つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

ゼロ戦の光と影

2014-07-18 | 歴史
 放送大学岐阜学習センターでは、時には学生も講義をします。昨日は、松尾さんがゼロ戦についての講義をされました。お父上が三菱重工名古屋大江工場に勤務されていて、ゼロ戦の設計技師。そんなことからテーマは、「ゼロ戦の光と影」。
 「風立ちぬ」と、「永遠の0」の映画もまだ見ていないので、見てみたいです。

 ゼロ戦が製造されたのは名古屋の三菱重工。試作機の初飛行は、岐阜県各務原市。約40kmの距離の機体の運搬は牛車でした。当時は舗装もしていなくて、道がガタガタ。精密機械は車の振動でダメになるかもしれないということで、牛車でそろりそろりと運ばれたのです。3つに分けて・・・

 ゼロ戦の開発にあたった中心人物は、堀越二郎。著書もあります。
実戦で小回りがきく日本のゼロ戦の優秀さは米国側も注目。解体して研究しました。このまま日本が凌駕するのを恐れて、その後製造禁止令が出て、作れなくなったのはとても残念です。その優勢だったころのDVDも見ました。よくあのような実戦場面のドキュメントを作られたと感心しました。後にYS11が作られることになりますが、これも三菱重工でした。松尾さんは高校の先輩。 



       
        松尾さん

               
                ゼロ戦のDVD 珊瑚海海戦
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揚輝荘

2013-10-23 | 歴史
 昨日は、松坂屋初代社長の伊藤祐民(すけたみ)氏が、大正から昭和初期にかけて名古屋の覚王山に建設した揚輝荘を友人と訪ねました。完成時は、一万坪の敷地に三十数棟の建築物が建ち、威容を誇っていました。庭園も池泉回遊式となっています。上の写真は、聴松閣。
 戦争により一部焼失は惜しまれますが、近年名古屋市に寄贈され、修復も終わり、一般公開されています。
 建物はおおむね南園と北園に分かれ、南園は通常建物の内部も観覧出来ますが、北園は庭園のみ。内部は電話申し込みにより水曜日と土曜日だけ公開されています。

 伊藤氏は、特別に個人教育を受け、学識が高く、揚輝荘、聴松閣という呼び名も漢詩から採用。昭和9年、4ヶ月間に亘り仏教遺跡を巡る旅に出られ、部屋により、インド風、中国風の意匠も見られます。旅の膨大な記録は、16mmフィルムに納められ貴重な資料になっています。ルンビニの丘やアジャンターの壁画も・・・カメラマンも随行されていました。

 柱や階段の手すりは栗材。かんなではなくて、ちょうなで仕上げられています。各界の要人や文化人も招かれていました。
 自ら決めた55歳の定年で退職。その後の人生はボランティアに投入。留学生の受け入れもされていました。

        
         玄関の扉周囲の彫刻

    
     玄関天井照明

  
   二階から庭を撮影 丸い踏み石は八丈島から運ばれた椿油をひく石臼

    
     地下室(インド様式)の舞踏室の窓ガラスのヒマラヤの絵 地上から採光 


インド風の壁画                            中国風の窓枠

     
      北園入口の豆柿

   
    北園の伴華楼

      
       北園にある修学院離宮の橋を模した白雲橋 (よく似ています)

  
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自虐的すぎる日本人

2013-09-16 | 歴史

 戦後、日本人は余りにも自虐的になりすぎていると思いませんか。友人からある動画を紹介されました。以下はそのナレーション部分です。

日本人は自信を取り戻そう。NHKや日教組による68年間の反日自虐刷り込みは、アメリカ占領軍(GHQ)による日本人洗脳(プロパガンダ)計画の実践だったのです。
 それに悪乗りして対日外交を展開してきたのが、中国・韓国・北朝鮮の3ケ国です。この3ケ国を除き、他のアジア諸国はもとより世界各国のほとんどが、たいへん日本に感謝し好感を持っている親日国なのです。日本人として自信を持ちましょう。


マレーシア
ラジャー・ダト・ノンチック(元上院議員)
 日本軍は長い間、各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせてくれたのです。


