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そして大津波が襲ってきた

2011年03月25日 11時52分56秒 | 東日本大震災
(3)津波

マンションからは、ほとんどの住民が外へ飛び出してきていた。本震後も余震が数分単位で起きていた。
余震といっても震度4や5というから、平時ならば「強い地震」で、余震なんて感覚ではない。
本震と同時に停電したため、テレビで情報を得ることはできなかった。
ラジオだけが鳴っていた。
大津波警報が出されたと知ったのは10分後くらいか。しかし、この時点では津波よりも余震が恐怖だった。
へたに室内に戻って倒壊したら……が最大の恐怖だった。
そのため、マンション外の駐車場でラジオを聴いていた。
と、雪が降り出してきた。東北の寒さが避難民を苦しめたと報道された。確かに停電・灯油不足での寒さは過酷だった。
しかし、本震から大津波襲来までの間に降り始めたにわか雪によって、筆者は助けられた一面がある。
室内着のまま、外へ飛び出したので、さすがに寒かった。さらに余震の感覚が長くなり強さも弱まったので、室内へ戻ることにした。
室内へ戻ると、まずはねこの安否を確認した。家具類はほぼ全て倒れ、ガラス類はことごとく割れていたので、あるいはケガをしているかもしれなかった。
しかし、そこはねこ。老いたりとはいえ身軽なようで、しっかりベッドの下へ潜り込んで避難していた。
名前を呼んだが、おびえていて出てこなかった。
ねこが無事なのを確認したのでベランダへ出てみた。
周囲に倒壊した建物等がないか確認するため。

しばらく外を見ていると、道路を水が流れはじめた。
廊下でバケツをひっくり返すと、水がサーッと廊下を伝うが、そんな感じだった。
水かさが増えるのは、あっという間だった。わずか1分程度で1mほどになった。すると水面を様々な物が流されていった。最も多かったのが自動車だった。水面にボートのように浮かび、ぷかぷかと流されていく。
5分程度で建物の1階がほぼ水没する水かさまで増水した。幸運だったのは、それが最大水深でそれ以上は増水しなかったことだ。そのため筆者宅は水没せずに住んだ。しかし地域によっては建物の4階まで津波に洗われた地域もあった。もしそんな地域に住んでいたなら、あるいはもうこの世にはいなかったかもしれない。それは、ほんのわずかの「運の差」だった。
もちろん全員がきちんと避難できたのではなかった。
町のあちらこちらからは「助けてください」という悲鳴が聞こえていた。かといって、2メートル近い水深で町全体が水没している中では、どうすることもできなかった。ただ、「どうかご無事で」と祈るだけだった。
のちの発表では犠牲者は50名余だったそうだ。他都市よりも少なかったのは、当地が仙台市のベッドタウンで地震発生時は多くの住民が仙台市へ通勤・通学していたためだったようだ。そのため被災者が少なくて住んだが、反面、町に残された住民は主婦や老人、小児等が多く、働き手の成人男子が少なかったのが初期の避難活動を困難にしたようだ。そんな中、警察・消防・自衛隊は住民のために懸命に働いてくれていた。あらためて敬意を表したい。

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