今日は日曜日
お昼から、いつもの子どもたちがお寺に遊びに来てくれました。
本堂に上がってピアノを弾いたりしていましたが、
「先生、あれやりた~い!!」
「あれって、なあに?」
ほら、あれあれ…と指差したのは、お経机と大キンがあるお導師の席
「あ~、お経読もうかね~」
今日はかわいい三人のお導師さんです
ゴーン、ゴーン(鐘をならす人)
ぶっせつ~あみだきょ~~う(調声の人)
コン(セッタクを打つ人)
「仏説阿弥陀経」を半分まで上手におつとめしてくれました
おつとめのあとは、おにごっこをしたり、お絵かきをしたり…
(これ、私だそうです!)
走って、笑って
おやつも美味しくいただきました
(フルーツパフェ、マロンブッセ添え)
阿弥陀さま…今日はにぎやかでよかったですね~♪
だれか・・・
今日の愛媛新聞「門」欄(読者投稿)に東温市の他宗の僧侶の方が投稿なさっていた。
時々投稿なされるお方で、主に今の寺の有様、僧侶の有様を厳しく指摘されている。
かなり前、ある会の発足の時同席したことがあるお方だと記憶するのですが、その時の会の雰囲気の最悪さにそれっきりであります。
今となってみれば、最初はゴタゴタするものだろうし続けていれば身にもなっていたかもしれないと思わないでもないのですが・・・
どこまでも面倒臭いことの嫌いな私なので・・・
「僧侶も楽でない 悩み聞いて」っていう題でありました。
玄侑氏(作家)の講演を聞かれたとか・・・
氏は、「今日の世情を憂い、その責任の一端は仏教にもある」とおっしゃられたそうです。
人々の宗教心が薄れ、その結果、悩み苦しむ人がおり自殺者も増えている現実・・・
確かに宗教心が薄れているよな~・・・
でも、決してない訳ではなく「生きる」上で都合よく解釈するのでしょう。
平生は「俺、無宗教だから・・・」って決め込んでいるが、
しんどいことが続くと良いことが起こるように神様に、死んでからは仏さまに・・・
受験になればここへ、出産になればあそこへ、病気になれば・・・
都合のいいように・・・そんな宗教心。
そんな時代に、さあ、私に何が出来るのだろう・・・
一度一度の仏縁をいただき、その時その時を一生懸命でお取次させていただいているつもりです。
自らの汚さもさらけ出しお味わいさせていただくひと時。
仏さまに包まれる喜び・・・
今、そこに出遇えたことの幸せ・・・
血圧が上がっているのでしょうか、身体に痺れを感じ、ただでさえ回らない口が酷く縺れることもありながらも、ここ聞いてほしいと口角泡飛ばす勢いの時もある・・・
泣けて泣けて涙が出て、法話どころの話じゃなくなる時もある・・・
私にはこれしかないのです、これしかできないのです。
共に、阿弥陀さまの前に座らせていただきながらお経さん聞かせていただく事しかできないのです。
「阿弥陀さまの前に座らせていただいてお経さん聞かせていただく時が一番ええな~」って恩師がおっしゃった。
私もそう思うからおもいっきり頷けた言葉だった。
そのこと以外に救われる道はないのですから・・・
「生きる」ということは綺麗事ではありません。
腹の中に汚いものをためながら、傷つき傷付けられて「生きる」のでしょう。
金銭、財産、地位、名誉・・・手に掴みそこに生きている証を感じようとする。
儚く消えてしまうようなものばかり追い求める。
「どうよ!俺、こんだけのもの掴んでいるから・・・」ってそこに安心を求める。
「生きる」ということはそうですから・・・
それら一つ一つが「生きる」手段であり目的なのですから・・・
無くては「生きる」ことはできないのですから・・・
ただ・・・何の為に「生きる」のかって言われたらどうする?
