「終わりのとき」へのサタンの計画!!第2弾
<ダビデの入れ墨を施したハマスのゲリラ:自作自演テロ?!!>
最新の終わりの日の預言によると、
平成20年12月28日夜、主はこう言われた。
「エリエナイよ、彼ら(世の支配者たち)が何をしているか、わたしは見せた。彼らの悪だくみを。彼らはあなたについて、『木をその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。』と言う。
わたしは万軍の主。人のはらわたと心をきわめ、正義をもって裁くもの。わたしはあなたに見せよう、わたしが彼らに報復するのを。あなたは訴えをわたしに任せたゆえに。彼らは言う。『主の名によって預言するな、我々の手にかかって死にたくなければ』と。世の人々は皆こぞって、彼らの力にひざまずいて敬礼したが、あなたは彼らにひざまずかず、敬礼しなかった。」
と、ある。
エリエナイとは『終わりの日の預言』の著者その人である。この連載は、『終わりの日の預言!!⑳最終回』で終えたが、その後も休みなく、啓示は続いている。その内容は、ある人には、難解であり、ある人には、心琴線を捉える響きを持っている。勿論、投稿者は全体意味を解し得ない。解し得ないが、その流れが、人の知恵に依らない真理を含んでいると驚きを持って受け止めている。それについて、検証を希望することは誰でも出来る。公開されているからである。真摯な検証を通じて、議論をするのであれば、喜んで参加を求める。
何事も、陋習(ろうしゅう=悪い習慣)をもって判断してはならない。素の心で、真偽を判断する姿勢が求められる。
現在、転載中の『「終わりのとき」へのサタンの計画』は、その預言に基づいて、明らかにされた、あるいはされつつある、隠された真実の顕現であろうと思われる。そこが、その他の真実暴露記事とは違う。違うけれども、流石、その他の真実暴露努力は、核心に迫っていると感心し、安心した。
この中にはないが、聖書の記述について、多くの改変がある。その事も、別稿で明らかにされている。追って転載する予定であるが、これまで抱いて来、理解に苦しむ聖書の謎が明らかにされるのは、良いことである。
とにかく、旧来の陋習(ろうしゅう=悪い習慣)に囚われて、真実を希求する目を曇らせてはならない。イエスは言っている。
《マタイによる福音書 / 7章 5節
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。》
同時に、その曇りに乗じて暗躍する、闇の計略を正しく知ることは、聡き人間の使命である。
http://homepage2.nifty.com/elienay/index22.html
1800年代、アメリカではユニテリアニズムが隆盛する。これはキリスト教の三位一体論に反対して、神の単一性を主張する立場である。子なる神キリスト
という理解も否定され、人間主義的、博愛主義的なキリスト教がここに誕生する。また、エディ夫人によって「クリスチャン・サイエンス運動」が創設された。
これは神癒(しんゆ)を主張し、病気や苦悩は幻想であると説いて精神治療を行うものである。
1923年にジョージ・ワシントンがフリーメーソンであったことを記念してワシントンに建てられた「ジョージ・ワシントン・メソニック・メモリアルホー
ル」には、これらの記録が保存され、メーソンだった歴代大統領の名前も列記されている。メーソンでない大統領は、ニクソンら、数えるほどしかいない。
メーソンはロシア革命にも、大きな影響を果たしている。帝政ロシアにメーソンが入ってきたのは、18世紀初めのピョートル大帝の時代である。自身も英国
滞在中にメーソンになったというピョートル大帝の支援を得て、イギリス人のジェームス・ケイス将軍は、ロシアに着実にメーソンの思想を普及させていった。
1740年にロシアのグランドマスターになったケイス将軍は、モスクワとペテルブルクを地盤に布教活動を行った。1750年には分散していたメーソン支部を統一するため、モスクワに「ラ・ディスクレシオン」ロッジを設立した。
18世紀のロシアの女帝エカテリーナ2世も啓蒙思想の影響により自国のメーソンに好意的で、その影響で貴族や軍人の多くがメーソン員になった。しかし
メーソンによるフランス革命で君主制の危機を感じたエカテリーナは、1794年に突然すべてのロッジを閉鎖するよう命じた。帝位を継いだ息子のパーヴェル
1世も1797年にメーソン禁止令を出したが、その3年後にメーソン員ヤシュヴィル侯爵らに暗殺された。
19世紀初頭に即位したアレクサンドル1世は、メーソン勢力が強いポーランドを懐柔するため、いったんはメーソン禁止令を解いたが、メーソンによるイタ
