現代において幸せとは・・・
夕ご飯前にテレビを点けると、「現代において幸せとは・・・」ってテレビ番組をしていました。
もの凄く興味があり見ようとしたのですが、「お勤めにお参りしましょう!」ってお誘いを受け消してしまいました。
「幸せ」・・・何なんでしょうね。
今日、ご縁をいただいたところでこんな話になりました。
「今、松を剪定してもらったら幾ら位かかるのかな?」
「松はお金がかかるからな~、大変ぞ!」
「梅の木もあって部屋が暗いのよね」
「もう切ったらいいんよ!死んだ後、手間が掛かることはいらんぞ。この人はいい人やったな~って思うようなモノを残さんといけんぞ!」
とま~、こんな感じの話がされるのです。
ご主人が大切にされていた松、素人ではなかなか手入れが大変です。女性となれば尚のことでしょう。
しかも1年に2度は高額の剪定料が掛かる。
残してあげたいけど・・・
その心を受けられて、要らんものは切ったらいい・・・
そんな迷惑になるようなモノを残すのではなく、邪魔にならず尚且つ便利なモノを・・・
よく分かるお話でした。
肉親の情として愛する人の香りがするものは残しておきたい・・・
でも「生きる」ということになれば話は別になってしまいます。
自分の生きることの中に無駄を見つけようとするのではなく、どこまもそれはキープしつつ他からの無駄を排除する。
私もそうすると思うのです・・・
どこまでも「自分の生きる」をキープしようとする・・・
その上で、気持ち的に余裕があれば・・・物質的に余裕があれば・・・
他を思うことができるかもしれません。
しかし、そこには「幸せ」を語る事はできないのでしょうね・・・
生きてはいけるけれども、喜びはありません。
「どうだい、オレ生きていけてるし!こんだけのもの掴んでるし!」
人を羨ましがらす人生かもしれない、その金に、その地位に沢山の人が群れているかもしれない・・・
そんな人生の中で心から微笑んでくださる人に出会っておられますか?
私の中での「幸せ」ってそこだと思うのです。
どこまでも「生きる」ために「掴む」人生は変わりません。
寂しいヤツだなって思われようとも、きれいごとでは生きていけません。
腹の中が煮えくりかえろうとも一生懸命に微笑もうとします。
こんな汚い人生だからこそ、表面だけでもきれいさをアピールします・・・
「いい人ですね」って言われたいがために、腹の中の心とは違う自分を押しだします・・・
そして掴んでいるのです、いろんなモノを・・・
違う自分を演じているのですから、ウチに帰るとドッと疲れが出ます・・・
「御苦労さま!お疲れでしたね!」って微笑んでくださるあなたに出会うたびにいろんなことに申し訳なく思うことです。
すべてを見抜き微笑んでくださるのです・・・
こんな私が手を合わし、お念仏申させていただいたことを我事として喜んでくださるおはたらき・・・
「幸せ」ってこういうことなのかな~・・・