久々のブログ「(新)日本の黒い霧」さんの記事転載である
今日は8月13日、
あの忌まわしい日航機123便事故(事変)の翌日だ!
忌まわしいのは、
世界最大の民間航空機災害、
のみならず、
無念の大事変であった!
無念というのは、
無関係に事変に巻き込まれた数多くの乗客の方々であり、
無用の恐怖の裡に最期に立ち至った境遇の哀れである。
その多くは天上に召され、
魂の再起動を果たされていようが、
そうではない迷える魂の群も多く存在するはずだ。
そのためにも、
真実を明らかにする必要がある。
既に、
転載記事にもあるように、
真実は単なる航空機事故ではなく事変である。
そして、
生存者も多くいたはずであるが、
無駄に墜落地点が隠蔽され多くが救出を待つことなく亡くなった。
否、
それ以外にも故意に生命を絶たれた生存者が多数いる。
4名の生存者は、
奇跡的にも長野県警の機動隊に依り助かった。
同時期に見つかった他の生存者は、
杳として知れない。
- 本の抜粋ですが、血が抜けているのはアーミーナイフの出血多量、身体が膨らんでいたのは毒か薬品でしょう (123)※既にリンク切れ
- 2009-10-14 11:03:07
- 現場に到着し遺体を良く見るとマネキンの壊れた感じで血が抜けて白くなっていたり、身体 が膨らんでいた。現場に到着したのは午前10時過ぎで警察や自衛隊が数名いた。そうするとスゲノ沢の一番下の瓦礫が動くような気がし、みんなの注意がそこ に集中した。瓦礫の下から細い手が出た。「あれッ、何か出て来たぞ」と。長野県警レスキュー隊の2名の人にわれわれが「あすこで何か動いたから見て来て欲 しい」と言ったが、その隊員は「エエッ?」と信用しなかったが、そのうち1人が恐る恐る50メートル下に見に降りて行ったら「生存者確認」の声がした。そ こで自衛隊の人が指図して下に降りて行った。
そのうち長野県警レスキュー隊員が瓦礫の中から生存者吉崎博子さんをしょい出して来た。レス キュー 隊員が背中に吉崎博子さんをおんぶしたが急斜面で上がれない。「早く受け取ってください」との声がしたが誰も取りに行かない。「これじゃしょうがない」と 思って自分が5メートル下のそこに行き「こっちに寄こせ」と言って自分の背中に吉崎博子さんを背負ったが、死なせてはならないとこっちは一瞬思った。吉崎 博子さんは瀕死というよりも意識朦朧状態だった。
次に8歳の吉崎美紀子さんを板に乗せて「取ってくれ」となり、少し静かな所へ持って行こうと し た。吉崎美紀子さんの顔はどす黒くなっていたが正気で、「痛い」とかしっかり言っていた。吉崎博子さんはこっちが声を掛けたのが分かっていたようだが、た だ言葉は出なかった。吉崎美紀子さんが脚を怪我したり顎の周りを怪我していたので、これはかわいそうだと思い自衛隊の衛生兵を呼んだ。自衛隊の衛生兵が治 療している間におぶった吉崎博子さんを一旦地面に置いたが、上には人がたくさんいて邪魔な状態だったので、取りあえず担架を作れということで担架を作って 吉崎博子さんを担架に乗せた。
しかし急ごしらえの担架だったので担架が壊れて、吉崎博子さんがドサンと地面に落ちお尻を打った。そしたらパーッと反応があったのでこれならば大丈夫だと確信した。でも吉崎博子さんは血が出て頭の毛が乱れ、腫れていてお化けみたいな大分悪い顔色をしていた。
吉崎博子さんは声が出なかったがわれわれが「しっかり」とか言って励ましたので、こちらが励ましたことによって、いくらかは顔の表情が同じ無表情だが変 わって来たのが分かりました。ほとんど反応はしなかったがそれが反応でしょうね。「生気」が蘇ったような顔つきに変わっていき、眼はほとんど瞑った状態 だったが、そこは生きている人間と人形との差が出た。
新しい担架を急遽作り直しその担架に吉崎博子さんを乗せ、「サァ行こう」ということに なっ たが「どこに生存者を持って行くのだ」となった。ヘリコプターが上で舞っていたので上に持っていけば良いとなり、結果的にはそれが正解だった。吉崎博子さ ん、吉崎美紀子さん、川上慶子さん、落合由美さんの順で救出したことになる。吉崎美紀子さんを上の頂上に上げた時ヘリコプターが巻き揚げる風が凄く、毛布 で風除けをしたらそのうち吉崎美紀子さんは「腹が痛い、苦しい」と言い始め赤銅色・土色になり、見ているのが辛かった。自衛隊の衛生の人も「早くヘリで運 んだ方がいい」と言っていた。
転載した記事だけでも100回に及んでいる。
番外編を加えればそれ以上だ。
何故、転載を始めたか?
転載元のブログ記事に危機感を感じたからである。
「拡散しなければ、このブログは潰される・・・」
当時、正直に思った。
それほどひどいコメント欄の荒れようであった。
その経緯は転載元なり、
転載記事を参照頂ければ幸甚であるが、
真実はやがて顕れるものであるとの信念は変わらない。
事の真偽について、
判断するのは各位にお任せするとして、
その材料に事欠くことはない。
それだけに日航機123事変は、
驚愕すべき物的証拠とその叙事的真実が存在する・・・。
それをどう解するか?
そして、
その事をもって真相を明らかにすることは、
せめてもの供養になることは間違いない。
【転載開始】
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読者の皆様へ
本日は日航機123便が御巣鷹の尾根に墜落し、多数の乗客乗員がお亡くなりになった日です。520名の乗客乗員の他、軍関係者を中心に知られざる多くの命が失われたことが、これまでの調査により判明しています。
墜落推定時刻は18時56分。僅かでよいので、この時刻にお心を御巣鷹の尾根に向けてください。そして二度とこのようなことが繰り返されないようお祈りください。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
ブログ「(新)日本の黒い霧」
管理人 日月土
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31年前の8月12日、私は小型バイクに乗り東京から長野県松本方面に向かい甲州街道を北上していました。夜少し暗くなり始めた頃に目的地に到着したとこ ろ、出会った知人からいきなり「日航機が行方不明になったようだ」と告げられました。その晩、知人宅のテレビで事の成り行きを見守ることになるのですが、 その時は多く方々と同じように、たいへんな事故が起きたものだと思っていました。
■今でも忘れられない異質な報道
テレビでは、番組中に流れるテロップや臨時ニュースなどで行方不明機の墜落地点が段々と特定されていくのですが、その時に墜落予測場所が2転3転し、情報 が錯綜していたのをはっきりと覚えています。日航機関連情報が相次いで報じられる中、今でも忘れることのできない異質なニューステロップが流されました。
「日航機の救助に向かおうとしていた自衛隊員が射殺された」
後にこの報道は誤報として否定されるのですが、救助に向かった自衛隊員が何で射殺されなければならないのか、誤報だとしてもあまりに突飛な話であり、こんな誤報がなされること自体が当時の私には理解不能でした。
■南相木小学校に集結していた自衛隊
同機墜落後も多くの生存者がいたことを証言されたM氏ですが、実はもう一つ重大な事実を証言されています。テレビ報道では未だに墜落地点が判明していな かった頃、M氏はバイクで通りかかった長野県側の南相木小学校のグランドに、自衛隊の部隊が集結しているのを目撃しています。

