師にもきちんとした礼節を保った。女ゆえの弱さも欠点もあったが青眼に構えたその姿勢は変わらなかった。今でも母の声を思い出すと緊張する。母に習ったことは多いが特に印象に残ることが二つあった。
上着は継ぎがあたっていてもよいし多少の汚れは仕方もなかろう、しかし下着だけはいつも新しく清潔なものを身に着けよ、いつ如何なる時に事故にあって上着を切り裂かれ剥がされるかわからない、と。もう一つは耳をちゃんと洗え、と注意された。耳が汚れている人は何事も粗雑だと言っていた。耳の後ろが汚れていると切腹に際して介錯人に見られて見苦しいと思われるから注意せよ、とのことであった。
バカ正直でクソ真面目で真剣に生き、終始利己的甘ちゃんの父に仕え、父にすり減らされて亡くなった。母の両親はオナゴじゃっで、オナゴじゃっで、と終始軽んじ、カネだけ送って寄越して帰省も墓参もしない長男、つまり母の弟をそれはそれは大事にした。クソジジイにクソババア。
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