草むしり作「わらじ猫」後5
大奥のお局さま 一心堂誕生秘話①
―今日もまた暑くなりそうだな。
若い俸手振りが恨めしそうに空を見上げて、溜息をついた。河岸に並んだ魚に朝日が照らし、魚屋たちは仕入れた魚を慌てて桶に仕舞った。早々に仕入れの終わった仲間を尻目に、太助はまだ仕入れを済ませてはいなかった。商売道具の桶を担いだまま、一点を見つめなにやら考え込んでいる。
太助のが見ていたのは、目方にして百貫はあろうかと思われる巨大な黒鮪(まぐろ)だった。その日一番の大物が水揚げされて、河岸はにわかに活気づいた。ところがそれでなくても傷みやすい鮪は、このところの暑さも手伝って、二足三文で買い叩かれしまった。鮪はその場で切り身にされ、赤身の部分はすぐに買い手がついたが、腹の部分の脂の多いところは、見向きもされなかった。せっかくの大物を二束三文で買い叩かれて、半ば自棄(やけ)気味で鮪をさばく漁師たちの周りには、河岸に住み着くノラ猫どもが集まって来た。
「ほらよ」若い漁師が猫に腹の身を投げてやっていた。地面に落ちた切れ端に我先にと群がる猫たち。一匹がすばやく漁師の投げた切り身をくわえて走り去った。用心深く周りを見回すと、太助の足元で食べ初めた。
「旨いかい」
旨そうに食べている猫に、太助が声を掛けた。猫は鮪を頬張りながら律儀に返事をした。
「うニャー、うニャー」
「そうかいそんなに旨いのかい。じゃあおいらも長屋の猫に食べさてやるよ」
太助は詰め込まれるだけの鮪の腹の部分を、桶に入れると河岸を後にした。
途中で馴染みの握り飯屋に出会ったので、土産にいなり寿司を包んでもらった。濃い口の醤油で甘辛く炊いた油揚げと、酸っぱめの酢飯を一緒にほお張ると口の中でちょうどいいくらいの甘酸っぱさになる。このごろでは握り飯よりも、いなり寿司のほうがよく売れるようだ。
男はこれで最後だからと言って、一つ余分に包んでくれた。気を良くした太助は、猫の餌にでもしなと、桶の中の鮪を少し分けてやった。男は知り合いの飴屋の猫に持って行こうと言い、喜んで持って帰っていった。
「お前さん、こんなもの何にするの。この暑さじゃすぐに痛んでしまうし、鮪なんて誰も喜びはしないわ」
女房のお仲が、太助の桶の中の鮪を見て呆れた顔をした。
「猫の餌に出来ないかと思ってなぁ」
太助はいなり寿司の包みを差し出しながら、このところ河岸に大量に出回るようになった鮪で猫の餌を作れないだろうかと話し始めた。
夏場になると魚はすぐに傷んでしまうし、時化が続くととたんに魚が値上がりをする。 反対に大漁のときは余って腐らせてしまう。鮪は特に傷みやすく他の魚のように干物や塩漬けにもできない。おまけに江戸っ子の口には合わない。
「けどよ、あんな大物。それこそ漁師は命がけで獲っているんだぜ。それを捨てちまわなくちゃならないなんて、気の毒じゃないか」
太助の考えは、捨てられてしまう鮪の腹の部分を猫の餌にしたいのだ。それも何がしかの工夫をして、腐らせずに保存のきく餌を作りたいのだ。怪訝な顔をして太助の話を聞いていたお仲だったが、太助がいなり寿司を差し出したとたんにとしてニコニコ食べ始めた。一方太助の方はそう言い出したものの、どうした物かと考えこんでいる。
「まずは湯がいて、干してみましょう」
大きないなり寿司を三つ、全部一人で平らげてしまったお仲が言い出した。
試しに切り身を湯がいてはみたのだが、鮪の脂が溶け出し鍋がギトギトになってしまった。貧乏所帯で鍋はこれ一つきりしかなく、「これでは明日の朝の味噌汁が飲めなくなってしまう」と太助が途方にくれていると、お仲が米ぬかを一掴み振り入れて井戸端持って行った。お仲は脂を吸い込んだ糠を手で書きだすと、井戸端で鍋を水で洗いはじめた。いつものように煤の付いた鍋底まで綺麗に洗い終わって、足元の気配に気づいた。
なんと鮪の脂のしみこんだ米ぬかを、どこからともなくやって来た猫が、旨そうに食べている。
「猫が糠を食べている。美味しいのかしら」
お仲の声が聞こえたのだろうか、猫が返事をした。
「うニャー、うニャー」
糠はおなつの最初の奉公先の米屋から、太助がもらってきていたものだった。おなつが大久保屋に奉公替えをしてからも、太助は古くからいる女中とは妙に馬が合い、そのまま出入りを続けていた。米屋のおかみさんは、おなつが大奥に奉公に上がったのを自分のことのように喜んでいた。古くからいる女中などは、自分が最初に仕込んだのだと鼻高々だ。
女中は所帯を持った太助に、事あるごとに米ぬかを持たせてくれた。生臭いとおかみさんに嫌われるから、湯屋には毎晩必ず行って糠袋で体をよく洗えというのだった。太助は湯屋には毎日行って体を洗うように心がけてはいるが、糠で洗ったことなどは無かった。
女じゃあるまいし糠袋なんかで肌なんか磨けるものかと思いながら、くれると言う女中の言葉には逆らわなかった。そのために大量のぬかが土間の隅に置いてあったのだった。
それから二人してしばらく猫の餌ばかり作っていた。やっとそれらしき餌が出来上がった頃には、所帯を持ってから二度目の正月を迎えていた。
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