マレーシア
ガサリー・シャフェー(元外務大臣)
 日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思った。
 なぜ日本が謝るのでしょうか?あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイ ギリス人を追い払ってくれたではないですか。日本なくして東南アジアの独立はありません。


タイ
タナット・コーマン氏(元副首相)
 あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。


インドネシア
モハメッド・ナチール(元首相)
 アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。


インドネシア
サンパス(元復員軍人省長官)
 特にインドネシア人が感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1,000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を送っているが、それだけですむものではない。


インド
ネール(初代インド首相)
 彼ら(日本)は謝罪を必要と することなど、我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。


インド
グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを心に深く刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう。


タイ
ククリット・プラモード(元首相)
 日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話が出来るのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。



インド
パール判事(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
 私の判決分を読めば、欧米こそ憎むべくアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決分を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頸廃に流されていくのを、私は平然として見過ごすわけにはゆかない。

http://youtu.be/kbRuWV-OXis(動画)

 大型台風18号が日本に接近中です。午前7時現在、テレビでは、滋賀・京都・福井に数十年に一度の大雨という特別警報を、気象庁が出していると警告しています。

        
        
         次男宅から届いた豊水

     
      敬老の日に妹から老母に届いた葡萄

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ジャスミン革命

2013-05-27 | 歴史
 数年前から鉢植えにしているジャスミンです。写真は、ハゴロモジャスミン。モクセイ科。白または黄色もあります。芳香があるので香水、ジャスミン茶に使われます。アジア・アフリカの熱帯・亜熱帯原産。

 ジャスミンと言うと、ジャスミン革命を思い出します。チュニジアでの革命のこと。北アフリカのチュニジアは、1998年ボランティアで訪問。直通便はないので、フランスのドゴール空港で小型機に乗り継ぎました。とても静かな国というイメージで、この革命が報道された時は、驚いた覚えがあります。フランス語が主体ですが、大卒の人は英語が通じました。私たちは医療物資などを支援しました。ジャスミン革命とは、

 2011年1月、北アフリカのイスラム国チュニジアで起こった民衆蜂起による革命のこと。国を代表する花の名から「ジャスミン革命」と呼ばれます。政変のきっかけは、2010年12月17日、中部の都市の路上で野菜を売っていた青年が当局の度重なる摘発に抗議し、焼身自殺した事件。これが経済的困苦にあえぐ人々の共感を呼び、その町の民衆数千人による抗議デモへとつながりました。一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反により大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件です。
 やがてアラブ全般に運動がひろがり「アラブの春」と言われるようになりました。

 
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大東亜戦争へ至る歴史

2013-05-09 | 歴史
 リンクしているokoさまのご親族の斉藤様が「大東亜戦争へ至る歴史」という歴史書を出されましたので、注文しました。これを読み、これまでの戦争に対する知識が、偏っていたことや、浅かったことを改めて認識しました。

 日本の悲劇的な場面ばかりしか知らなかったのですが、大戦に至る二か月前(1941.6)に、ドイツとソ連の壮絶な戦いがあり、死傷者も記録的でした。第二次大戦全部の死者は民間人合わせて、数千万人ですが、この時の死者が最大だったそうです。日本人としては広島・長崎の原爆の死傷者が最大と思っていたのですが・・・ドイツ軍が、不可侵条約を破り、対ソ戦に踏み切ったからです。

 終戦間際、ソ連が日本に不可侵条約を破り対戦してきたのですが、自分の国もドイツに同じことをされていました。

 南京虐殺については日本人が残忍であることが世界に伝えられているのですが、これは反日の中国人が嘘をまぜて、つまり捏造し、針小棒大に書いているのだそうです。過去の日本人の戦争史にはあんな残酷なことをしたと書いていないのです。でも日本軍は証拠書類を廃棄したため、何を言われても言い訳出来ません。証拠がないので今となっては何とも言えません。あったとも、なかったとも・・・人はまちまちのことを言います。

