鬼平犯科帖を見ていると時々、密偵がかつての親分のことを”それはもう鮮やかなお勤めぶりで・・・・”と言って顰蹙を買う場面がある。かなり以前のことだが知人が泥棒に入られた話をした。夕食の時”アレッ、ラジオがないね!”で、よーく見ると色々無くなっている。そこで始めてヤラレタ、と気が着いたがいつやられたのか全然判らなかったと言う。石川五右衛門の話に、あるじが寝ている部屋に忍び込んでも、その寝息と呼吸を合わせていれば容易に気着かれない、と言う。
今から泥棒に入るゾ、と宣言する泥棒は居ない。丑三つ時にがたがた音を立てる泥棒も居ない。夜這いに入る時は雨戸に小便をかけると音も無くスーッと戸が開くなどと言う話まである。つまり泥棒の要諦は”察知されずにやってしまう”である。してみると・・・・
地球温暖化だ、東日本大災害だ、それ、とんでもない水害だ、地震だ、経済危機だ、これはきっとハルマゲドンの前兆だ、イエス・キリストの再臨だ、などと言う風なことにはならない。
誰も気が着かないうちに”来ていた、仕事をされてしまっていた!”と言うのが”我盗人の如く来たらん”の真髄だろう。しかも、”そんな騙し討ちのような卑怯な!”と言う非難に対して”いやあの時ちゃんと警告したではないか”と言う何かがあると思う。一つの例として、マヤ暦は実は2011年の10月28日で終わった、との見解がネット上にあった。多くの人が見たはずである。しかし大体に於いて”自分は冷静である、理性的な人である”と考えている人ほどそういうものを殊更無視して言う、”何も起こらんじゃないか、一部の好事家、暇人の遊びだよ”、とか”貧乏人でこの先見込みのない連中が何かしらの変化が欲しいんじゃないか”などとの見方をする。・・・あくまでも例としてマヤ暦を取り上げている・・・。
”終わりの日には嘲るものが嘲りを抱いてやって来て言う、・・・何も起こらないではないか、世界は始まって以来同じじゃないか”と、聖書にあるね、実に用意周到!!
引越しをする場合、あなたはその部屋なり家なりに毎日通って掃除だの整理だのするだろうか?そんなことはないでしょう。入居してからゴミ出し、掃除、整理整頓、そして自分の好みに模様替え、什器備品の設置、などして、友達を呼んでお祝いをするでしょう。
そこで私は邪推妄想している、・・・イエス・キリストは既にこの地球に来ている、掃除は始まっている。
例えば昨夜の報道では北の王の有力な一部イギリスで、その銀行の長年の不正が露見、新たな経済危機の火種が露出した。北の王の別の一部はオスプレイをどうあっても日本に持ち込み、南の海まで壮大な天幕を張ろうとしている。南の王の最後の砦、シリアは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。日本でも原発廃止論が噴出、エネルギー政策をどうするかの論議が熱い・・・結局この論議の芯の部分を取り出せば昭和20年敗戦以降のカイシャ至上主義、それによって日本が世界に威張る、その威張りたい欲求を捨てて実を取るかどうするかの問題に帰結する。さらにいじめ問題に火が着いた、その他色々、・・・要するに世界全体大掃除が進んでいるように見える。
”見よ、彼は雲に乗って来る・・・諸国民はそれを見て胸を打って悲嘆に暮れる”。雲に乗って、だから目に見えない。それだけではない、目にも耳にも、心にも、人間のあらゆる知覚に感知されない姿で来ている”が本当だろう。人類はだからこの地上に起こっていることの由来がイエス・キリストの臨在、そして大掃除にあることに気が着かずに”何故こんなことになってしまったのか?何故こんなことが起こるのか?”と”悲嘆に暮れる”、或いは主の実効支配を待ち望む人々は”これは言われている予兆のどれに当てはまるのだろうか”、などと言うのだ。
おおかみが来るぞ、もうすぐ来るぞ、そら来るぞ、と言う風にはイエス・キリストは来ない、別の言い方をすれば宇宙はそういう風には平衡に向かわない。梅一輪一輪ほどの暖かさ、と言うが”いつの間にやら”変わる。男の子の脛に毛が生える、”アレッ、いつの間にか”と言う風にである。だから”主がいつ来るか判らない、用心して目を覚まし裸を見られないようにしなさい”と言われている。
