草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」前15

2020-01-23 07:01:02 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前15

㈡吉田屋のおかみさん⑨

  とんだマムシ騒動で尻餅をついたものの、大奥様はすぐにもとに戻られた。吉田屋の子どもたちは姉のお糸、信二と順に大奥様にご挨拶申しあげ、最後はお里の番だった。お里は来る途中でおかみさんに教えられとおりの挨拶をすると、ちょこんと手を前について深々頭をさげた。
「はい、よく出来ました」
 大奥様はパチパチと手を叩いてお里をほめた。

「ところでお里は、ご飯のおかずは何が好きなんだい。」
 ちょっと考えこむとお里は「はい、うーんと。卵焼きです」と答えた。
「それじゃぁ、おとっつぁんとおっかさんどっちが好きだい」
「えっと、おなつが好きです」
 今度は考え込むことなく答えた。

「おやおなつだって、さっきわたしを負ぶってくれた女中かい。お里はおとっつぁんやおっかさんよりも、おなつが好きなのかい」
 お里はおなつのことを思い出したのだろうか、それともこれ以上行儀よくしているのに飽きてしまったのだろうか。そわそわと落ち着きがなくなった。
「おっかさん、おいら小便したくなった」
信二も我慢の限界にきているようだ。

「なんだいこの子は、さっき行ったばかりじゃないかい。大奥様申し訳ありません」
 おかみさんははずかしそうに大奥様に向かって頭を下げた。
「なあに、子どもなんて皆そんなものさ。堅苦しい挨拶はそれまでにして、お昼の用意が出来るまで、少し遊んでおいで。お秀、お仲にこの子たち少し遊ばせてやるように言っておくれ。それから子どもたちのお膳には卵焼きも付けてやっておくれ」

  女中頭のお秀は大奥様に命じられ、子どもたち外に連れ出した。子どもたちの足音が廊下の向こうに消えていくと、騒がしかった部屋の中が急に静かになった。

「何かあったのかい」
 そう切り出したのは大奥様のほうだった。

「何だって、自分のことは棚にあげて猫に仕返しとはね」
 大奥様はおかみさんの話を聞いて、そんなおかしな話があるものかと思った。しかしさっき自分も危ないところを助けられたのを思い出した。

  お仲の叫び声と同時に、目の前に猫が飛び出して来た。何が起こったのだろうと思う前に、お仲が叫んだことのほうに驚いてしまった。下手をすると、もう少しでお陀仏になるとこだった。マムシが出たのと、猫が現れたのが偶然ではないような気がした。

「あの猫のことなら、心配ないと思うがね」
「タマのことについては、わたしもそれほど心配はしていないのでございます。ですが坊主にくければ袈裟までにくいって諺もございます」
「袈裟までって、おなつのことかい」
「はい、大奥様。体が大きい分どうしても年より上に見られてしまいますが、まだ十二になったばかりでございます」
「何だって、まだ十二なのかい。それじゃお糸よりも歳が下じゃないかい。私はてっきりもう十五~六だと思っていたけどね。そういわれてみればそうかもしれないね」
 大奥様はちょっとボッとしたような、おなつの顔を思い浮かべた。

「今でこそだいぶ娘らしくなってまいりましたが、奉公に上がった当初は頭と胴体ばかりが大きくて、それに手足が付いているような、なんだかおかしな子どもでした。それでも近頃では手足のほうが急に伸びてきて、だいぶ娘らしくなってまいりました」
「うん~。まあそれは結構なことじゃないかい」
「だから心配なのですよ。タマの代わりにおなつに何かするのじゃぁないかって」
「まあ、でもあの子は見た目ほど馬鹿じゃないよ」
「それはそうでございますが…。信二のこともありますし」
「信二のいったい何が心配なんだい」
「まあ、子どもの言うことを真に受けるほうもどうもとも思いますが」

  おかみさんは大奥様に近づく、耳元でなにやらひそひそと話し始めた。

「お前それは考えすぎかもしなれないよ。おなつはただ子どもに好かれるだけだよ。 現にお里だって親のお前さんたちを差し置いて、おなつが好きだって言うくらいだからね」
 大奥様はしばらく黙ったまま首を斜めに傾けて考えこんでいた。

