uparupapapa 日記

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コミュニケーション能力を鍛える鍵は「文章力向上」

2016-03-15 03:34:30 | 日記
企業活動におけるコミュニケーションでは、

相手や場面に応じて、

どのように表現すると効果的なのかを考える力が求められる。

その能力は文章力と結びついている。

考えてみていただきたい。

自分のコミュニケーション能力に自信がない人は、

文章力にも自信がないのではないだろうか。

あなたの周囲にいる提案書がうまく書ける人とは、

コミュニケーション能力も高いのではないだろうか。

 
本稿では新人研修を行う人事担当者や、

コミュケーション能力を高めたいとするビジネスマンに向けて、

文章力の大切さと文章力向上のための方法を示していきたい。


●向上しなかった文章力


最初に「文書」と「文章」の定義についてあらためて認識していただきたい。

「文書」とは書かれた書類を指す。

書類なので、文書と言うときは、言語で書かれた内容だけでなく、

書類としてのデザインなども含めて対象となる。


他方、「文章」とは言語で表現されたものを指す。

言語表現なので、例えば、同一の文字列がA4判とB5判に印字された場合、

両者は同じ文章といえる。しかし、同じ文書とはいえない。

 
さて、本題に入る。

約30年前、筆者は日本商工会議所が主催していた

日本語文書処理技能(ワープロ)検定にかかわっていた。

その検定の試験科目に文書を作成する課題があった。


当時よく耳にしたのが、

「社員の文章力がないので困る」という、企業上層部の声であった。

その悩みは30年たっても解決していないようだ。

多くの社員の文章力は向上していないらしい。

それはなぜだろうか。また、このまま放置しておいていいのか。



●文章力を向上させないテンプレート

 
文章力が向上しなかった原因の1つは、

テンプレート方式に代表される文書支援システムにある。


企業にとって文書は必要不可欠だ。

そこで、誰でも容易に文書作成ができるように、

どのような内容をどのような順序で書けばよいかを指示する

テンプレート方式が開発された。

優れた方式であり、多くの企業が利用し、

形式の整った文書が作られるようになった。

ところが、ここに落とし穴があった。

例えば、企画書を作成するときに、

「目的」「実施内容」「効果」などを書きこむことを指示する

テンプレートがあったとしよう。

このとき、文書を作る人の多くは文章全体ではなく、

項目ごとに情報が不足しないようにと考えてしまう。

すると、「効果」の欄で、

“目的が達成できる”ことまでも説明しようとして、

こまごまと情報を書いてしまう。

その結果、くどい文書ができ上がってしまうのだ。

 
文書全体の意味を認識し、

テンプレートの役割を理解した上で使えばいいのだが、それができない。

文書構成や文章の基本について理解しようとはせず、

その場しのぎで解決しようとするからだ。

テンプレートに頼りすぎてしまう結果、

自分で文書や文章を作る力がつかない。

文書作成の効率化のために採用された文書作成支援システムが

文章力向上を妨げているのだ。皮肉なことである。



●有能な人材の武器としての文章力


文章力不足はさらに重大な問題を生み出している。

文章力というのは、文書を作るためだけに役立つのではなく、

コミュニケーション能力と結びついている。

あえて極端な表現をすれば、

「文章力不足の人はコミュニケーション能力が不足している」と言えよう。

 
コミュニケーションは、人と人とが理解しあうことと解釈される。

それも間違ってはいないが、企業活動におけるコミュニケーションとなると、

その段階にとどまらず、自分の考えや思いを、

相手に理解して納得してもらうことまで要求されよう。


説得力が必要なのだ。顧客にこちらの条件をのんでもらう。

謝罪の言葉によって、快く許してもらう。それらを勝ち取らねばならない。


そのためには、相手や場面に応じて、

どのように表現すると効果的なのかを考える必要が生じる。

文章を書くときに、そのような“考察の力”が鍛えられるのである。


文章は相手に情報を伝えるものである。

的確に伝えるには、相手や場面を考えて最も効果的な表現を考えなければならない。

会話の場面ではゆっくり考える時間はないが、

文章を書く場面では、さまざまなシミュレーションで考えることができる。

 
そこでは、論理的な考え方が醸成されるし、

効果的な表現力も身についていく。

文章を書くこと、文章力を向上させることは、

まさに「企業で必要とされるコミュニケーションの力を鍛える」ことになるのである。

 
有能な人材を育てようとする企業にとって、

いま、社員の文章力を向上させる取り組みが求められているのではないだろうか。

(佐竹秀雄)

-ITmedia ビジネスオンライン-






私のこの日記は、

見ての通り独特で、文書としては失格だ。

詩のような行間技法を使い、

文書としての日記の空間を必要以上に開けている。

しかも『。』の後に続く文章は、

改行の際、ひと段落下げるべきだが、

ワザとそうしていない。

そのときは行間自体を開け、その代わりとさせている。



何故そんなことをしているのか?