 あの戦争が完敗に終わった原因の一つは、日本政府の慣れないまずい外交のせいと言えるようです。奸智にたけた西洋列国に叶わなかったと言うことです。それとドイツの戦力を過大評価していたことと・・・日本外交は松岡の独走で失敗に至りました。ヒットラーに大歓迎されて・・・
 また、暗号がすべて米英に解読されていたことも知らなかったこと。高校の授業でそれは、聞いていました。12/8のパールハーバー攻撃の時も、向こうは事前に知っていたのでわざとボロ船で待っていたことなど・・・
 解読していても知らなかったふりをして死者を出していたのです。ところが日本はせっかく暗号を解読していたのに、海軍は陸軍に知らせず、対策もおろそかで、解読した意味がなかったのです。向こうでは、チャーチルとルーズベルト(文中ではローズベルト)は、お互いに900通も手紙を交換していました。

 この戦争を止められるのは、天皇しかいなかったので電報を依頼。ところがルーズベルトから天皇に出した親電が、何故かアメリカに10時間も留められて、天皇に渡ったのは真珠湾攻撃の30分前でした。これは米国の謀略でしょうね。ハル・ノートは、最後通牒と言われていますが、挑発的な内容で開戦に至らざるを得なかったようですから・・・仮にあれと同じ内容の手紙を受け取ったら、モナコでも米国に立ち向かうと後世言われていますから・・・ハル・ノートが物別れとなり、打電で回避しようとしたのに・・・
 アメリカの狡猾さは、米国史を学ぶと分かると放送大学の友人は言っています。

 なお、著者の斉藤氏は東大卒後、千葉県庁に勤務。定年後は大学講師。2009年にも「世界の中の日本」を出版され、贈呈頂いています。その本は、世界史の中でも古代史を中心としたものから書かれていました。参考文献が150冊を超えているのに驚きます。中央公論事業出版発行。518ページ。

 文中に安部信行首相(昭和14年)の記述がありますが、長女のIさんとは高嶺東京歌会でよく会っていました。もう故人ですが・・・

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三内丸山遺跡

2013-01-18 | 歴史
 この夏、青森県の三内丸山遺跡を見学に行かれた松尾さんの発表が、昨日放送大学岐阜学習センターで行われました。敷地の大きさ38ha、1500年という長さ、出土遺物が4万箱。どれをとっても桁外れのスケールの遺跡です。見学会の参加者1万人でした。
 野球場建設工事の途中に見つかったのですが、当時の県知事の賢明な判断により野球場工事は中止。遺跡を永久保存することになりました。

 縄文遺跡は日本に一万ケ所あるらしいですが、ここが最大。縄文時代は1万年続き、長さも桁はずれ。三内丸山遺跡は、1500年間、500人ほどが生活していました。つまり、私たちが1997年に見たヘールボップ彗星を見ていることになります。2400年前と4800年前ですから、縄文人は二回見ています。次が平成。信長や秀吉や家康も見ていないのに・・・5000年前と言えば、エジプト文明と同じころです。
 これまでの縄文時代の歴史書は書き換えられるはずです。何しろ縄文尺まであったのですから・・・35cmの倍数で建築されているそうです。

追記; 岐阜県出身の朝井リョウさん(23)が平成生まれで初めて、芥川賞を受賞。受賞作は、「何者」。お目出度いことです。岐阜県出身は3人目。昭和27年には、小島信夫。平成12年に堀江敏幸さんが受賞しています。



レジュメ

       
        復元された左の塔は6本の栗の柱が立ち直径は1.8m 用途は不明 祭祀の考えが有力

          

  
   出土されたヒスイ

        
         アクセサリー

   
    縄文土器

         
          土偶 一つとして同じものがないそうです
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明智光秀の妻

2011-11-24 | 歴史
 町主催のイベントで、おもしろ健康学という講話を聞きに出かけました。自転車で5分の公民館です。お話は東海学院大学講師の小嶋先生。何事も一生懸命やらなくていいというのが結論です。極端な運動もよくなくて、「中庸」がよろしいということ。

 お金は貯めるものではなくて、使うものだということ。特にお嫁さんにふるまいなさいと言われました。先生は、毎年、クリスマスになると、銀座から1万円の花を取り寄せ5人に送っておられます。まず、奥様に、次は長男のお嫁さん、あとは秘密だそうです。そうしますといろいろお返しが来るそうで、この日は、そのお返しの一つ、1万円近くする白檀の香料を持ってこられ、私たちの手につけて頂きました。あたりに白檀の香りがして皆癒されました。

