草むしり作「わらじ猫」前15
㈡吉田屋のおかみさん⑨
とんだマムシ騒動で尻餅をついたものの、大奥様はすぐにもとに戻られた。吉田屋の子どもたちは姉のお糸、信二と順に大奥様にご挨拶申しあげ、最後はお里の番だった。お里は来る途中でおかみさんに教えられとおりの挨拶をすると、ちょこんと手を前について深々頭をさげた。
「はい、よく出来ました」
大奥様はパチパチと手を叩いてお里をほめた。
「ところでお里は、ご飯のおかずは何が好きなんだい。」
ちょっと考えこむとお里は「はい、うーんと。卵焼きです」と答えた。
「それじゃぁ、おとっつぁんとおっかさんどっちが好きだい」
「えっと、おなつが好きです」
今度は考え込むことなく答えた。
「おやおなつだって、さっきわたしを負ぶってくれた女中かい。お里はおとっつぁんやおっかさんよりも、おなつが好きなのかい」
お里はおなつのことを思い出したのだろうか、それともこれ以上行儀よくしているのに飽きてしまったのだろうか。そわそわと落ち着きがなくなった。
「おっかさん、おいら小便したくなった」
信二も我慢の限界にきているようだ。
「なんだいこの子は、さっき行ったばかりじゃないかい。大奥様申し訳ありません」
おかみさんははずかしそうに大奥様に向かって頭を下げた。
「なあに、子どもなんて皆そんなものさ。堅苦しい挨拶はそれまでにして、お昼の用意が出来るまで、少し遊んでおいで。お秀、お仲にこの子たち少し遊ばせてやるように言っておくれ。それから子どもたちのお膳には卵焼きも付けてやっておくれ」
女中頭のお秀は大奥様に命じられ、子どもたち外に連れ出した。子どもたちの足音が廊下の向こうに消えていくと、騒がしかった部屋の中が急に静かになった。
「何かあったのかい」
そう切り出したのは大奥様のほうだった。
「何だって、自分のことは棚にあげて猫に仕返しとはね」
大奥様はおかみさんの話を聞いて、そんなおかしな話があるものかと思った。しかしさっき自分も危ないところを助けられたのを思い出した。
お仲の叫び声と同時に、目の前に猫が飛び出して来た。何が起こったのだろうと思う前に、お仲が叫んだことのほうに驚いてしまった。下手をすると、もう少しでお陀仏になるとこだった。マムシが出たのと、猫が現れたのが偶然ではないような気がした。
「あの猫のことなら、心配ないと思うがね」
「タマのことについては、わたしもそれほど心配はしていないのでございます。ですが坊主にくければ袈裟までにくいって諺もございます」
「袈裟までって、おなつのことかい」
「はい、大奥様。体が大きい分どうしても年より上に見られてしまいますが、まだ十二になったばかりでございます」
「何だって、まだ十二なのかい。それじゃお糸よりも歳が下じゃないかい。私はてっきりもう十五~六だと思っていたけどね。そういわれてみればそうかもしれないね」
大奥様はちょっとボッとしたような、おなつの顔を思い浮かべた。
「今でこそだいぶ娘らしくなってまいりましたが、奉公に上がった当初は頭と胴体ばかりが大きくて、それに手足が付いているような、なんだかおかしな子どもでした。それでも近頃では手足のほうが急に伸びてきて、だいぶ娘らしくなってまいりました」
「うん~。まあそれは結構なことじゃないかい」
「だから心配なのですよ。タマの代わりにおなつに何かするのじゃぁないかって」
「まあ、でもあの子は見た目ほど馬鹿じゃないよ」
「それはそうでございますが…。信二のこともありますし」
「信二のいったい何が心配なんだい」
「まあ、子どもの言うことを真に受けるほうもどうもとも思いますが」
おかみさんは大奥様に近づく、耳元でなにやらひそひそと話し始めた。
「お前それは考えすぎかもしなれないよ。おなつはただ子どもに好かれるだけだよ。 現にお里だって親のお前さんたちを差し置いて、おなつが好きだって言うくらいだからね」
大奥様はしばらく黙ったまま首を斜めに傾けて考えこんでいた。
「ただね…。このまま一緒に大人になるのも、考えものだね」
「取り越し苦労と言ってしまえば、それまでなのですがね」
「お前さんがそんな心配をするようになったなんてね。そろばんをはじいているほうが性に合っているって、ついこの間まで言っていたのにね。子どもなんかそっちのけで、帳場に座っているものとばかり思っていたがね。十にもならない息子の色恋沙汰の心配をするなんぞ、結構いい母親じゃないか」
