草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

二匹目のドジョウ

2024-01-30 09:03:41 | 草むしりの幼年時代

二匹目のドジョウ

 昨日は子牛を競り市に出した時のことを書きました。書いているうちに当時にことを色々と思い出しました。子牛が生まれると庭に柵をして、子牛を放し飼いにしていたこと等々。なんだか家が牧場になったみたいでした。

 しかし子どもが下手に近づくと親牛が興奮するので、遠くから見るだけでした。柵の中を子牛がぴょんぴょんと飛び跳ねていたことや、親牛の乳を飲んでいたのも思い出しました。

 それからしばらくして子牛が大きくなると、左右の鼻の穴の間にある壁に穴を開けて、鼻輪(はなわ)を通します。当地では鼻輪のことを「鼻グリ」と呼んでいました。鼻グリをするともう子牛も一人前?になります。

 それからすぐに売られるのですが、立派な子牛が生まれると品評会に出したりもしました。  

 いつもは腿のあたりに糞をこびりつけているですが、前日からブラシをかけられた子牛の茶色の毛がつやつやと光っていました。爪や角も磨かれピカピカで、尻尾なんかクルクルと内巻きカールがかかっていました。父と友人二人が、前日から牛を磨きあげていたのです。

 当日はトラックの荷台に乗せられて、子牛はクリンクリンの尻尾を振りながら会場に向かいました。その後どうなったかは覚えていないのですが、たぶん入選はしなかったのでしょう。いつもと変わらず、淡々として夕餉の食卓に着きましたから。

「一度だけ子牛が賞を取ったことがある」と後年母に聞いたとこがあります。たぶんあの時は二匹目のドジョウを狙っていたのでしょうね。子牛を磨き上げる大人たちの目の色が違っていました。


牛の競り市

2024-01-29 10:29:29 | 草むしりの幼年時代

 牛の競り市

 先日は当地で栽培している七島蘭(しちとうい)について書きました。当時この七島欄で作る畳表を買い付けに来る人のことを筵買い(むしろかい)と呼んでいました。

 久しぶりにそんな言葉を思い出したせいか、牛の買い付けに来る人のことを「ばくろう馬喰?博労?」と呼んでいたのも思い出しました。

 私が子供のころはまだどこの家でも飼っていました。牛を売るときは博労さんが直接家に来て買っていくとこもありましたが、競り市に出すこともありました。競り市には一度だけ連れていってもらったことがあります。 

 その日は土曜日だったと思います。学校に母が迎えに来て、そのまま競り市の会場に行きました。いつもの通学路の途中で横道に入り、墓地の中を通る坂道を上りきると、急に草原が広がっていました。

 いつも見ている山の上にこんな所があるなんて、思いもよりませんでした。草原は広くて牧場のようでした。けれども一番驚いたのは牛と人があふれんばかりにいたことでした。

 おそらく町内だけではなく近隣の町からも来たのでしょう。会場は牛の鳴き声と人々の話し声がごっちゃ混ぜになって、活気にあふれていました。

 大勢の人々の中に父の姿がありました。いつもと違って少し興奮気味で、顔が赤らんでいました。顔見知りなのでしょうか、誰か話をしていました。

「いい値で競ってな!」

 と言って父は牛をひいて、競りの会場の中に入って行きました。父が牛をひいて会場をぐるぐるまわると、あちこちから声があがりました。

 果たしていい値がついたのでしょうか?競り市に行ったのは、後にも先にもその時だけです。けれども人と牛がたくさんいたあの時のことは、忘れることはありませんでした。

 もしかしたらあれは幻だったのでは、と思うこともあります。今では建設会社の資材置き場になっていると聞きました。そう聞くとあれはやはり現実にあったのだと思います。


冬の思い出

2024-01-27 16:13:41 | 草むしりの幼年時代

冬の思い出

 当地は昔から七島井(しっとうい)と呼ばれる、畳表の材料になる植物の栽培が盛んでした。

 以前はどこの農家でも栽培していましたが、ほとんどの農家がやめてしまいました。我が家も私が小学生の時くらいまでは栽培していました。

 止めてしまったのは植え付けから製織まで、すべての作業が手作業だったことも大きな原因のように思えます。

 七月の末ごろからの刈り取り、分割、乾燥作業のことは、以前同じカテゴリー内の「真夏の夜の思い出」に詳しく書いたことがあります。今でこそ懐かしい思い出ですが、当時は過酷と表現した方がいいような重労働でした。