 この日頂いたプリントの一部を抜粋します。
 ー明智光秀の妻照子のことー
 福井県の称念寺に芭蕉の句碑、
 「月さびよ明智が妻のはなしせむ」がありますが、
 芭蕉は次の話に感動して句作したと言われています。

 明智光秀が仕官の道を求め、諸国巡歴していたときに、越前の守護・朝倉義景に仕えるために称念寺の門前に仮住まいしていました。そんなある日、光秀主催の茶会を持つことになりました。困窮を極めていた光秀には余裕がなかったので、困りはてていました。ところが当日立派な酒や肴のご馳走が並べられました。妻の照子は、夫が恥をかかないために、自分の髪を売って調達したのです。

 光秀と照子は、幼いころから許婚(いいなずけ)でしたが、照子は婚礼の直前に痘瘡にかかり、顔に醜い跡が残りました。両親は嘆き、代わりに妹と婚礼をうけさせたのです。光秀は式の後、化粧をとった妻に、あるべきところのほくろがないのに気づきました。妹は身代わりであることを告白。光秀は指一本触れず、実家に帰らせ照子を呼びにやらせました。二人は仲睦ましく暮らしたことは言うまでもありません。光秀は生涯側室を持たず、戦国一のおしどり夫婦となりました。 

        
         公民館玄関の懸崖菊
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国史跡 加納城跡

2011-10-04 | 歴史
 一昨日の講演会場近くには、国史跡の加納城跡がありました。前から行きたかったのですが、これまでその機会がなく、ようやく叶いました。母校の岐大付属中学の近くにあるのに、そのころは関心もなかったのです。城跡は一時自衛隊が使用していたのですが、今は外側の石垣だけがわずかに残り、内側は芝生になっています。
 石垣の彼岸花も終わりかけていて、残り少ない花を撮りました。

 徳川家康は、1602年、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与えました。長女亀姫の婿として、粧田二千石を加増。築城は岐阜城落城の翌年。資材は岐阜城のものを使用。しかし、明治維新にすべて取り壊され、石垣だけとなりました。最後の城主は、16代目の永井氏。

 町の北部を中山道が通り、加納宿が設置。城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ尾張街道(岐阜街道・御鮨街道とも) が東を走っていて中山道と交叉している交通の要衝でした。

 歴史ある町にふさわしいお店に友人と入りました。以前にもupしていますが、創業390年の二文字屋。ここには井沢先生も来られると聞いていたので、早々においとましました。聞くと井沢先生のお父上は、名古屋の二文字屋に行かれたことがあるとか・・・二文字屋の欄間は濃尾震災で焼失したけれど、左甚五郎の作だったとか・・・それが兎のデザインであったため、兎に関する絵とか、おめんも飾ってあります。絵には照明が写りましたが、西行の歌が書かれています。(伊沢先生とは講演終了後コーヒーブレイクの仲間入りをさせて頂きました)

          

     

         

            

        
         石垣の内側は何もありません

     
      西行の歌が書かれています

             

                      
                       兎の面

     
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井沢元彦 歴史講演会

2011-10-03 | 歴史
 昨日は、江戸川乱歩賞受賞者・井沢元彦氏を岐阜に迎えて歴史講演会があり、岐阜市南部コミュニティセンターに出かけました。テーマは、「土岐頼芸と明智光秀」。主催は、美濃源氏フォーラム岐阜。
 昨日は岐阜信長まつり。主催者の岐阜市長もまつりの会場からかけつけ登壇し、井沢氏を称えておられました。お二人ともスポーツ好きで、先ごろ開催された高橋尚子マラソンにも出場されています。下の写真は登壇された時のスナップ。

