こういう病気があることを今の若い人々は知らないのではあるまいか。戦前、陸軍士官学校に進んだ若者、外語大学のモンゴル語科、ロシヤ語科などに進んだ若者にはこの病気に罹患している人々が居たはずである。
この病気は伝染病であるが素質遺伝の病気でもある。実は私も罹っていた。行動力がなかったが心理的には相当重症だった。それを見て父が心配したり怒ったり、赤くなったり青くなったりした。母方大叔父は自分もその病気だったせいか理解を示してくれた。彼自身、陸軍士官学校を出てその兄・・・熱河城無血開城作戦指揮官、少将・・・のように関東軍に入りたかったらしいが実際は隼戦闘機パイロットにされた様子だった。
さらに母の従兄弟は興安嶺などに出かけて馬賊に拉致され、命からがら逃げ出して虎の徘徊する山中を一週間彷徨った末に何とか生きて戻った。もう一人の従兄弟は同じく満州に出かけて何故か大当たり、馬賊芸者をカコって遊興三昧、しかし終戦で引き揚げると普通の仕事がバカらしかったようで赤貧洗うが如き後半生を送った。
私は私でタクラ・マカンだの楼蘭だの、彷徨える湖だの、アム・ダリヤ、シル・ダリヤ、だのと言ってみたところで中共が支配しているところに行けるはずもなく、代わって南米、特にアンデスとパンパを放浪して一生を送ろうとバカなことを言って両親を困らせた。アタワルパ・ユパンキの”牛車に揺られて”、”ツクマンの月”、アルベルト・コルテス、エドワルド・ファルーなどなどレコードが擦り切れるほど聴いた。
井上靖氏などは多分自らも西域病重症患者にして細菌培養、キャリヤだったはずである。この人の作品の映画化があった。名前は忘れたがまだうら若い岡田まり子(漢字忘れた、ごめんなさい)さんの、えも言われぬ危うい、美しい、壊れそうな、微かな罪の匂いのする、姿にうつつを抜かした。”遠い遠い山の奥で・・・深い深い雪に埋もれて・・・”、と主人公である彼女の弟の少年に言う、それをその声音を今尚覚えている。
つまり私は足が宙に浮いていた。だから実人生は上の空、と言うか色あせたつまらないものに思えた。満員の通勤バスに乗って会社に苦渋を舐めに行く、何のいわれがあって??と四六時中思っていた。なぜこんなくだらぬことをして生きなければならないか、と絶えず考えていた。会社帰りに飲み屋に行って、楽しい、と言う連中がまか不思議な生き物に思えた。
こういう青年が”この事物の体勢の崩壊”と”神の王国”と言う話にコロリと参るのにわけは無かった。こうしてゴビ砂漠を、タクラ・マカンを、アンデスを、パンパを、放浪する代わりにカルト宗教の不毛の荒野を彷徨った。全くアホとしか言い様がない。
今はカルトからほうほうの体で出たわけだが、依然として予後は良くない。”海王星の旗”と言う言葉がしきりに脳裏に上る、意味不明である。銀河が流れ落ちる地平線、かすかに白むそこに向かって夜の平原を疾走する汽車、その窓に寄りかかって吹き込む風に我を忘れている自分を想像する。屋根も壁もない家、つまり草っ原だが、そこに寝て夜空の星を眺めて暮らす、つまり野営で生活する、そういうことの出来る世界を未だに夢見ている。
そういう世界が間もなく到来すると内心本気で考えている。スマホで無料のゲームにふける今の若者のなんと貧しい、貧しい、さても貧しい!
この病気は伝染病であるが素質遺伝の病気でもある。実は私も罹っていた。行動力がなかったが心理的には相当重症だった。それを見て父が心配したり怒ったり、赤くなったり青くなったりした。母方大叔父は自分もその病気だったせいか理解を示してくれた。彼自身、陸軍士官学校を出てその兄・・・熱河城無血開城作戦指揮官、少将・・・のように関東軍に入りたかったらしいが実際は隼戦闘機パイロットにされた様子だった。
さらに母の従兄弟は興安嶺などに出かけて馬賊に拉致され、命からがら逃げ出して虎の徘徊する山中を一週間彷徨った末に何とか生きて戻った。もう一人の従兄弟は同じく満州に出かけて何故か大当たり、馬賊芸者をカコって遊興三昧、しかし終戦で引き揚げると普通の仕事がバカらしかったようで赤貧洗うが如き後半生を送った。
私は私でタクラ・マカンだの楼蘭だの、彷徨える湖だの、アム・ダリヤ、シル・ダリヤ、だのと言ってみたところで中共が支配しているところに行けるはずもなく、代わって南米、特にアンデスとパンパを放浪して一生を送ろうとバカなことを言って両親を困らせた。アタワルパ・ユパンキの”牛車に揺られて”、”ツクマンの月”、アルベルト・コルテス、エドワルド・ファルーなどなどレコードが擦り切れるほど聴いた。
井上靖氏などは多分自らも西域病重症患者にして細菌培養、キャリヤだったはずである。この人の作品の映画化があった。名前は忘れたがまだうら若い岡田まり子(漢字忘れた、ごめんなさい)さんの、えも言われぬ危うい、美しい、壊れそうな、微かな罪の匂いのする、姿にうつつを抜かした。”遠い遠い山の奥で・・・深い深い雪に埋もれて・・・”、と主人公である彼女の弟の少年に言う、それをその声音を今尚覚えている。
つまり私は足が宙に浮いていた。だから実人生は上の空、と言うか色あせたつまらないものに思えた。満員の通勤バスに乗って会社に苦渋を舐めに行く、何のいわれがあって??と四六時中思っていた。なぜこんなくだらぬことをして生きなければならないか、と絶えず考えていた。会社帰りに飲み屋に行って、楽しい、と言う連中がまか不思議な生き物に思えた。
こういう青年が”この事物の体勢の崩壊”と”神の王国”と言う話にコロリと参るのにわけは無かった。こうしてゴビ砂漠を、タクラ・マカンを、アンデスを、パンパを、放浪する代わりにカルト宗教の不毛の荒野を彷徨った。全くアホとしか言い様がない。
今はカルトからほうほうの体で出たわけだが、依然として予後は良くない。”海王星の旗”と言う言葉がしきりに脳裏に上る、意味不明である。銀河が流れ落ちる地平線、かすかに白むそこに向かって夜の平原を疾走する汽車、その窓に寄りかかって吹き込む風に我を忘れている自分を想像する。屋根も壁もない家、つまり草っ原だが、そこに寝て夜空の星を眺めて暮らす、つまり野営で生活する、そういうことの出来る世界を未だに夢見ている。
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