今から泥棒に入るゾ、と宣言する泥棒は居ない。丑三つ時にがたがた音を立てる泥棒も居ない。夜這いに入る時は雨戸に小便をかけると音も無くスーッと戸が開くなどと言う話まである。つまり泥棒の要諦は”察知されずにやってしまう”である。してみると・・・・
地球温暖化だ、東日本大災害だ、それ、とんでもない水害だ、地震だ、経済危機だ、これはきっとハルマゲドンの前兆だ、イエス・キリストの再臨だ、などと言う風なことにはならない。
誰も気が着かないうちに”来ていた、仕事をされてしまっていた!”と言うのが”我盗人の如く来たらん”の真髄だろう。しかも、”そんな騙し討ちのような卑怯な!”と言う非難に対して”いやあの時ちゃんと警告したではないか”と言う何かがあると思う。一つの例として、マヤ暦は実は2011年の10月28日で終わった、との見解がネット上にあった。多くの人が見たはずである。しかし大体に於いて”自分は冷静である、理性的な人である”と考えている人ほどそういうものを殊更無視して言う、”何も起こらんじゃないか、一部の好事家、暇人の遊びだよ”、とか”貧乏人でこの先見込みのない連中が何かしらの変化が欲しいんじゃないか”などとの見方をする。・・・あくまでも例としてマヤ暦を取り上げている・・・。
”終わりの日には嘲るものが嘲りを抱いてやって来て言う、・・・何も起こらないではないか、世界は始まって以来同じじゃないか”と、聖書にあるね、実に用意周到!!
引越しをする場合、あなたはその部屋なり家なりに毎日通って掃除だの整理だのするだろうか?そんなことはないでしょう。入居してからゴミ出し、掃除、整理整頓、そして自分の好みに模様替え、什器備品の設置、などして、友達を呼んでお祝いをするでしょう。
そこで私は邪推妄想している、・・・イエス・キリストは既にこの地球に来ている、掃除は始まっている。
例えば昨夜の報道では北の王の有力な一部イギリスで、その銀行の長年の不正が露見、新たな経済危機の火種が露出した。北の王の別の一部はオスプレイをどうあっても日本に持ち込み、南の海まで壮大な天幕を張ろうとしている。南の王の最後の砦、シリアは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。日本でも原発廃止論が噴出、エネルギー政策をどうするかの論議が熱い・・・結局この論議の芯の部分を取り出せば昭和20年敗戦以降のカイシャ至上主義、それによって日本が世界に威張る、その威張りたい欲求を捨てて実を取るかどうするかの問題に帰結する。さらにいじめ問題に火が着いた、その他色々、・・・要するに世界全体大掃除が進んでいるように見える。
”見よ、彼は雲に乗って来る・・・諸国民はそれを見て胸を打って悲嘆に暮れる”。雲に乗って、だから目に見えない。それだけではない、目にも耳にも、心にも、人間のあらゆる知覚に感知されない姿で来ている”が本当だろう。人類はだからこの地上に起こっていることの由来がイエス・キリストの臨在、そして大掃除にあることに気が着かずに”何故こんなことになってしまったのか?何故こんなことが起こるのか?”と”悲嘆に暮れる”、或いは主の実効支配を待ち望む人々は”これは言われている予兆のどれに当てはまるのだろうか”、などと言うのだ。
おおかみが来るぞ、もうすぐ来るぞ、そら来るぞ、と言う風にはイエス・キリストは来ない、別の言い方をすれば宇宙はそういう風には平衡に向かわない。梅一輪一輪ほどの暖かさ、と言うが”いつの間にやら”変わる。男の子の脛に毛が生える、”アレッ、いつの間にか”と言う風にである。だから”主がいつ来るか判らない、用心して目を覚まし裸を見られないようにしなさい”と言われている。
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