 明智光秀は3日天下と言われているのは何故か、彼は征夷大将軍になりたかったこと、あったかもしれないその任命状を誰かが抹殺したかもしれない、任命の期間が3日だったのか、一週間ほど生き延びたのに、3日が謎であることとか・・・
 明智は謀反人となり、親族は地元では生きられないので、四国に渡り、その末裔が坂本龍馬である可能性が強いこと、何故なら家紋が同じ桔梗であることから・・・坂本という姓に変えた可能性もあり得ること、明智という姓は名乗れないので坂本とした、これは、坂本城は琵琶湖畔の光秀の城であったことからと考えられます。

 四国との関係は、四国の長曾我部に対する打倒命令が信長から発せられた6月2日、同じ日に信長が殺され、その命令は無効となり、四国は救われた、そのこともあり、光秀の親族は四国へ美濃から逃れたと考えられます。四国は信長に滅ぼされるところを、光秀によって救われたという恩があることで快く迎えたであろうこととか・・・

 光秀が信長を殺害したことは、武田にかくまわれていた土岐頼芸は生きながらえて知っていたこと、土岐は斉藤道三に滅ぼされて、越前や下総に移り、最後は信玄に身を寄せていたのです。信玄が滅ぼされた後は、美濃の谷汲に安住の地を求めました。お墓はそこにあるそうです。谷汲には、西国33ヵ所結願の華厳寺があります。その少し奥にミイラのある横蔵寺もあります。

 もしかしたら、徳川家光の光は光秀の光ではないかとも言われていました。
 歴史の裏に隠された興味深い事柄を聞き、楽しい時間を過ごしました。

 感心したのは、井沢氏は、講演会の前日から岐阜に来られ、山深い谷汲の土岐の墓を美しく掃除し、参拝されたことです。無論華厳寺と横蔵寺にも参拝されています。私はこれまで、旅の途中に見つけた琵琶湖畔の寺の明智光秀の墓、京都の秀吉の廟、岐阜の織田氏の髪切塚などには参拝したことがありますが、美濃の守護大名であった土岐頼芸のお墓の場所は知りませんでした。会場の人も殆ど存在をご存知なかったです

 講演会場の建物の南側には、加納城跡があり、城跡の近くに女流書家の酒井さんの住まいがあります。最下段の写真は廊下に飾られていた彼女の作品。詩が書かれています。東京新聞書作展でめざましい活躍をされています。

         
          細江岐阜市長も登壇

                   
                    酒井さんの作品
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内田講師の話 2

2011-07-11 | 歴史
 前回の内容は1/28に書いていますが、再び内田講師のお話を聞く機会を得ました。テーマは、「歴史の見方、考え方」。歴史のとらえ方を西洋、東洋と個別に見るのではなくて、関連性を持たせると興味が倍化します。
 例えば、奈良の三輪山は、山そのものが本殿で、本殿の建物はありません。そのご神体は蛇らしいです。蛇は聖書にも登場します。エバを誘惑して罪を犯させたものは蛇であったと書かれています。
 日本のお正月の鏡餅の形は蛇のとぐろを巻いている姿という説もあります。不思議なことに西洋と東洋が交叉しています。

 ノアの方舟がアララト山に着いたのは、7/17とされています。京都の祇園祭も7/17。ここでも一致するものがあります。京都の広隆寺は太秦にあります。ここでも韓国系の秦氏との関連が考えられます。桓武天皇の実母は、韓国人です。広隆寺近くに太僻(だっぴ)神社があり、このダッピは聖書に出てくるダビテと考えられます。

 聖書に出るヤコブの10人の子の行方は今も分からず西洋のロマンとされ、謎に包まれていますが、一説にはその一人が日本の天皇家と言われています。伊勢神宮の灯篭にダビテの星のマーク(ユダヤ人のマークと言われる)があるからです。

 結論は、20世紀は西洋の物質文明が中心の世紀で、共産主義が生まれ、無神論が支配するようになった。共産主義は怨念の思想。21世紀こそは、アジア的なものの見方で、物質主義でなく神主義を浸透させねば、怨念ばかりが渦巻くという警告でした。
 下の写真は、梅雨明けの空に咲く今年の凌霄花(ノウゼンカヅラ)。記事は、2005.6.22。

 本日7/11は、東日本大震災から4ヶ月目。昨日は、三陸沖でM7.3の余震があり、まだまだ予断を許さない状況です。

   

 

 

 
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