 そして仕事はそれで終わりではなく、畳表に製織する仕事が待っているのです。製織の作業を担うのは主に女性で、我が家でも母の仕事でした。

 当時畳表の製織作業のことは「筵を打つ」(むしろをうつ)と言い、製織機は筵機(ムシロバタ)と呼んでいました。そして時期は主に冬の農繁期でした。ただしどれも記憶がおぼろで、はっきりとしたことは覚えていません。

 学校から帰ると母は土間で筵打ちをしていました。筵機は布を織る機織り機を縦にしたような造りになっていて、縦糸が麻で横糸が乾燥させた七島井で、布を織る要領で筵を打っていくのです。

 カウンターチェアーのような足の高い椅子にこしかけて、二枚の板を交互に踏んで機(はた)を動かして製織します。

 足で板を踏むところが、室内で歩行運動をするときの足踏みステッパーによく似ています。この足踏みステッパーは15分踏むと50Kcal消費しますが、筵機の方は畳表を織るほどの大きな機ですから、それを動かそうとするともっと力がいったのではないでしょうか。

 たぶん筵打ちも足踏みステッパーと同じ有酸素運動だと思います。その頃の母の写真を見ると痩せています。やがて電気のモータがとりつけられ、座っているだけで製織ができるようになりました。

 ちょっとした産業革命ですね。おかげで作業がはかどったのか、母は筵を打っていないときは、編み機の前に座って毛糸の服を編んでいました。冬の時期の母といえば、筵機か編み機の前に座っているというイメージがあります。

 打ちあがった畳表は十枚をひとまとめにして丸められ、縄で括っておりました。それが何個かたまると業者が来て買って行きました。

 当時の農家にとっては貴重な現金収入でした。母が嬉しそうな顔をしていたのを覚えています。

 この業者のことを当時は筵買い(むしろかい)と呼んでいました。家に来るのは近所の人でちょっと面白い人でした。でも筵の買い付けの時は、いつもと違って厳しい顔をしていました。車輪が前に一個後ろに二個ついた、三輪車型の小さなトラックに乗っていました。

 家が七島を作らなくなった頃その人もやめてしまいました。たぶんその頃どこの農家もやめてしまったのでしょう。

 さてこの七島井ですが、当地でしか栽培されていない貴重な品種の植物です。出来上がった畳はとても丈夫で、柔道畳として広く利用されてきました。東京オリンピックの柔道会場にも使われました。

 このような優れた特性をも七島を絶やしてならないとう強い志の下、今でも数件の農家が栽培していています。また七島井は七島蘭(しちとうい)として知的表示保護制度に登録されています。


まだ子ども

2024-01-16 15:53:38 | 草むしりの幼年時代

まだ子ども

 昨日はほんとに寒かったですね。日中は天気が良くて家の中は暖かかったのですが、外は風も吹いていて寒かったです。午前中に近くの公園に遠回りして行き、ウォーキングコースを4周しました。前日は3週だったので、少しだけ増やしました。

 午前中の公園には元気に遊ぶ子供の姿はなく、閑散としていました。落ち葉の溜まったあたりには、鳩の群れがしきりに落ち葉を脚でかいていました。きっと食べ物を捜しているのでしょうね。

 鳩の群れに近くにには数羽の雀もいて、同じように落ち葉をかいていました。ただ縄張りがあるのでしょうか、鳩とは一定の距離を取っていました。鳩の方も決して雀を攻撃したりはしません。

 双方のリーダーが賢いのでしょうか、それとも同じところで同じ餌を獲る異種の者同士、相手のテリトリーを侵さないような気づかいが自然に備わっているのでしょうか。人間も見習わなければなりませんね。

 雀の群れを見ていたら、不意に父親との思い出が浮かんできました。

 あれは今日みたいに北風の吹く寒い日でした。学校から帰ると、父がいたのを思い出しました。その頃まだ父の仕事先には夜勤があり、たぶんその日は夜勤明けだったのでしょう。

 とても寒い日で、雪もちらちら舞っていました。当時家には内所(ないしょ)と呼ばれる炊事場があり、竈で煮炊きをしていました。竈の後ろには囲炉裏がありましたが、このころにはもう使っていなかった気がします。

 普段は学校から帰ると勝手口から入るにですが、その日は内所から入っていきました。いつも家にいない父がいたからでしょう。  

「寒かっただろう」と父はいい、温かなお湯を飲ませてくれました。たぶん砂糖をお湯で溶いたものだと思います。当時はジュースなども無かったので、よく砂糖をお湯に入れて飲ませてもらっていました。

