goo blog サービス終了のお知らせ 

あしたはどこへ・・・

後期高齢者だが 元気に豊かな気持ちで歩き続けたい・・

 我がマチの戦後開拓者・・

2023-09-29 14:27:55 | 日記
 我がマチの戦後開拓は昭和29年まで 茶志内・豊葦を始め5地区に
350戸ほどが高位泥炭地(ミズゴケ主体の土壌)に1戸9㌶の農地と生活小屋を与え
られて入植した。 水位が高く泥沼のような土地で春には水芭蕉 秋にはガマの穂の
湿地帯植物が生えていた。まずは地下水を下げる暗渠排水工事から開拓が始まった。

 穫れる作物はえん麦・ソバで何とか食い繋ぎ 豊葦では峰延山から索道(バケット)で
 茶志内では奈井江の山を削り軌道(トロッコ)客入土で土壌改良を積極的に続けた結果
昭和35年頃には水田化が進みコメの生産が始まり 現在の美田へと変貌したのです。

 だが農業不向き・負債増・後継者不足で戦後開拓農家の離農が多く 現在は100戸ほど
の農家が残っているのが現状のようだ。
 茶志内原野に樺太から入植した故池田重吉さんの詩の一部を紹介します。
 〇 開拓は努力に始まる 汗の流れをふきながら 
   不毛の地を美田すると夢見ながら 一鍬一鍬
 〇 人生は道から始まる 道があるから行くのではなく
   歩くから道になる 開拓の道は そうだった
 〇 地球が生まれて今までは 誰も手掛けぬ不毛地を
   一鍬一鍬汗にまみれ ただ将来の希望に燃えて
 〇 共に手を取り頑張ろうと 誓いし友も冷害や不作に
   のめされ部落去る 希望も夢も捨てて去る

 先日 開拓地を訪れた。排水路の100㍍ほどにガマの穂を見つけた。戦後開拓者の
労苦が「ガマの穂」が知っている‥と思った。(文章が短くなりませんでした)

     
     

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  戦後開拓と開拓音頭・・ | トップ |  戦後開拓のお母さん・・ »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
開拓 (I)
2023-09-29 19:43:04
私の住んでいた中村地区は、石狩川が近いために度々水害にも悩まされたようです。昔は小学校が現在の堤防の川側にあったために、水害の後には校庭で魚が跳ねていたと聞きました。沼も多く泥炭地であるため土地改良も大変だつたことと推察します。作業も馬の力を借りながらのことのようでした。私がいた時には、馬を専門に飼育している家もありました。
そういえば、ガマの穂を見かけることが無くなりました。ちらりと顔をみせるお月さんを見ながら書いてます。ススキとホオズキと菊を飾り、ブドウをお供えしております。。
返信する
開拓者 (西やん)
2023-09-29 20:29:24
関東でも開拓の跡を見ることがあります。
関東では水が無くて困ったらしく用水が不可欠だったようです。
北海道は冬の寒さが大変だったでしょう。
先人の苦労、無にしたくないですね。
返信する
後継 (大連三世)
2023-09-29 20:58:32
先人たちの苦労の結果が後世へ伝わらない事は
寂しいですね。
昨日紹介した赤城山麓の開拓地はうまくいってるようで今も野菜作りが盛んです。
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事