「ただね…。このまま一緒に大人になるのも、考えものだね」
「取り越し苦労と言ってしまえば、それまでなのですがね」
「お前さんがそんな心配をするようになったなんてね。そろばんをはじいているほうが性に合っているって、ついこの間まで言っていたのにね。子どもなんかそっちのけで、帳場に座っているものとばかり思っていたがね。十にもならない息子の色恋沙汰の心配をするなんぞ、結構いい母親じゃないか」
「いえ、そんな色恋沙汰などとは思っていないのですがね、先に行って可哀相な思いをさせるのじゃぁないかと思いまして」
「下の二人はまだ手がかかるからって、いつもはお糸しか連れてこなかったのにね。それが今年は珍しく三人連れて来るって言うから、どうしたのかと思ったらそんなことかい。だったらこの大久保屋で面倒見ようじゃないかい。お前さんもそのつもりでおなつを連れてきたのだろ。おまけに猫までついてきて。おかげでこっちは命拾いしたがね。猫についちゃお前から色々と聞かされているからね、あの猫が来るのならこっちは願ってもないよ」
 おかみさんはホッとしたもの、すぐにこれから起こる騒動を思うと、ちょっと暗い気持ちになっていた。

「大奥様よろしいでしょうか」
 障子越しに女中頭のお秀の声がした。
「おや、もうお昼の用意が出来たのかい」
ふすまを開けて入って来たお秀だった。

「食事の方は、もう少しお待ちください。だんな様から吉田屋の奥様に、先ほど大奥様お救いいただいたお礼を託ってまいりました。かつお節でございます。『猫に食べさせてやってくれ』とおっしゃっておいででした」
 お秀は赤い水引のかかった木箱を差し出した。

「まあ、申し訳ございません。猫にまで気を使っていただきまして。でもだんな様にお伝え下さい。あの猫はどうした訳か、汁掛け飯しか食べません。せっかくお心づかい頂いたのに申し訳ありません。せっかくですので、これは飼い主のおなつに頂きたいと存じます」
「承知いたしました。だんな様にお伝えしておきます。それと後もう一つ、だんな様からの言いつかっております。『先ほどの猫は子どもを産んだと聞いたが、できれば一匹貰えらないだろうか』と仰せでした」

「何だね、人に託けるばかりで。頼みごとがあるのなら、こっちに来たら良いじゃないかい。あの猫の子どもは引く手あまたで、相生橋の辰三親分が五番目だそうだよ。」
「まあ、だんな様に伝えておきます。ところで大奥様、大変遅くなって申し訳ございません。今朝がた言いつかっておりましたお花が活け上がりましたが、いかがいたしまようか。」

「そうかい、これもさっきのマムシ騒動のおかげだろうね。女中たちもあんなところにマムシがいたら、仕事が手に付かないだろうよ。誰か店の若い者にでも言って、まだいないか調べさせておくれ」
「はい、それならば先ほどの魚屋さんがあちこち調べてくれていますので、心配は要らないと思います」
「そうかい、ずいぶんと気が利く魚屋さんじゃぁないかい。おや、それかい。どれ見せてごらん」

  大久保屋に奉公すれば良いところに縁付くといわれて久しいが、この花を生けた女中も縁談がまとまりもうじきお暇をいただくことになっている。このところ女中の縁談が立て続けにまとまり、お仲以外は新しく奉公に上がったばかりの女中になってしまった。このままでは来月の大奥様の誕生日のお祝いに支障をきたすと、慌てて口入れ屋から一人雇い入れたほどである。それでもまだ手は足りていなかった。

「すすきの水揚げにてこずったようだね」
 すすきを軸に鶏頭と野菊が、生けられていた。薄紫色をした野菊の花の楚々した美しさが目を引いた。大奥様はしばらく花を見て考えこんでいた。

「先行ってかわいそうな思いさせるより、今のほうがいいだろうね」
 大奥様は鶏頭とほぼ同じ高さに生けられていた野菊を手に取ると、下の茎を半分ほどの長さにばさりと切り落とした。
「いくらなんでもこれじゃあ釣り合いが取れないってもんだよ、上のほうばっかり飾り立てるものだから、風が吹いたら倒れちまいそうじゃないかい」
 大奥様は短く切った野菊の花を生け直した。なんだかさっきよりも、鶏頭の花の赤が際立って美しく見えてきた。