図1:南相木小学校の位置関係
(赤:南相木小学校、青:墜落現場、楕円:予想主戦場)

写真1:南相木小学校正門
M氏が現場を目指して南相木村の林道終点地点から入山したのが午後9時頃ですから、自衛隊の集結を目撃したのはそれより前ということになります。まさに一 般報道で墜落地点が不明だと大騒ぎしていた頃です。そして、何より不思議なのが、南相木小学校への部隊展開については、公式記録に残されていないことで す。
墜落地点も分からない状況下でそこそこの規模の部隊を展開するのは、普通では考えにくいことです。もっとも、この証言だけではその部隊が日航機の救助が目 的だったかどうかも分かりませんが。少なくとも、自衛隊は南相木村の山間部に関わる何か重大な情報を掴んでいたことだけは類推できます。
本ブログでは米国軍・旧ソ連軍が123便事件に絡み現地に展開し、ごく短時間ではあっても交戦状態が発生しただろうとの説をとっています(詳しくは過去記 事をお読みください)。そして、その主戦場となったのは、墜落地点(御巣鷹の尾根)の西側に続く南相木村の山間地域であり、現在は山ごと土砂が取り除か れ、大規模地下施設である東京電力神流川揚水発電所の一施設である南相木ダムとなっている一帯と推定しています。

