ずーっと読もう読もうと思いつつ後回しになっていた、貫井徳郎の「慟哭」を図書館で借りてきて読んでいる。
小説を読むというのは、文章を読みつつ登場人物の外見や心情、舞台となる場所の情景などを脳内で膨らませる作業なわけで、結構体力を使う(あくまで私の場合です)。私が長編小説にあまり手を出さないのは、体力がないため途中で疲れて飽きてしまい、どうでも良くなってしまうからだ。読んでも短編か、疲れにくいエッセイに走りがちなのだが、今回は久々に長編に挑戦である。
それはまあいいとして、小説を読んでいて思うのは、文章表現というのは便利だなぁということである。極端な話、作者が「すごい」と書けば、有無を言わさず「すごい」のだ。どうすごいかは読者の想像力にかかっているのである。例えば、今ちょうど読んでいる「慟哭」から、ある宗教の教祖「胡泉翔叡」に関する文章を一部抜粋してみよう。
「俳優にしたいほど整った容貌に、自信が漲っている。カリスマ性を十分に備えた人物だった。」
「胡泉翔叡の口調は熱を孕み、聴衆の期待をさらに盛り上げる天性のカリスマ性を備えていた。」
「胡泉翔叡は数万の聴衆の心を、その大胆な話術の腕力でぐいと掴み、決して逸らさなかった。」
一体どんなすごいヤツなんだ胡泉翔叡。いちいち掘り下げていたらキリがないので「そういうことなんだ」と一応納得して読み進んでいるが、想像力の貧困な私には、どれほどのものなのかわからないのである。わからないから実在の人物と置き換えることもできない。作者がこれを書いている時は脳内で「俳優にしたいほど整った容貌に自信が漲ったカリスマ性十分の男が、聴衆の心を逸らさない大胆な話術で弁舌を振るっていた」はずだ。作者の思う翔叡は一体どういう顔なのか、聴衆の心を逸らさない大胆な話術とはいかなるものか、ぜひ知りたいものである。もっとも、こういう想像を各々で張り巡らせることこそが、テレビドラマとは違う小説の醍醐味であるのだが。
ああ、己の貧困な想像力がもどかしい。でも、これしきで困っていたら時代小説なんかとても読めないけどね。
小説を読むというのは、文章を読みつつ登場人物の外見や心情、舞台となる場所の情景などを脳内で膨らませる作業なわけで、結構体力を使う(あくまで私の場合です)。私が長編小説にあまり手を出さないのは、体力がないため途中で疲れて飽きてしまい、どうでも良くなってしまうからだ。読んでも短編か、疲れにくいエッセイに走りがちなのだが、今回は久々に長編に挑戦である。
それはまあいいとして、小説を読んでいて思うのは、文章表現というのは便利だなぁということである。極端な話、作者が「すごい」と書けば、有無を言わさず「すごい」のだ。どうすごいかは読者の想像力にかかっているのである。例えば、今ちょうど読んでいる「慟哭」から、ある宗教の教祖「胡泉翔叡」に関する文章を一部抜粋してみよう。
「俳優にしたいほど整った容貌に、自信が漲っている。カリスマ性を十分に備えた人物だった。」
「胡泉翔叡の口調は熱を孕み、聴衆の期待をさらに盛り上げる天性のカリスマ性を備えていた。」
「胡泉翔叡は数万の聴衆の心を、その大胆な話術の腕力でぐいと掴み、決して逸らさなかった。」
一体どんなすごいヤツなんだ胡泉翔叡。いちいち掘り下げていたらキリがないので「そういうことなんだ」と一応納得して読み進んでいるが、想像力の貧困な私には、どれほどのものなのかわからないのである。わからないから実在の人物と置き換えることもできない。作者がこれを書いている時は脳内で「俳優にしたいほど整った容貌に自信が漲ったカリスマ性十分の男が、聴衆の心を逸らさない大胆な話術で弁舌を振るっていた」はずだ。作者の思う翔叡は一体どういう顔なのか、聴衆の心を逸らさない大胆な話術とはいかなるものか、ぜひ知りたいものである。もっとも、こういう想像を各々で張り巡らせることこそが、テレビドラマとは違う小説の醍醐味であるのだが。
ああ、己の貧困な想像力がもどかしい。でも、これしきで困っていたら時代小説なんかとても読めないけどね。