「おや、随分と賑やかだね」
 裏庭のほうか子どもたちの声が聞えて来た。
「はい、さっきの魚屋さんが植え込みの中を見てくれているのですけど。これがおかしいったらありゃしませんよ、あの魚屋さん蛇は苦手のようですね」
 
 いつもは笑顔など見せたことのないお秀だが、よっぽど面白いのだろう。袖口で口元を隠すと、クックッと思い出し笑いを始めた。その時ひときわ大きな叫び声が聞こえた。
「またマムシだろうか」三人は大慌てで裏庭にむかった。

草むしり作「わらじ猫」前16

2020-01-23 06:59:54 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」前16

㈡吉田屋のおかみさん⑩

「わぁ」
 太助が落ち葉を熊手でかきだしていると、長いものが目の前に落ちてきた。マムシだと思い、驚いて飛び上ってしまった。信二が紐を放り投げたのだ。よく見ると出掛けに取り上げられた、独楽の紐だった。

「独楽回しでおいらに適う奴なんか、この町内には居ない」
 と自慢するだけあって信二いつも独楽を回している。おかげで白かった紐が、今では手垢で黒光りしている。表面も擦り切れてまだら模様になっており、蛇に見えないこともない。

「坊ちゃん、駄目ですよ。そんなことしゃ。独楽の紐じゃありませんか。さっきおかみさんに取り上げられたのに、いつの間に持って来たのですか」
 信二はおなつが止めるのも聞かずに紐を拾いあげると、今度はクネクネとうねらせながら、太助に向かってまた放り投げた。

「坊ちゃん、脅かしっこなしですよ」
 太助は心底蛇が苦手のようだ。紐だと分かっていてもつい逃げてしまう。調子に乗って紐をくねらせながら太助を追い掛け回す信二。止めようと信二を追いかけるおなつ。
 
 お仲は子どもの放り投げる紐を本気で怖がる太助の様子が面白くてならなかった。太助が植え込みの中から掻きだした落ち葉を竹箒で掃きながら、笑いをこらえるのに必死だった。好意でやってくれているものを、笑っては悪いような気がしたからだ。

―こんな所にわらじがある。
 落ち葉の中に、鼻緒の切れたわらじが片方混ざっていた。おかしなものがあると思い、手に取って見ようとしたときだった。信二がまた紐を投げつけたようだ。太助が大げさな身振りで逃げ回っていた。悪いと思いながらも思わず笑ってしまった。ちょうどそのとき植え込みの中で、ガサリと音がしたのだが、気がつかなかった。

「お仲が笑っているよ」
 賑やかな裏庭の様子を縁側から見ていた大奥様は、三人の様子を楽しそうに見ているお仲に気づいた。
 
 お仲は大久保屋の下働きの女中として、奉公に上がってから五年近くになるが、今までひと言も口を利いたことが無かった。子どものころ両親と死に別れ、親戚をたらいまわしにされて育ってきたようだ。つらい思いを黙って耐えてきたからだろうか、それとも何か心に深い傷を負ったのだろうか。いつも泣き出しそうな顔をした娘だった。

 それでも口を利けない分体がよく動く。朝一番に起きてから、夜最後に戸締りをして眠るまで、いつも体を動かしている。その働きぶりはすぐに大奥様の目に留まり、今では何かにつけて「お仲、お仲」と名指しで用事を言いつけられるようになった。しかし相変わらず口を利かず、泣き出しそうな顔も変わらないままだった。

―いつか喋れるようにしてやりたい。
 大奥様はお仲の笑い顔を見ながらそう思った。
「お秀、お仲に魚屋さんにもお昼も出すように言っておくれ。それからおなつにも卵焼きをつけておやり」
 大奥様は準備の整った膳の前に座った。吸い物椀の蓋を開けると、嬉しそうに鯛の潮汁に口をつけた。鯛の潮汁は大奥様の大好物だった。

 帰りは籠でお帰りと、大奥様も言ってくれたのだが、いたずら盛りの信二が籠の中でおとなしくしているはずがない。けっきょく歩いて帰ることにしたのは、これから起こる騒動を少しでも先に延ばしたかったからだ。

