夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

次はどんな花火が揚がるかな?

2019年08月21日 10時35分09秒 | 日記
対馬と釜山の定期航路を一部閉鎖してくれたとの記事は少し前に見た。
日本向け航空便もやめたらしい、素直に嬉しい!
先程ネットを見たら日本企業向け就職説明会も取りやめらしい、ブラボー!

次の打ち上げ花火は何かな?あの【叫ぶ叫ぶ】の文字を一切撤去せよ、と言ってくれないかなぁ・・・。
さらに『我が国民よ、敵の飯を食うな、戻って来い』と言わないかなぁ!

江戸の昔、波打ち際で、『この水は(我が憧れの)支那に繋がっているんだ!』と感涙に咽んだアホンダラが居たらしいが『この空気は我々が侮蔑して止まないイルボンの輩の吐いたクーキだ、ああケガラワシー』と言い出さないかな?
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アスペクト比

2019年08月21日 10時27分29秒 | 日記
第二次大戦中のアメリカの軍艦の舵、戦闘機の舵(垂直尾翼)を見ていると設計者がアスペクト比(幅よりも長さが効く)をよく理解していたと思う。特に艦載機の最終型、グラマンF8Fベアキャットの垂直尾翼は秀逸だと思う。

対して日本の軍艦の舵、戦闘機の舵を見ると流体力学の初歩を分かっていたのかな?と思う。何か秘密があるのかな?
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物理現象を造影する空気

2019年08月19日 18時33分16秒 | 日記
大勢の人々が同じような心理状態、精神状態、にある時、さしたる理由が分からないのに現象化する状況乃至事態というものがあるように思う。

それが【ひきこもり】と【孤独死】

現象化する心理状態、乃至精神状態は【個を異常に強調する】、【プライバシーを狂的に重んじる

その心理状態の象徴的なモノは【個室と錠と鍵】

日本は古来【私】よりも【公】を上位に置いた社会であった。伝統的な日本家屋に錠前はなかった。あるのは金蔵だけだった。【公を私よりも尊重する社会】に戦後、【私を公より重視する気風】を持ち込んだのを【日本の神々】が慶ばない、【不快である】と暗黙に表明している、別の言い方をすれば【日本人の精神風土、伝統的な土壌に合わない、そぐわない】、その現象が【ひきこもり】と【孤独死】だろう。
参考までに・・日本のある地方では夜中も錠を下すと嫌われる。いや、多くの田舎で今もそうだろう。現代都会風のズンダレた生活をする者が仮に田舎暮らしなどとやって来て古民家に住もうものなら朝6時には、場合によっては6時前に、玄関をガラリと開けてたたき起こされる。『オイ起きろ!町内清掃だ!』
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首相官邸・関係省庁に投稿した

2019年08月16日 09時43分21秒 | 日記
韓国が進退窮まってどのように態度を変え、すり寄って来ても最早相手にしないで戴きたい。国内からハングル文字を全て撤去願いたい、見る度に不愉快である。

・・・日本はわがままなドラ息子を際限なく構う甘い母親であってはならない。我々は益々混沌を増す世界で、唯一品位と矜持を以て安定した国家として世界のお手本とならなければならない。それが日本に課せられた課題である。

我儘に育ったドラ息子・・ムチャクチャな要求をしてもどんなに毒付いても許されるのが当然と思っている、叱れば拗ねる、拒否すれば家財を壊し八つ当たりして前後の見境いない事を言ったりしたりする、聞き分けがなく横車を押す、『ママ(日本)が意地悪するっておばあちゃん(アメリカ)に言いつけてやる』と凄んでみたり、死ぬ或は殺すと言って脅す。普段はどこに行っているのか分からないが、金に困ると帰って来て『くれなきゃ先祖の墓地で死んで(家族の恥をさらしてやる・・国際社会に言いつけてやる)』などと言う箸にも棒にもかからぬ拗ねものが故郷の町に居た。・・・こういうのは勘当して追い出すしかない。
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クラシックギターの世界

2019年08月14日 21時54分09秒 | 日記
それを生業の具として扱う者総て、嫌いになった。
禁じられた遊びが大フリークしたあの時代にミーハー根性丸出しでギターに跳びついた。以来、数十年の中断があったが今もやっている。正直、人生いいこと無かったがギターが弾けたと言う事は冷汗三斗の恥多い人生、家族に対する悔いの残る人生の唯一の救いである。

でもこの世界が嫌いだ。ギター専門ショップやその関係者の話を読めば、値数百万の外国人製作家の作ったギターでなければギターではない。・・・その言外の意味は、そう、彼らが【量産品】と言う文言で暗に蔑んでいる楽器ではまともな音楽は出来ない、と言う事だ。これは限られた予算を懸命に都合して買ったギターで多忙な毎日の隙間の時間を見つけて【本来の人生、人としての本当の生活】に対する【飢え】を満たそうとする者達に後足で砂をかける行為に等しい。有り余る時間、有り余る金銭でギターやリュートを習いに行く、私はその傲慢が嫌いだ。人である限りそのような生活への欲求はある、それを叶える事が出来る人も居よう、すればいい。だが公言することは傲慢だ。

そういう楽器を買える人々は医師とか高校の先生が多いようだ。負け惜しみだが私だって買おうと思えば買えた。しかし何ら生産性のない単なる趣味、慰みの為に、如何に家族の生計を支えている身とは言え、【傲慢】であるとの観念を払拭できなかった。

演奏家とか先生とか称する人々には申し訳ないが、皆さんの演奏に全然感動しない。大体、ギター曲そのものに心を奪うものが少ない。アルハンブラの想い出が何故そんなに有難いのか分からない。ソルだとかジュリアーニだとか言う作曲家の曲の何がいいのかわからない。さらに先生とか演奏家とか言う人々の演奏を聴いて【ただ楽譜をなぞっているだけだ】としか思わない。

ひとつには【真の芸術】と【豊かな生活】は両立しないからだろう。モジリアニもシューベルトも貧乏だった。ゴッホもベートーベンもショパンも。カネに飽かして高価な楽器を手に、暇人相手にレッスンだの演奏だのする世界から価値ある何ものも出てこない。であれば存在意義はない。
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