リア革命勃発に危機を感じて、1822年に再びメーソン禁止令を出した。しかし1825年12月1日、アレクサンドル1世は謎の怪死をとげ、その1週間
後、「デカブリストの乱」(ナポレオン戦争に出征しメーソン員になった士官らが帝政に反対するロシア内のメーソン結社と結んだ暴動)が勃発。新皇帝のニコ
ライ1世は武力でこの乱を鎮圧し、翌年の4月にさらに厳しいメーソン禁止令を発令した。
この時期、キリスト教は本格的な反キリスト教思想に直面していた。啓蒙思想の中心は『弁証法』のヘーゲルに代表されるが、シュトラウスの『イエス
伝』(イエスの人格とキリスト教の理念を区別したイエス像を論じた)に関する論争から右派・左派・中間派に分かれた。フォイエルバッハは『キリスト教の本
質』の中で、「神は人間の願望の反映である」と論じた。これがマルクスやエンゲルスに大きな影響を与え、マルクスハ「宗教批判はフォイエルバッハを以って
終わった」と言った。マルクスによると、ヘーゲルの弁証法は観念論の枠内でのことで真の意味での矛盾対立、その止揚になっていないと言う。そして、真の意
味での矛盾対立は社会的階級の間のものであるとし、『共産党宣言』をエンゲルスと共に起草する。その第1章には、「これまでのすべての社会の歴史は階級闘
争の歴史である」と記している。宗教は階級闘争において常に支配階級によって悪用されてきたとし、「宗教は人民の阿片(アヘン)である」と指摘したのであ
る。
また、デンマークのキルケゴールも、単なる思弁の世界での弁証法は弁証法の名に値しないと考え、実存主義(人間は未知の世界に、案内者なしに出で立つこ
とができる実存である)を主張する。キルケゴールは、主体性によってのみ(客観性を否定してのみ)絶対なる神は人間に知られるものとなり、同時に人間も主
体性の喪失された状態から脱出して本来的な人間になるとし、そしてこれが人間イエスが神の子キリストであるという逆説にほかならないとした。皮肉なこと
に、迷路に迷い込んでいたキリスト教は彼によって近代神学の活路を見出す。しかし、この思想は教会に対して徹底的に批判的であった。その後、ショーペンハ
ウエル、ベルグソンららがキリスト教に対して批判的な哲学を展開するが、特にニーチェは反キリスト教思想を徹底した。
ニーチェは、キリスト教が伝統的に神に対して人間を「奴隷の道徳」で縛り、生を弱体化させ、彼岸の天国という妄想に憧れさせて、現実世界に否定的にさせ
たとした。しかし神に対するとらわれを人間の心から追放することは不可能である。だから積極的に神を殺してしまわなければならない。そして「神は死んだ」
と宣言した。しかしこのことは、人間が宇宙の中で、神なしに孤独に生存していかなければならないということである。そこで立ち現れるのが「超人」である。
ニーチェは晩年、発狂するが、その思想はナチスに利用された。
そしてキリスト教に大きな衝撃を与えたのがダーウィンの『自然淘汰による種の起源』である。彼の、適者生存と自然淘汰を骨子とした進化論は、人類や生物
の起源が数千年前に神によって創造されたものだというキリスト教の創造論的宇宙観を覆した。ダーウィン自身は「進化は創造主の働きである」と言っている
が、反キリスト教思想に大いに利用されることとなった。
こうした近代思想をカトリックは徹底的に否定した。1864年には回勅『クァンタ・クーラ』を発布して、共産主義・社会主義・自然主義など一切の近代主
義的思想を否定する。しかし、1870年にイタリアが統一され、ローマがイタリア王国の首都になって、教皇の俗権掌握は終わりを告げた。これに抵抗してカ
トリック教会は1869~70年にヴァチカン総会議を開き、教皇無謬説を教理として制定する。これは教皇が「教皇の座」から発した決定は、それ自体におい
て不可謬である(絶対に間違いがない)とする教理であるが、もはや空しいだけであった。1871年、イタリア国会は教皇の身分を保証する法律を通過させ
て、教皇に主権者たる地位・外交交渉権・325万リラの年金を保証した。それに対して教皇ピウス9世はイタリア王を破門し、同法を認めず、ローマ教皇が
ヴァチカンから外に出ない状態が続いた。
カトリックの中にも近代的学問に対して開かれた人々はいて、聖書の批判的研究や、教理の発展についての歴史的考察を行っていたが、カトリック教会はそれ
をすべて異端とし、教皇ピウス10世は1907年の回勅『パスケンディ』で、彼らを破門した。1910年にはカトリックの聖職者から近代主義に反する誓約
書を要求。ピウス11世は、回勅『フマーニ・ゲネリス』によって進化論を攻撃し、1950年には聖母被昇天の教義を宣言した。これは聖母マリアは死後、霊
魂だけではなく肉体をもって昇天したという教義である。
1929年、ローマ教皇とイタシア王国との間にラテラノ協約が結ばれ、ヴァチカン市国が成立した。【転載続く】