「いえ、そんな色恋沙汰などとは思っていないのですがね、先に行って可哀相な思いをさせるのじゃぁないかと思いまして」
「下の二人はまだ手がかかるからって、いつもはお糸しか連れてこなかったのにね。それが今年は珍しく三人連れて来るって言うから、どうしたのかと思ったらそんなことかい。だったらこの大久保屋で面倒見ようじゃないかい。お前さんもそのつもりでおなつを連れてきたのだろ。おまけに猫までついてきて。おかげでこっちは命拾いしたがね。猫についちゃお前から色々と聞かされているからね、あの猫が来るのならこっちは願ってもないよ」
おかみさんはホッとしたもの、すぐにこれから起こる騒動を思うと、ちょっと暗い気持ちになっていた。
「大奥様よろしいでしょうか」
障子越しに女中頭のお秀の声がした。
「おや、もうお昼の用意が出来たのかい」
ふすまを開けて入って来たお秀だった。
「食事の方は、もう少しお待ちください。だんな様から吉田屋の奥様に、先ほど大奥様お救いいただいたお礼を託ってまいりました。かつお節でございます。『猫に食べさせてやってくれ』とおっしゃっておいででした」
お秀は赤い水引のかかった木箱を差し出した。
「まあ、申し訳ございません。猫にまで気を使っていただきまして。でもだんな様にお伝え下さい。あの猫はどうした訳か、汁掛け飯しか食べません。せっかくお心づかい頂いたのに申し訳ありません。せっかくですので、これは飼い主のおなつに頂きたいと存じます」
「承知いたしました。だんな様にお伝えしておきます。それと後もう一つ、だんな様からの言いつかっております。『先ほどの猫は子どもを産んだと聞いたが、できれば一匹貰えらないだろうか』と仰せでした」
「何だね、人に託けるばかりで。頼みごとがあるのなら、こっちに来たら良いじゃないかい。あの猫の子どもは引く手あまたで、相生橋の辰三親分が五番目だそうだよ。」
「まあ、だんな様に伝えておきます。ところで大奥様、大変遅くなって申し訳ございません。今朝がた言いつかっておりましたお花が活け上がりましたが、いかがいたしまようか。」
「そうかい、これもさっきのマムシ騒動のおかげだろうね。女中たちもあんなところにマムシがいたら、仕事が手に付かないだろうよ。誰か店の若い者にでも言って、まだいないか調べさせておくれ」
「はい、それならば先ほどの魚屋さんがあちこち調べてくれていますので、心配は要らないと思います」
「そうかい、ずいぶんと気が利く魚屋さんじゃぁないかい。おや、それかい。どれ見せてごらん」
大久保屋に奉公すれば良いところに縁付くといわれて久しいが、この花を生けた女中も縁談がまとまりもうじきお暇をいただくことになっている。このところ女中の縁談が立て続けにまとまり、お仲以外は新しく奉公に上がったばかりの女中になってしまった。このままでは来月の大奥様の誕生日のお祝いに支障をきたすと、慌てて口入れ屋から一人雇い入れたほどである。それでもまだ手は足りていなかった。
「すすきの水揚げにてこずったようだね」
すすきを軸に鶏頭と野菊が、生けられていた。薄紫色をした野菊の花の楚々した美しさが目を引いた。大奥様はしばらく花を見て考えこんでいた。
「先行ってかわいそうな思いさせるより、今のほうがいいだろうね」
大奥様は鶏頭とほぼ同じ高さに生けられていた野菊を手に取ると、下の茎を半分ほどの長さにばさりと切り落とした。
「いくらなんでもこれじゃあ釣り合いが取れないってもんだよ、上のほうばっかり飾り立てるものだから、風が吹いたら倒れちまいそうじゃないかい」
大奥様は短く切った野菊の花を生け直した。なんだかさっきよりも、鶏頭の花の赤が際立って美しく見えてきた。
「おや、随分と賑やかだね」
裏庭のほうか子どもたちの声が聞えて来た。
「はい、さっきの魚屋さんが植え込みの中を見てくれているのですけど。これがおかしいったらありゃしませんよ、あの魚屋さん蛇は苦手のようですね」
いつもは笑顔など見せたことのないお秀だが、よっぽど面白いのだろう。袖口で口元を隠すと、クックッと思い出し笑いを始めた。その時ひときわ大きな叫び声が聞こえた。
「またマムシだろうか」三人は大慌てで裏庭にむかった。