「言わさせてください」は誤用
賛否両論あるだろうが、個人的に「ら」抜き言葉が一般化すれば、日本語がもっと簡単で使いやすくなる気がしている。それは敬語が簡単になるからだ。
「~る」を「~られる」と変えるタイプの敬語がある。「来る」で「来られる」、「見る」で「見られる」、「食べる」で「食べられる」……。
しかし社会人はこのタイプの敬語を使うのは御法度が常識。なぜならば「~できる」の言い回しと全く同じになってしまうからだ。
仮にこちらが敬語のつもりで「こちらに来られるなら……」と言ったとしても、相手が「~できる」という意味で「来ることができるなら」と取れば、敬語ではなくなる。
そのため、
来る→いらっしゃる、見る→ご覧になる、食べる→召し上がる……という敬語を使うべきとされる。しかしこの変化は全く規則性がない。「来」、「見」、「食」という主なる部分が跡形も無く消え去ってしまっている(笑)。「敬語は難しくて覚えにくい」という不満は、この規則性の欠如が大きいと感じる。
もしも「ら」抜き言葉が定着して、「~できる」が「~られる」ではなく「~れる」になったとする。
来る→来れる
見る→見れる
食べる→食べれる
そうすれば、「来られる」、「見られる」、「食べられる」は可能を表わす普通の言葉ではなく、敬語オンリーとなる。「~る」を「~られる」に変えるだけで良いのだから、こんなに簡単で規則的な変化はない。外国人でも1日で敬語が覚えられる(覚えれる)だろうwww
日本語の乱れと今更ながら言われているが、すでにこうした変化は定着している物もある。
「聞く」の「聞くことができる」という言い回しは「聞ける」だよね? 一方、「~られる」タイプの敬語に直せば「聞かれる」。二つは全く異なっている。
「kikeru」と「kikareru」。抜けているのはaとr。即ち「聞ける」は「聞かれる」の「ら」抜き言葉と言って良い(笑)。
色んなルールがあるんだけどね、でも文字や言葉ってコミュニケーション・ツールだと思うから、簡単で解り易くなってったほうが便利じゃない(笑)?
賛否両論あるだろうが、個人的に「ら」抜き言葉が一般化すれば、日本語がもっと簡単で使いやすくなる気がしている。それは敬語が簡単になるからだ。
「~る」を「~られる」と変えるタイプの敬語がある。「来る」で「来られる」、「見る」で「見られる」、「食べる」で「食べられる」……。
しかし社会人はこのタイプの敬語を使うのは御法度が常識。なぜならば「~できる」の言い回しと全く同じになってしまうからだ。
仮にこちらが敬語のつもりで「こちらに来られるなら……」と言ったとしても、相手が「~できる」という意味で「来ることができるなら」と取れば、敬語ではなくなる。
そのため、
来る→いらっしゃる、見る→ご覧になる、食べる→召し上がる……という敬語を使うべきとされる。しかしこの変化は全く規則性がない。「来」、「見」、「食」という主なる部分が跡形も無く消え去ってしまっている(笑)。「敬語は難しくて覚えにくい」という不満は、この規則性の欠如が大きいと感じる。
もしも「ら」抜き言葉が定着して、「~できる」が「~られる」ではなく「~れる」になったとする。
来る→来れる
見る→見れる
食べる→食べれる
そうすれば、「来られる」、「見られる」、「食べられる」は可能を表わす普通の言葉ではなく、敬語オンリーとなる。「~る」を「~られる」に変えるだけで良いのだから、こんなに簡単で規則的な変化はない。外国人でも1日で敬語が覚えられる(覚えれる)だろうwww
日本語の乱れと今更ながら言われているが、すでにこうした変化は定着している物もある。
「聞く」の「聞くことができる」という言い回しは「聞ける」だよね? 一方、「~られる」タイプの敬語に直せば「聞かれる」。二つは全く異なっている。
「kikeru」と「kikareru」。抜けているのはaとr。即ち「聞ける」は「聞かれる」の「ら」抜き言葉と言って良い(笑)。
色んなルールがあるんだけどね、でも文字や言葉ってコミュニケーション・ツールだと思うから、簡単で解り易くなってったほうが便利じゃない(笑)?
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