写真2:現地で回収した米国U-2偵察機の破片

写真3:現地で回収した旧ソ連Mig-25の破片
米ソ共に当時の高等戦略機を配置している。この早い展開は
事前に日航機撃墜計画を探知していたからこそ可能だった?
南相木小の非公式展開部隊は、当初から救助目的などではなく、これら初期戦闘行動に呼応したものであると解釈するのが、最も合理的な説明なのではないかと思われます。
■偽装自衛隊員と生存者への殺戮行為
123便事件関連記事を書いていて、最も気が滅入るのが生存者に対する非道な行為の数々です。その詳細は「闇夜に蠢く者ーM氏の証言」中に示唆されているだけでなく、M氏の証言を裏付けるように、実際に墜落現場で軍用毒ガス瓶を回収していることが全てを物語っています。

写真4:現地で回収した軍用毒ガス瓶
ここで、昨年の記事「あれから30年、真実が語られる時」に掲載した墜落現場での救出作業中の写真を再掲します

写真5:昨年掲載した写真
ここに映っている自衛隊員の襟元に注目してください。

写真6:全員襟のエッジが張っており、襟章が縫い付けられている。
隊服は全員同じように見えます。ところが、次の写真7を見ると、写真5と少し違うことに気がつきます。

写真7:別の隊員の写真
ここでまた襟元に注目します。

写真8:襟元の比較
①の人物は写真6と同じように襟のエッジが張り、襟章が確認できます。②の人物については襟元の確認はできませんが、肩の位置といい、袖の長さといい、服 装自体が全く身体に合っていないのがわかります。この隊員は普段からこんな不格好な隊服を着用していたのでしょうか?③の人物については襟章がなく、左側 (向かって右側)のエッジが湾曲しているように見えます。

写真9:子供を抱え上げる隊員
写真9は、抱えられた子供がこの時生きていたのではないかとネット上で騒がれたものですが、隊員の襟元に注目すると、襟章はなくエッジのたわみもはっきりと確認できます。

写真10:陸上自衛隊正規品のジャンパー襟元
ここで、全く同じ隊服ではありませんが、比較のために陸上自衛隊正規支給品のジャンパー(写真10)の襟元を見てみます。襟がたわまないよう、襟の裏に しっかりと縫製がなされています。念のため服飾の専門家に、これら以外の写真を含む現場隊員の隊服を見ていただいたところ、明らかに、他と比べ粗雑な縫製 の隊服を着た隊員が混じっているとのコメントをいただきました。
これはどういうことでしょうか?私は、あまりに急な出来事だったため、偽装自衛隊員へ正規品の支給が間に合わず、サイズの確認もままならないまま、粗雑な 急造品が宛がわれたのだと推測しています。また、隊服が異なる者同士が集団で行動していることから、正規の隊服を着ていたとしても、それが必ずしも正規の 自衛隊員であるとは限らないことを意味すると捉えています。
偽装自衛隊員については、123便事件について鋭い分析を著した角田四郎氏の「疑惑」(1993 早稲田出版)に、「大きな石の裏に、着替が詰められた袋が10数人分隠すように置かれていた」という著者本人の証言とも符号します。
では、昼間に堂々と現れたこの偽装自衛隊員は悲惨な墜落現場で何をしていたのか?これについては、M氏の証言に現れた暗視スコープを着用した(見た目)自衛隊員の集団とほぼ同じ目的であっただろうと推察されます。すなわち
(1)不都合な破片の回収と隠蔽
(2)生存者(事件の目撃者)の抹殺
の2点です。認めたくないことでありますが、上記写真が撮影されてることから分かるように、既にマスコミや地元警察、消防団など大人数が現場で活動してい る最中、彼らは目立たぬよう不都合品の回収や、生存者の抹殺を行っていたと考えられるのです。そうであればこそ、最初は7人と報道された生存者が、最終的 に4人となったことにも合点がいきます。そして、その4人(全員女性)は、みな地元消防団員によって発見されています。衆人環視の中でおそらく彼らも手を 下せなかったと考えれば、極めて辻褄の合う話です。

