宇和島に来たら・・・
この方ともこれまで何度かお会いしてご縁をいただきました。
でも、いつも多くのお参りの中ですからあまり深く話すこともなくご縁のひと時が過ぎていました。
コイツはあまりベラベラと話す方ではありません。
出来れば話したくないという方が近いのかもしれません。
だから、相手の方から話しかけて下さったり問いかけを頂かなかったら話すことはあまりないのです。
かと言ってムスッとしているかといわれればそうではなく、
そこは外面住職の外面住職の所以、
もの凄くいい人の雰囲気を振りまいて接していることです。
そんなコイツ・・・
お墓でのご縁をいただき数キロの道のりをその方の車で過ごさせていただいたことです。
2人きりの車内ですので少し心を開いて下さるように深き思いをお話し下さいました。
御往生なされたご主人のこと・・・
「いろんなことがありました・・・
・・・
・・・
でも、そんな主人のカセットが出てきたのです。
歌の上手な人でした。
いろんなことがあったけど、なんででしょう・・・
歌声を聞きながら泣けて泣けて・・・」
コイツのようなものが返事することもできず、
助手席に座らせていただきながら
ただ、「そうですか・・・」としか言葉が出なくて・・・
もっとらしいこと言えればよかったんでしょうけど・・・
ご縁をいただいた帰り道・・・
コイツに対する思いをおっしゃってくださいます。
「宇和島に行くたびに徳正寺さんのことを思います。
会いたいな~って思うんですよ。
なぜでしょうね、お会いすると爽やかになれるっていうか、元気になれるっていうか・・・
徳正寺さんはそんなお力を持たれていますよ。」って。
ま~そんなことよく書けるな~って言われそうですけど・・・
ま~、これに対しては恥ずかしいばかりでして・・・
言い当てて下さっているのです。
まさにそう見てほしいが故に外面飾るのですから・・・
「いやいや、そんなことありません」って言いつつも鼻高くしているホンマのコイツがいるのですから・・・
昨日の常例でもお味わいさせていただいたのですが、
世間には「坊主憎けりゃ袈裟まで」って言葉があります。
坊主を憎むのはいいのです・・・
でも、それを通して仏さまの大事なお仏具が嫌われるようでは勿体ないことです。
そう考える時、坊主の有様が問われるのであれば外面飾ろうと思うのです。
爽やかさ、優しさ感じれるほど・・・
それでもしお仏具が阿弥陀ほとけが憎まれなくなるのであれば
すすんでコイツは外面住職を決め込むことです。
先日もあるご門徒にお仏壇のお荘厳についてご質問をいただきました。
「住職、ご門徒に言ってやってください。注意してやってください」って。
「すいません、本来なら言うべきことなんだと思いす。
でも、行くなりこれいらん、あれいらんって言うことがはたしてご門徒を教化することになるのかと思うのです。
(先ずそういうところで言うのであれば、一番最初にいらんのはコイツですから・・・)
私が言うことで折角の優しいご縁が嫌な雰囲気になってもつらいので私は言わないのです。
その時その時の思いを大切にしながら過ごしつつ、
そのうちに皆さんいろんなことを尋ねて下さるようになりますので
その時にはご法話の中でお味わいさせていただいています。」
なによりもまず先に・・・
阿弥陀ほとけの深く優しき願いのおはたらきが
今ここに
この私に
響き流れていることを聞かせていただきたものです。
その為に外面飾っていると言えばかっこいいでしょうか・・・
いえいえ、どこまでもコイツの為に外面飾ってますから・・・
ごめんなさい・・・
恥ずかしいことです。
こんなコイツも阿弥陀ほとけの御手の中。
宇和島に来られたらいつでも寄って下さいね。
真実の優しさ・爽やかさいっぱいのお浄土の薫り大切にして待ってま~す。