0162_西方浄土(006)裕也の冒険
--成仏とは①--
裕也は「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」について比較してみた。
南無とは、心の名の宣言である。
前者は、「妙法蓮華経」の心である。後者は「阿弥陀仏」の心である。
それを唱えると言うことは「籠の外の鳥鳴けば、籠の中の鳥出ようと欲する」のとおり、自身の中にある心を呼び出すのに相違ない。
前者は、ただの法華経ではない。妙がついている。これは、日蓮大聖人が現した文底の法華経を現す。
では、「妙法蓮華経」とはどんな心か?
簡単に言うと十界論でいうと仏界である。
唱えると言うことは、「妙法蓮華経」に説かれている仏の境涯と等しくなることである。
絶対的な幸福境涯を確立すること。
すなわち「妙法蓮華経」で言う成仏とは、
いかなる社会の困難にぶつかろうとも。ゆうゆう乗り越えて、あらゆる不幸な人々を救いきっていこうとつねに願う慈悲の心を持ち、社会に対しつねに価値創造して、どのような要因によっても絶対にくずれない金剛不壊の幸福境涯を成仏という。
苦難があっても乗り越え、現世を寂光土にかえる「剛の題目」である。
では、後者は、どうでしょう。
--成仏とは①--
裕也は「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」について比較してみた。
南無とは、心の名の宣言である。
前者は、「妙法蓮華経」の心である。後者は「阿弥陀仏」の心である。
それを唱えると言うことは「籠の外の鳥鳴けば、籠の中の鳥出ようと欲する」のとおり、自身の中にある心を呼び出すのに相違ない。
前者は、ただの法華経ではない。妙がついている。これは、日蓮大聖人が現した文底の法華経を現す。
では、「妙法蓮華経」とはどんな心か?
簡単に言うと十界論でいうと仏界である。
唱えると言うことは、「妙法蓮華経」に説かれている仏の境涯と等しくなることである。
絶対的な幸福境涯を確立すること。
すなわち「妙法蓮華経」で言う成仏とは、
いかなる社会の困難にぶつかろうとも。ゆうゆう乗り越えて、あらゆる不幸な人々を救いきっていこうとつねに願う慈悲の心を持ち、社会に対しつねに価値創造して、どのような要因によっても絶対にくずれない金剛不壊の幸福境涯を成仏という。
苦難があっても乗り越え、現世を寂光土にかえる「剛の題目」である。
では、後者は、どうでしょう。
つづく 次回(西方浄土007)成仏とは②