写真11:救出された川上慶子さん(当時12歳)。
彼女の周りに写っているほとんどは上野村消防団や機動隊員であり
(偽装)自衛隊員ではない
写真5、7を見れば分かるように、この自衛隊員たちは、右の胸ポケットに隊服が肩からずれ落ちるほど、重く厚みのある長方形様の何かを忍ばせています。私 の信頼する筋からは、それが「反応型炭素菌カプセル」との情報を得ていますが、本当に炭素菌かどうかは確認する術がありません。しかし、反応型の有毒物で ある可能性は極めて高いと考えられます。反応型とは、使用者に害が及ばないよう、また証拠にならないよう、単体ではそれぞれ無害のA剤、B剤を、人体に投 入する直前に反応させ、毒物として使用するというものです。
彼らは一人の生存者(事件の目撃者)も残したくなかったはずですから。
■なぜ生存者(事件の目撃者)を抹殺しなければならなかったのか?
常識的に物事を考えるならば、衆人環視の下でリスクを犯してまで生存者を殺戮するなどあり得ないことです。これを逆に考えると、リスクを犯してでも生存者が見たものを絶対に世に出してはならないとする、隠蔽側の強い意志を感じます。
それでは、「世に出してはならぬ秘事」とはいったい何だったのか?日本国内における米ソの軍事衝突?日本政府、警察や正規自衛隊を超越する闇組織(コードネーム「クロカモ」)の存在?それもあるのでしょうが、ここまでやる理由としてはまだまだ弱いと言えます。
私はすでにその答に辿り着いていますが、事件から31年経過した今でもその情報を全て開示するのは時期尚早であると考えています。もったいぶってるようで 申し訳ありませんが、その答に至るに必要な予備知識を本ブログ伝えていきますので、ぜひ今後もご愛読のほどをお願い申し上げます。
どうしても答の片鱗が知りたい方は下の写真12をよく見てください。墜落現場で回収した物の一つで、以前にも掲載したのですが、彼らが隠さなければならない何かの意味が、全てこの中に集約しています。

写真12:墜落現場回収物
* * *
本文で偽装自衛隊員という言い方をしましたが、ならば自衛隊は無罪であると言ってる訳ではありません。特別権限を有する超法規組織の言いなりとなり、この 世の非道に手を貸したのは隠しようのない事実だからです。日本国民を守るという当初の誓いはいったいどこに消えてしまったのでしょうか?
冒頭で「射殺された自衛隊員」報道に触れましたが、私は、この話が事実であり、そしてこの隊員こそ命を掛けて国民を守ろうとした本物の自衛隊員であると信 じたいです。123便事件から31年が経過しましたが、今からでも遅くありません。真実を国民に伝えて欲しい。真実を語り許しを求めるならば、私はその方 を全力で守りたいと思っています。
大君の千代よぶたづの一声に御池の鴨も夢さますらむ (昭和十年 貞明皇后)
遠つ祖霊の始りの地より
管理人 日月土【転載終了】
読者の皆様へ
本日は日航機123便が御巣鷹の尾根に墜落し、多数の乗客乗員がお亡くなりになった日です。520名の乗客乗員の他、軍関係者を中心に知られざる多くの命が失われたことが、これまでの調査により判明しています。
墜落推定時刻は18時56分。僅かでよいので、この時刻にお心を御巣鷹の尾根に向けてください。そして二度とこのようなことが繰り返されないようお祈りください。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
ブログ「(新)日本の黒い霧」
管理人 日月土
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31年前の8月12日、私は小型バイクに乗り東京から長野県松本方面に向かい甲州街道を北上していました。夜少し暗くなり始めた頃に目的地に到着したとこ ろ、出会った知人からいきなり「日航機が行方不明になったようだ」と告げられました。その晩、知人宅のテレビで事の成り行きを見守ることになるのですが、 その時は多く方々と同じように、たいへんな事故が起きたものだと思っていました。
■今でも忘れられない異質な報道
テレビでは、番組中に流れるテロップや臨時ニュースなどで行方不明機の墜落地点が段々と特定されていくのですが、その時に墜落予測場所が2転3転し、情報 が錯綜していたのをはっきりと覚えています。日航機関連情報が相次いで報じられる中、今でも忘れることのできない異質なニューステロップが流されました。
「日航機の救助に向かおうとしていた自衛隊員が射殺された」
後にこの報道は誤報として否定されるのですが、救助に向かった自衛隊員が何で射殺されなければならないのか、誤報だとしてもあまりに突飛な話であり、こんな誤報がなされること自体が当時の私には理解不能でした。
■南相木小学校に集結していた自衛隊
同機墜落後も多くの生存者がいたことを証言されたM氏ですが、実はもう一つ重大な事実を証言されています。テレビ報道では未だに墜落地点が判明していな かった頃、M氏はバイクで通りかかった長野県側の南相木小学校のグランドに、自衛隊の部隊が集結しているのを目撃しています。