働いて働いて、歯を食いしばりながら壁にぶち当たって「生きる」
外面を飾って、良い人間演じて「生きる」
ボロボロになりながらも今日を「生きる」
家族の為、生活の為・・・自分の為・・・
止めどない、為・為・為・・・
そして儚く「生きる」ことを終える。
つまりは「虚しさ」の為に・・・
願わくばこの一生の内に仏さまと出遇えた喜びを感じて欲しい・・・
今ここに参っているこの方は、もうこれっきり仏教に触れることがないかもしれないということを前提に、
御門徒は勿論のこと、あらゆる方々が仏法聞こうって思える環境を仕立て上げるべく、僧侶は全力で一度一度のご縁をお勤めさせていただかなくてはならないのでしょう。
「あれいけん、これいけん」と言いながらいろんな事を指摘する住職の話も聞いたりするが、「先ずいけんのはあんたですから」と思ってしまいます。
まずは手を合わさせていただいた喜びからでしょう・・・
真剣に聞いていただける環境になれば、一つ一つ味わっていけばいい話です。
とは言うものの、儀礼的に終わってしまっているご縁の多さ・・・
これも「生きる」ことの手段なのでしょうか・・・
口角泡飛ばし話したことも聞き入れられず、
「あ~、これで先祖さんも落ち着かれたから安心安心。災いが来ることもないでしょうね。騒がれたら大変ですから・・・」なんて思いで・・・
俺が「生きる」ためにジッとしとって・・・
私の中ではどこまでも自分がご縁をいただいてよろこばせていただくひと時。
決して「お勤めしてやっている」なんて自惚れみたいなものは一切ありません。
だから、人がどう思うともいいようなことではありますが、真逆なことをおっしゃられるとしんどくなります・・・正直なところ。
「さっき言ったでしょ・・・」って。
その文の最後には、「世は今また新たな末世で混迷している。その中でお坊さんの悩みも増えている・・・お坊さん稼業も楽ではない。私の悩みも誰か聞いてくれないだろうか。」
正直なところでしょう・・・
最後だけ妙に頷けてしまいましたが、この方の悩みとは何だったのでしょうか・・・
悩み苦しむ方々の力になれない現実なのでしょうか・・・
それとも・・・自分の「生きる」が見えてしまうのでしょうか・・・
今日も「生きる」ために外面を飾る自分がいます。
この自分を抱えながら仏さまの前に座らせていただきます。
優しく微笑むあなたの前に座らせていただきます。
涙が出ます・・・一緒にいて下さってたのですね。
頬骨が・・・
晩ご飯をいただきながら坊守が言うのです、「頬骨が出てしもうて・・・昨日のサウナが無理したんじゃないの?」
何も言えません、現に無理したのですから・・・
ここで何か言おうものなら、「いい加減にしないと身体を壊しますよ!」って又お叱りを受けることになる。
昨日の温泉に入っている時もそうなのですが、最近鏡を見ると衰えたな~ってマジマジと見てしまうのです。
目も窪み、パッチリ開きません。
よっていつもトロンとした目になっており、瞼には変なラインが入っています。
身体はというと減量のお陰で腹周りは大分スッキリしたものの胸筋が落ちてきて惨めな状態。
鏡に写るこの身体を見ては、腰を傷めるほどトレーニングしたのに・・・と情けなく思うことです。
同年代のご門徒さんに言われます、「会う度に白髪が増えますね~」
「腹の中はもの凄く黒いんですけどね~」っていつもの決まり文句。
あるお寺のご院家さんにいただいた返しなのですが、これを言うと皆さん一応に反応がいいのです。
それは、自らを思い笑われるのか、本当だね住職腹黒いもんねって知られているからなのでしょうか、皆笑ってくださいます。
もうこのようになりますと外観なんてあまり気になりません。
「誰も見りゃせんが~!」って兄に言われながらもスポーツ刈りの頭をセットしていた頃もありました。
昔懐かしい陸上のカール・ルイスやアニメの「北斗の拳」(最近ハマっている)に出てくるファルコのように前髪をビシッと上げ横はデップで撫でつける・・・
そういう時もありました。
確かに誰も見ないのですが、シャレたかったのでしょうね・・・
今は見られます・・・
ビシビシ視線が突き刺さります。
前であろうと、後ろであろうと全方位から見られます。
昔ほどのシャレっ気があればいいのですが、髪は伸ばし放題で白髪は染めず・・・申し訳ないことです。
不愉快にならない程度にはしている気でおるのですが・・・
どうでもいいのです・・・
外観は気になりませんが、外面だけは常に良い印象を持って頂けるように作っています。
これは変わりました・・・
学生の頃は外面を飾るなんてすることもなかったのですが・・・
この顔もしなれない外面に疲れてきたのかもしれませんね。
お前、よくもま~そんだけ顔作れるよな~って・・・本当の顔がチラリチラリ。