―どっち道、嫌われるのはわたしだ。
 おかみさんそう呟いて、大久保屋を後にした。
 大奥様が見送りにお仲を付けてくれて、太助までもが送ってくれることになった。今日はもう仕入れた魚が全部はけてしまったそうだ。

 子どもたちは機嫌よく歩いていたのだが、途中からは太助の背中に信二が、お仲の背中にはお里が負ぶさって寝てしまった。お糸のほうは疲れた様子も無く歩いている。いやどちらかといえば上機嫌で、スタスタと歩いている。

  お糸は帰り際に大奥様に頂いた,大久保屋の袋物が嬉しくてしょうがないのだ。誰かに見せたくてしょうがないようすだ。ちょうどいい具合に同じ町内の味噌屋の娘とばったり出会い、これ幸いにとばかりに娘の家に遊びにいってしまった。

「今、帰りましたよ」
 おかみさんが勝手口から声をかけるとタマが飛び出してきた。
「おやまぁ、ずいぶんと沢山産んだね」
タマの後からこどもたちがヨチヨチと続いて出て来た。
「いったい何匹いるのだろうね。ひい、ふう、みい…………」
「お帰りになっておいででしたが。気が付かなくて申し訳ございませんでした。おやまぁ、タマずいぶんと多いね」
 慌てて迎えに出たお関もタマの子どもを見て、驚いたように大声を上げた。

「しぃー」おかみさんは口に人差し指を当てると、お関に眠ったこどもたちを見せた。
「なんだいタマ、もうハチのところに連れて行けって言うのかい、ちょっと早いんじゃないか」
 いつものように太助の桶の中に子どもたちを入れようとするタマに、太助が声をかけた。いつもは子どもたちにも仔猫を抱かせてやるのに、今度はやけに急いでいる。仔猫もまだ乳離れには早い気がするのだが。

「痛ぇな、分かった、分かりましたよ。ハチのところに連れて行きゃぁいいんでしょう」
 余計なこと言うなと言いたげにタマが、太助の足に噛み付いたのだった。
仔猫は全部で5匹生まれていた。どれも皆タマと同じように脚の裏の肉球に黒い部分があった。タマと同じように鼠をよく捕るようになるだろう。

「おなつ、今すぐに大久保屋にお行き。行って大奥様に仕込んでおもらい。このことはタマが決めたのだよ」
 子どもを運び終わったタマが、おかみさんの足元にじゃれ付き始めた。
「おやタマわたしにお礼のつもりかい、嬉しいね。これから子どもたちに恨まれるって時に、お前はわたしの気持ちが分かってくれるのだね」

 おなつは深々と頭を下げると、身の回りのもの包んだ風呂敷包みを両手で抱えるようにして、吉田に背を向けて歩き出した。来たときと同じようにタマを肩に乗せていた。

 何度も何度も後を振り返るおなつの姿が見えなくなるまで、おかみさんは見送っていた。

 おなつの背中が揺れるたびにタマの尻尾が揺れて、おかみさんに「さようなら」と挨拶をしているようだった。

「お関、お前もわたしが厄介払いをしたと思うかい」
 おかみさんは、同じようにいつまでもおなつを見送っていたお関に話かけた。
「そんこと、ありませんよおかみおさん。あたしはねおかみさんが自慢なのですよ。なんて言ったって、天下の大久保屋で行儀見習をしていたのですからね。今度から自慢がもう一つ出来ました。今度は大久保屋にあたしが仕込んだ娘が奉公に上がったのですから。こんな嬉しいとはありませんよ」

「嬉しいね、お前がわたしのことをそんな風に思ってくれているなんて。今後ともよろしく頼むよ。さし当ってはあの子たちだね、考えただけでも気が重くなるね。それにまた新しい下働きの娘を探さないとね。今度もまたしっかり仕込んでやっとくれ」
「はい、かしこまりました。今度は猫付娘じゃないでしょうから」
「それにしても不思議な猫だったね」
二人は顔を見合わせて頷きあった。