図1:南相木小学校の位置関係
(赤:南相木小学校、青:墜落現場、楕円:予想主戦場)

写真1:南相木小学校正門
M氏が現場を目指して南相木村の林道終点地点から入山したのが午後9時頃ですから、自衛隊の集結を目撃したのはそれより前ということになります。まさに一 般報道で墜落地点が不明だと大騒ぎしていた頃です。そして、何より不思議なのが、南相木小学校への部隊展開については、公式記録に残されていないことで す。
墜落地点も分からない状況下でそこそこの規模の部隊を展開するのは、普通では考えにくいことです。もっとも、この証言だけではその部隊が日航機の救助が目 的だったかどうかも分かりませんが。少なくとも、自衛隊は南相木村の山間部に関わる何か重大な情報を掴んでいたことだけは類推できます。
本ブログでは米国軍・旧ソ連軍が123便事件に絡み現地に展開し、ごく短時間ではあっても交戦状態が発生しただろうとの説をとっています(詳しくは過去記 事をお読みください)。そして、その主戦場となったのは、墜落地点(御巣鷹の尾根)の西側に続く南相木村の山間地域であり、現在は山ごと土砂が取り除か れ、大規模地下施設である東京電力神流川揚水発電所の一施設である南相木ダムとなっている一帯と推定しています。

写真2:現地で回収した米国U-2偵察機の破片

写真3:現地で回収した旧ソ連Mig-25の破片
米ソ共に当時の高等戦略機を配置している。この早い展開は
事前に日航機撃墜計画を探知していたからこそ可能だった?
南相木小の非公式展開部隊は、当初から救助目的などではなく、これら初期戦闘行動に呼応したものであると解釈するのが、最も合理的な説明なのではないかと思われます。
■偽装自衛隊員と生存者への殺戮行為
123便事件関連記事を書いていて、最も気が滅入るのが生存者に対する非道な行為の数々です。その詳細は「闇夜に蠢く者ーM氏の証言」中に示唆されているだけでなく、M氏の証言を裏付けるように、実際に墜落現場で軍用毒ガス瓶を回収していることが全てを物語っています。

写真4:現地で回収した軍用毒ガス瓶
ここで、昨年の記事「あれから30年、真実が語られる時」に掲載した墜落現場での救出作業中の写真を再掲します

写真5:昨年掲載した写真
ここに映っている自衛隊員の襟元に注目してください。

写真6:全員襟のエッジが張っており、襟章が縫い付けられている。
隊服は全員同じように見えます。ところが、次の写真7を見ると、写真5と少し違うことに気がつきます。

写真7:別の隊員の写真
ここでまた襟元に注目します。

写真8:襟元の比較
①の人物は写真6と同じように襟のエッジが張り、襟章が確認できます。②の人物については襟元の確認はできませんが、肩の位置といい、袖の長さといい、服 装自体が全く身体に合っていないのがわかります。この隊員は普段からこんな不格好な隊服を着用していたのでしょうか?③の人物については襟章がなく、左側 (向かって右側)のエッジが湾曲しているように見えます。

写真9:子供を抱え上げる隊員
写真9は、抱えられた子供がこの時生きていたのではないかとネット上で騒がれたものですが、隊員の襟元に注目すると、襟章はなくエッジのたわみもはっきりと確認できます。

