夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

下種のかんぐり下朝鮮、言うちゃ悪い、言わにゃわからん!

2016年12月16日 13時58分58秒 | 日記
 非常に理解に苦しむのが韓国の政治家などの言う『日本は韓国を再び侵略する、大陸までも視野にある』という言い草だ。

 まあ、豊臣秀吉の文禄慶長のトラウマかもしれないが明治以降は南進してくるロシアの脅威を何とか食い止めようとの相談にも上の空で宮廷内権謀術策に明け暮れる、詳細は忘れたが何かトンデモナイ画策をして日本にとばっちりが来た、等の事があった、また多分アメリカだろうがあそこを放置してはならない、ろくなことはないから日本面倒見て欲しい、というような理由で伊藤博文公はイヤイヤ併合したと・・今まで読んだ諸記事から理解している。

 だからこそ、私の祖父をも含め、優秀な人材を募って教育、インフラ整備等に多額の税をつぎ込んだのだ。まだ小学生だっころ祖父が言ったことがある・・『朝鮮で子供たちに教えるためにオンモンというのを勉強したよ』と。祖父は師範学校を卒業したら朝鮮の慶尚北道とか言うところのどこかの小学校に派遣されたのだった。母はそこで生まれた。

 祖母はかねがね言っていた・・『台湾にな、も、行こごたっとは思わん。じゃっどん朝鮮にな、まいっどいたっみろごたる、春になればどろやなぎの葉がきらきら光って、そりゃあ綺麗かったよ。でもな、市場なんどい行けばなんかおそろしか目でじーっと見られてよか気持ちヤせんじゃったよ、その点じゃ台湾は住みやすかった』

 そして大東亜戦争終結、今の日本人であの土地に何かしらの野望を抱く者が居るだろうか?だーれも居ないと思う。仮にあそこが更地になっても足を踏み入れないだろう。これは勝手な想像だが旧約エゼキエル書の39章11節には『その日には我イスラエルに於いて墓地をゴグに与えん・・そこに人ゴグとその群衆を埋めこれをゴグの群衆の谷と名付けん』とある。ここでイスラエルとはハルマゲドン後の地上人間居住世界、これが『海の東』にあるとは、その人類世界の東のはずれにそれはある、と言う意味だろう。すると朝鮮半島がそれであると言えば、烈火のごとく怒るだろうな!

 カネやるから遊びに来てくれと言われても行かないね。身の穢れになるところに誰が行くか?うぬぼれるな!!
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旧約聖書

2016年12月16日 10時35分30秒 | 日記
 我々の住む世界は宇宙をも含めて【法則が姿を現した】ものだと考えている。しかしその法則なるものは中々判りにくい。キリスト教哲学・・という言葉があるかどうかは知らないが、現代世界を構築し牽引している学問の体系の始まり・・・はその法則を何とか見出そうとの探究だったと思う。

 だからそこから幾何学・・その大家であるデカルトは哲学者でもあった、数学、物理学、化学はじめ多種多様の学問、自然科学が派生した。それらが現代のわれわれに多大の恩恵を齎している。

 凡人たる我々に最も分かりやすい法則は多分重力の法則だろう。是に逆らうとその法則に【妬まれて】墜落する。【我は妬む神である】とはそういう意味である。

 そして・・最も分かりにくいのが人間が構成する集団、社会に作用する法則だろうと思う。その法則に逆らうと法則の妬みを受ける、別の言い方をすれば人類は破滅することを神は知って居た。

 しかしそれは複雑で岐路に岐路あり、で解説出来ない。体感して体得する以外にない。その為に旧約聖書の出エジプト記、以下ヨブ記までの書籍があったと思う。

 これらを経てその集大成の慨嘆ともいうべきものが詩編から雅歌であったろう。その後のイザヤ書からマラキ書はイスラエル民族の衰亡と復活の予告である。

 日本人であるあなたが試しにレビ記や民数記を読んでみられよ、或はサムエル前書、後書、列王記など拾い読みして見られよ、ピンと来るから。つまり日本人が先祖代々守って来た一種の掟、行動原理みたいなものへの親和性を見るから。

 新約聖書の四福音書はイエス・キリストの事績を記録したものである。我々一人一人が個人的にそこから宇宙の法則なる行動原理、思考様式を察知洞察しなければならない。その後に続くパウロなる人物の書簡は神と人との間に割り込んでよからぬ差し出口をした悪魔の差し金である。

 世界に多くの害悪をまき散らしたキリスト教会なるものはこのパウロなる【神の言葉に余計なものを着けたした者】の【事ごとに議を言う屁理屈の体系である。】さらにこれをもっと悪くしたのがマルチン・ルーテルに始まるプロテスタント教会だと思っている。

 カルヴィンなる神学坊主のキリスト教綱要なるものを読んでウンザリした。イエスさんの【明日の事を思い煩うなかれ・・・天の父はあなたがたがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです】と言うほんの数行の言葉よりも力を持たない。

 最後が黙示録である。人類史の大立替の始まりと終結を幻視させられた記録である。幻視であるから文面をそのまま考えると判らなくなる。ではどうのようにすれば解るのか?