草むしり作「わらじ猫」前17

2020-01-23 06:58:55 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」前17

㈡吉田屋のおかみさん⑪

 その夜から吉田屋は大荒れの嵐のような日がしばらく続いた。信二やお里は言うに及ばず、お糸までもが泣き出したのは意外だった。信二は怒ってこれから連れ戻しに行くと言い出し、だんなと喧嘩になってしまった。怒っただんなが縄で縛って柱にくくりつけたが、それでも信二は聞かなかった。

「おいらが悪いのかな」
 その晩やっと縄を解かれた信二は、お関の差し出したにぎり飯を口にした。
「おなつ、いじめられないかな」
「大丈夫ですよ、坊ちゃん。タマがついていますからね」 
 信二は握り飯に添えられた沢庵をかみ締めた。夜更けて寝静まった台所にポリポリと沢庵を噛む音が響いた。

  しばらくは元気の無かった信二だったが、次第にもとの明るさを取り戻してきた。だが以前のようにつむじを曲げて、だんなを怒らせるようなことはしなくなった。
 おなつのいなくなった生活にだいぶ慣れてきた頃だった。その日は朝から大口の注文が殺到し、店はテンヤワンヤの忙しさだった。

  おかみさんが信二の姿が見えないことに気がついたのは、仕事が一区切りついた八つ過ぎだった。そういえば昼飯のときも居なかった。また手習いの帰りに道草でも食っているのだろうと思い、握り飯をこしらえておいたのだが。水屋の中には手付かずのにぎり飯がそのまま入っていた。

 慌てて店の者に探しに行かせたが、どこにも見当たらない。大久保屋にも使いを出そうとしていた矢先だった。

「おう、じゃまするよ」 
 相生橋の辰三親分が店に入ってきた。
「坊主探してないかい」
 親分の後から入って来た下引きの三吉は、背中の信二を大きくゆすり上げた。
清住町の手前で迷子になって、番屋に連れてこられたのだ。よっぽど腹をすかせているのだろう。旨そうににぎり飯を食べている信二だったが、どこに行こうとしていたのかだけは絶対に言おうとはしなかった。

「まあ、あんまり怒らないでやって下さい。あっしも吉田屋さんに用事があったついでだからね」
今にも信二をはり倒しそうな勢いのだんなに、親分は今日来た理由を話し始めた。

  夜更けて親分が三吉に起こされたのは、十日ほど前だった。閻魔堂橋の上から身投げがあったという。

「ですから身投げなんかしたんじゃありませんよ。ただ落ちただけですよ…」
 親分が駆けつけてみると、ずぶ濡れになった男が土手淵に引き上げられていた。体が冷きってしまったのだろう。見ているほうが寒くなるくらい震えている。その男よく見ると弥助だった。

―ははん、タマにしてやられたな。
おおかたタマを川に投げ込もうとして、反対に自分が落ちてしまったのだろう。話を聞こうにもこのままではどうにもならない。どうしようかと親分が思案しているときだった。

「これで温まりな」
 弥助があまりに哀れに見えたのだろうか。夜鳴きそばやの親父が湯気の立った蕎麦を、カガタガタと震えている弥助の前に差し出した。
 
   心底冷えた体に熱々の蕎麦のだし汁がしみ込んだのだろうか。それともよほど旨いそばだったのだろうか。弥助は涙を流しながら食い終わると、「弟子して下さい」と言って、そのまま親父について行ってしまった。

「今日で十日になるが、野郎本気だぜ」
 「フッ」しばらく続いた沈黙を破るように誰かがわらい出した。それが合図のようにその場にいた者たちが皆笑いだした。

「なんですって夜鳴きそば屋に弟子入りですか。それは良かった。いくら不始末をしでかしたとはいえ、元は吉田屋の使用人。縄つきにでもなったらこっちだっていい気はしませんよ」
番頭は手の甲で涙を拭いていた。

   炊事場でにぎり飯をほお張る信二の耳に、大人たちの笑い声が聞こえてきた。お関は夕飯の準備に取り掛かったようだ。ザクザクと菜っ葉を刻む音がおなつの居ない炊事場に響いた。俯きながら包丁を使うお関の後ろ姿が、なんだかとても寂そうに見えた。

―お関だって寂しいくせに。
 信二は少しだけ優しい気持ちになった