写真10:陸上自衛隊正規品のジャンパー襟元
ここで、全く同じ隊服ではありませんが、比較のために陸上自衛隊正規支給品のジャンパー(写真10)の襟元を見てみます。襟がたわまないよう、襟の裏に しっかりと縫製がなされています。念のため服飾の専門家に、これら以外の写真を含む現場隊員の隊服を見ていただいたところ、明らかに、他と比べ粗雑な縫製 の隊服を着た隊員が混じっているとのコメントをいただきました。
これはどういうことでしょうか?私は、あまりに急な出来事だったため、偽装自衛隊員へ正規品の支給が間に合わず、サイズの確認もままならないまま、粗雑な 急造品が宛がわれたのだと推測しています。また、隊服が異なる者同士が集団で行動していることから、正規の隊服を着ていたとしても、それが必ずしも正規の 自衛隊員であるとは限らないことを意味すると捉えています。
偽装自衛隊員については、123便事件について鋭い分析を著した角田四郎氏の「疑惑」(1993 早稲田出版)に、「大きな石の裏に、着替が詰められた袋が10数人分隠すように置かれていた」という著者本人の証言とも符号します。
では、昼間に堂々と現れたこの偽装自衛隊員は悲惨な墜落現場で何をしていたのか?これについては、M氏の証言に現れた暗視スコープを着用した(見た目)自衛隊員の集団とほぼ同じ目的であっただろうと推察されます。すなわち
(1)不都合な破片の回収と隠蔽
(2)生存者(事件の目撃者)の抹殺
の2点です。認めたくないことでありますが、上記写真が撮影されてることから分かるように、既にマスコミや地元警察、消防団など大人数が現場で活動してい る最中、彼らは目立たぬよう不都合品の回収や、生存者の抹殺を行っていたと考えられるのです。そうであればこそ、最初は7人と報道された生存者が、最終的 に4人となったことにも合点がいきます。そして、その4人(全員女性)は、みな地元消防団員によって発見されています。衆人環視の中でおそらく彼らも手を 下せなかったと考えれば、極めて辻褄の合う話です。

写真11:救出された川上慶子さん(当時12歳)。
彼女の周りに写っているほとんどは上野村消防団や機動隊員であり
(偽装)自衛隊員ではない
写真5、7を見れば分かるように、この自衛隊員たちは、右の胸ポケットに隊服が肩からずれ落ちるほど、重く厚みのある長方形様の何かを忍ばせています。私 の信頼する筋からは、それが「反応型炭素菌カプセル」との情報を得ていますが、本当に炭素菌かどうかは確認する術がありません。しかし、反応型の有毒物で ある可能性は極めて高いと考えられます。反応型とは、使用者に害が及ばないよう、また証拠にならないよう、単体ではそれぞれ無害のA剤、B剤を、人体に投 入する直前に反応させ、毒物として使用するというものです。
彼らは一人の生存者(事件の目撃者)も残したくなかったはずですから。
■なぜ生存者(事件の目撃者)を抹殺しなければならなかったのか?
常識的に物事を考えるならば、衆人環視の下でリスクを犯してまで生存者を殺戮するなどあり得ないことです。これを逆に考えると、リスクを犯してでも生存者が見たものを絶対に世に出してはならないとする、隠蔽側の強い意志を感じます。
それでは、「世に出してはならぬ秘事」とはいったい何だったのか?日本国内における米ソの軍事衝突?日本政府、警察や正規自衛隊を超越する闇組織(コードネーム「クロカモ」)の存在?それもあるのでしょうが、ここまでやる理由としてはまだまだ弱いと言えます。
私はすでにその答に辿り着いていますが、事件から31年経過した今でもその情報を全て開示するのは時期尚早であると考えています。もったいぶってるようで 申し訳ありませんが、その答に至るに必要な予備知識を本ブログ伝えていきますので、ぜひ今後もご愛読のほどをお願い申し上げます。
どうしても答の片鱗が知りたい方は下の写真12をよく見てください。墜落現場で回収した物の一つで、以前にも掲載したのですが、彼らが隠さなければならない何かの意味が、全てこの中に集約しています。

写真12:墜落現場回収物
* * *
本文で偽装自衛隊員という言い方をしましたが、ならば自衛隊は無罪であると言ってる訳ではありません。特別権限を有する超法規組織の言いなりとなり、この 世の非道に手を貸したのは隠しようのない事実だからです。日本国民を守るという当初の誓いはいったいどこに消えてしまったのでしょうか?
冒頭で「射殺された自衛隊員」報道に触れましたが、私は、この話が事実であり、そしてこの隊員こそ命を掛けて国民を守ろうとした本物の自衛隊員であると信 じたいです。123便事件から31年が経過しましたが、今からでも遅くありません。真実を国民に伝えて欲しい。真実を語り許しを求めるならば、私はその方 を全力で守りたいと思っています。
大君の千代よぶたづの一声に御池の鴨も夢さますらむ (昭和十年 貞明皇后)
遠つ祖霊の始りの地より
管理人 日月土【転載終了】