 神の王国、つまり人類社会創造の神が想定設計した有様を見たい、それに与りたい、との熱意に対して閃きを以て解釈が示される。その事を予告した文言がダニエル書にある、曰く『ダニエルよ往け此のことばは終極の時まで秘し且つ封じおかるべし、衆多のもの浄められ潔くせられ試みられん、されど悪しき者は悪しき事を行わん、悪しき者は一人も悟ることなかるべし、されど暁きものはさとるべし・・・汝は安息に入り日の終わりに至りて汝の分を享けん』(ダニエル書12章9節~)

 人類社会に作用する法則が判りにくいから旧約聖書に多くの事績実例が記録されているわけであるがかつて現われた最も賢い人と言われるソロモン王は次のように言っている。・・『事の全体の帰するところを聴くべし、曰く【神を畏れその戒めを守れ是は総ての人の本文たり】神は総ての行為(わざ)ならびにすべての隠れたることを善悪ともに裁きたまうなり(ここに法則性が暗示されている)』伝道の書12章13節


 神道はこれを何と言ったか?・・・【神ながらの道】と言った。仏教はどうか?・・【放下、何事も放てば満つる】と言った。
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幸せになる方法

2016年12月16日 10時08分11秒 | 日記
 幸せになる方法は無い。山の彼方にも無い。幸せは造ることもできない。有形ではないのだ。
じゃあ、幸せになれないのだろうか?

 こたえ:それは縄文式生活様式にある・・・つまり採取するのだ。あっ、ここに有った! そこの葉陰に一つ落ちてた、ほら、足元にもあるじゃないか。

 若い人、幸せを見つける呪文がひとつだけある。『ありがとう』と言う呪文だ。
だから、ありがとうを言うチャンスを鵜の目鷹の目で探し給え。

 クリスチャンと呼ばれる人々は私の観点からすれば間違った事を教えられて我々人類に約束されている絶対的な幸せの約束から眼を逸らされているように思える。でも、彼らは『主イエス様、今日一日のパンを与えられたことに感謝します』と祈る。その『感謝します』の言霊が宇宙に拡散してまた跳ね返って来る。だから彼らは概ね平穏に生きているように《外からは》見える。
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形見

2016年12月15日 12時10分04秒 | 日記
       かたみ   野田宇太郎

書棚のかたすみのほの暗いところで、いつも一冊の
聖書の金文字が光っている。誰か磨きに来る人が
あるかのように、いつもあたらしく光っている。

あの人は死んでしまった。私に聖書をわたすために
此の世にあらわれてきたような ほのかなひとであった。

あのひとを想い出す日はひそかに聖書を取り出して
あの日枝折を入れたままのピリピ書のページを開く。

そのたびに私のまえに悔いほどに煌めく淡い埃り。
そのたまゆらにあのひとの声を私はきく。

・・・埃はこうして窓の外ではたくものよ、いいこと・・・
窓の外にはあの日と同じ風が流れている。


父は私の苦しみを洞察出来なかった。外見、外面のみを見て『このバチ当たりが』と言うだけだった。私の事を芯から心配し嘆いたのは母だった。その母に私は冷酷だった・・・後悔している、とても・・・!
そのような経緯からか私には母の形見は一切なかった。しかしどういうわけか、母の使っていた聖書が私の手元にただ一つの形見として残っている。母が他界してもう30年は過ぎた。その聖書がまだまだ多くの困難を乗り越えなければならなかった日々にどんなに励ましになったことだろう。

すずめ一羽と雖も神の許しなしには地に落ちない、のだよ!と行間から囁くイエス・キリストの言葉を頼りに、行く末暗い息子と共々歩いた日々であった。

若かりし頃の母を彷彿とさせる画像を貼っておく。


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ピカソの絵

2016年12月15日 09時46分59秒 | 日記
 ピカソが少年の頃の絵は実に端正な非の打ちどころのない絵である。しかしそれが歳を重ねるごとに崩れて来ておよそ凡人には理解し難い絵になってくる。

 ピカソ曰く、『子供のように描けるようになるまで70(?記憶曖昧)年かかった!』

 『指呼すれば国境はひとすじの白い流れ・・・』と詩人津村信夫は書いた。

 いずれも凡人には成しがたい表現である。では何が違うのか?


・・我々は人間社会でその社会構成員として生きる為に、不本意ではあっても仮面を被って生きて居る。これをペルソナと言う。子供は天真爛漫であるのはこのペルソナが薄いからである。
我々の、自分自身も忘れ去ったあの黄金の日々の少年少女は実は失われたのではない、この厳しい世を渡る為に心底深く封印されてしまっているのである。

 タテマエと本音と言う言葉があるがこの本音はその封印されてしまった少年少女の叫びである。でもその叫びはペルソナなる前頭葉論理理性思考の仮面によって却下される。

 ところが偶にその前頭葉理性思考を突き破って潜在無意識が表に出て来る人が居る。これがつまりは芸術家である。ピカソは殆ど一生かけてこのペルソナと格闘したのだろう。次男息子は昔、ホアン・ミロの絵を見てわははと大笑いした。巨大な画面にわけのわからない線や点、ドンゴロスの袋などが貼り付けてあるのだ、常識人は理解に苦しむ。甚だ失礼ながら日本の多くの画家と称する人々の絵が面白くないのは潜在無意識の叫びではなく前頭葉論理理性思考の産物としての絵だからである。

 長男息子はこのペルソナが薄い、従ってその発する言葉、描く絵は幼い少年のものである。それがこの世俗社会で生きなければならない時、我々と違った苦痛を味わっているであろうことは容易に推察できる。彼の場合、妻や家族を犠牲にしてまで黄金の日々を回顧乃至は再現するほどの我儘ではないから。

 家族がどのようであるか否か全く感性がなくただひたすら己の少年時代の夢を追いかける男を私はピーター・パンと呼ぶ。
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