 父はその時たぶん囲炉裏にあたっていたのでしょうね。家の中がとても暖かかった記憶があります。砂糖湯を飲んでいると、父が見てごらんと牛小屋の餌箱を指さしました。当時は草と藁を小さく切って、それに糠をまぶしたものが牛の餌でした。たぶん餌箱の中の糠を雀が食べにきたのでしょう。

 たくさん雀がいた気がします。そして餌箱から少し離れた地面には丸い竹籠が細い棒に立てかけられていました。かごの下には米がまかれ、籠を支える棒の下の方は糸が結ばれていました。

「つかまえてやるからな」

 糸を結びつけた棒を握って父が私に言いました。ごくりと息をのみ私は静かに頷きました。

 なんて馬鹿な親子でしょう。後にこのやり方ではでは絶対に鳥は捕まらないと、聞いた覚えがあります。いい歳をして父はなんて子どもじみていたのだろうと、思い出すとおかしくなってきました。

 ただ考えてみれば当時父はまだ三十そこそだったはずです。三十なんて今の私から見れば、子どもも同然です。その時父はまだ、半分子どもだったかもしれませんね。

 結局雀は捕れたませんでしたが、あの時の雀は今の雀よりも大きかった気がします。


麦踏

2024-01-12 11:08:17 | 草むしりの幼年時代

麦ふみ

 今朝は冷え込みましね。冬の朝といえば昔は霜ですね。今朝は降りたのでしょうか?

 初めて東京に出てきた冬、霜柱の大きさに驚いたことを思い出します。生家で目にする霜柱とは比べ物にならないくいの高さの氷の柱でした。

 当地は瀬戸内海に面した温暖な気候ですが、それでも昔は年に数回は雪が積もったりもした。毎朝霜柱を踏んで学校に行った覚えもあります。ただ東京の霜柱と比べると高さは1㎝くらいで、踏みつけた時はいいのですがその後すぐに溶けてしまい、靴が泥だらけになっていました。

 さてその頃ですが、冬場には麦を栽培していました。当時どこの農家でもそうでしたが、冬場は田んぼで麦を栽培していました。夏の場は米、冬場は麦の二毛作ですね。社会の授業で習いました。

 ですから霜と麦とが出てくれば、連想するのは当然麦踏ではないでしょうか。横に蟹さん歩きをしながら一家総出で麦ふみする光景は、中高年の方なら一度はテレビのブラウン管を通じて見たことがあるのでは?

 しかし当地では当時、麦は踏まずに根元に鍬で土を寄せていました。一家総出の作業で、姉や私も行った覚えがあります。ただ何分幼かったゆえすぐに飽きてしまいました。

 その時父が麦踏みの話をして、踏んでもいいと言いました。鍬で土を寄せるより、その方が楽です。喜んで踏んだ記憶があります。ただしばらくすると飽きてしまい、その上踏んだ後から親に土を掛けなおされていました。

 たぶん本物の麦踏を見たことがなかったから、しっかり踏めてなかったのでしょう。ただ今になって思い出すと、その一家総出のメンバーの中に、祖父の青白い顔があった気がしてならないのです。

 若い頃肋膜を患ったせいでしょうか。それとも長男である父とそりが合わなかったせいでしょうか。祖父は一人で隠居と呼ばれる離れに住んで、私たち一家とは距離を置いていました。子守もしなければ百姓仕事もしなかったと聞いていました。

 当時私は祖父のことを爺じ(じいじ)と呼んでいました。目をつぶると麦畑が広がり、中央の方に父や母がいて、その端の方に爺じがいるのです。下を向いて鍬を振るいながら、麦を踏む私を横目で見ているのです。

 その時爺じ手には、木製の鍬が握られていました。持ち手だけではなく本来は金属であるべき鍬の部分も木でできており、申し訳程度に先の方に薄い鉄製の刃が取り付けられていました。

 「変な鍬だ」と私が言ったら「麦に土を寄せるには、これが軽くっていいのだ」と言ったのは、爺じだった気がします。

 後年母と野菜作るようになってから、一度だけ畑の隅に小麦を少し植えたことがあります。その時その鍬を引っ張りだして土寄せをしましたが、それほど軽くもなければ使いやすくもなかったです。おそらく鍬が家族の分なくて、仕方なく使っていたのではないでしょうか。 

 あの鍬はいったい何だったのでしょうか。爺じはとっくに亡くなってしまったのに、今でもあの鍬はあります。田植え綱や田んぼの中を押して使っていた草取り。牛のひかせていた「牛んが」「まんが」と一緒に、倉庫の一角に私が並べました。

 まったく私の頭の中には爺じの思い出がいっぱい隠されているようです。これが埋蔵金だったら、必死に探すのですが……。ぼちぼち捜すと致しましょう。