それはウェブ上での文書の独特の読み方にある。


オフライン(ネット以外の情報伝達。例えば新聞、雑誌、テレビなどの媒体)

では文書は一目瞭然で読み飛ばすのも簡単だ。

例えば、本、雑誌、溢れかえるチラシ類などは、

その全体像が情報として目に入り、

その情報量もそれなりに把握できる。

更に各ページごとに読む場合も、瞬時にページ全体が目に入り

無意識に丁寧に読むべきか、読み飛ばすべきか判断できる。



ところがウェブ上の文書はすべて、

その画面上での情報しか目に入らない。

しかもその画面は、1ページにも満たない情報なのだ。

画面に映らない文書などは、下までスクロールさせ対処している。

PCやタブレットなどはまだましだが、

スマホやガラ系は更に悲惨だ。

あの小さな画面の中で読み続けなければならないのだから。

そんな中、画面いっぱいに文字が詰まっていたら、

人はその文書を読みたいと思うだろうか?

読んでいても、その文書の全体像は把握しづらいだろう。

文の内容すら理解しにくいかもしれない。




以前どこかの団体が行ったネットの意識調査の結果の中で、

人はウェブ上の文書を読むとき、多くの場合、

「読まない、読み飛ばすのだ」との結果が出ているそうだ。



自分はどうしているか思い起こしてみると良い。

ネットを開くと同時に、

無意識に画面上の見出しなどを上から下まで流し読みし、

興味のあるところだけしか読んでいないのではないだろうか。



人は情報と接するとき、消費すべき時間の質を気にする。

情報を知りたいという欲求はあっても、

苦痛を感じてまで読もうとは思わない。

読みづらい文書は、本能的に避けるのだ。



今日のネットニュースの中で、

電子文庫の普及が伸び悩んでいるとの記事があったが

当然の結果とも云える。

実際に手に持って読む本と、PCやスマホの画面で読む文章では

読みやすさが圧倒的に違うのだ。



だから私は自分の経験上、

ウェブ上での文書(今はこの日記だけだが)こんな文体を使っている。

『。』の次に続く文章が次の段落に移るとき、

ひと段落下げないのは、

目に映る文書の見栄えが雑然とするのを避けるためだ。



ただし、私がこの日記を書くとき、

PCを使っている。

PC用の編集画面で丁度よい体裁に整えていても、

多分画面の小さいスマホ画面で見たときは

文章の段落の切り方がおかしく表示されているだろう。

できるだけスマホでも読みやすいように工夫しているつもりでも

自分の感覚だけで改行していたのでは

やはり不完全だろう。



悲しいかな、スマホを持たない私には、検証もできない。



それに私には素朴な疑問がある。

私の日記はくどくどと長い。

スマホのユーザーが、こんな長い文章を

あの小さな画面で果たして辛抱強く

スクロールし続けて読んでくれるだろうか?


私ならパスする。


だからスマホでは誰も読んでくれていないと想定し、

あまりスマホユーザーのことは考えないようにしている。

もし、奇特な人がいたならゴメンナサイ。



ああ、こんなことばかり書いていて、

日記の本題、文章力とコミュニケーション能力について

言及する今日の分の(日記の)キャパが無くなってしまった。


まあ、こんな文章しか書けない私だから

コミュニケーション能力も「推して知るべし」だと思ってください。

そんな私がコミュニケーションについて語っても

全く説得力もないし。



周囲の人間に

「あなたの話はくどい。」と言われ続けてきた私。

私のコミュニケーション能力の無さは

文書テンプレートのせいだったのね。




自分の無能さをいつも他人のせいにし続けてきたオヤジが一句。




会話はね いつも気合で 話してた




お粗末。