乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『祇園囃子』  宵山に月鉾にて

2009-07-19 | 舞台・音楽 雑感メモ



 コンコンチキチン~ コンチキチン~

           コンコンチキチン~ コンチキチン~


  


 私の思い描く京の夏といえば、

    鱧

    川床 (かわどこ)

    祇園囃子

です。

 夏の蒸し暑さの中で コンコンチキチンを聴きながら冬瓜や鱧をつつき長良、きゅんと冷えたビールを薄いグラスでいただく。

 私の生まれ育った京都の祇園祭はこんな感じです。




 写真は月鉾。

 祇園囃子は壬生のデンデケ・・・と同様、幼い頃から慣れ親しんだリズム。



 コンコンチキチンの調べは、ハード・ロックにも似てるんですよ。

 自ずと心は高鳴ります。

 

                 

           

  
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『牛頭天王』に思う  綾傘鉾にて

2009-07-19 | お出かけ




    『牛頭天王(ごずてんのう)』  綾傘鉾



 綾傘鉾には 『牛頭天王(ごずてんのう)』がまつられていました。

 Yahoo辞典さまと箕面ボランティア観光案内HPさまから牛頭天王について書かれた部分を転載させていただきました。



 牛頭天王は祇園祭と深い関係にあるようす。

 祇園祭りはもとは祇園御霊会ともいわれていました。

 御霊信仰の影響を濃厚に受けた祭なのだそうです。

 

 御霊とは非業の死をとげ、この世に未練や恨みを持つ死者の霊魂。

 このような霊魂が人々に疫病を振りまくと信じられていました。

 それらの荒ぶる霊魂を歓待し、慰撫することによって災厄をもたらさぬように神の世界へ送るための祭礼が『御霊会』(ごりょうえ)の目的です。



 御霊信仰は平安時代には牛頭天王(ごずてんのう)の祭と習合。

 祇園御霊会として定着。



 牛頭天王はインドでは祇園精舎の守護神。

 日本では御霊信仰と結びつき、厄神と考えられる。



 この神を祀れば疫病や災厄から免れることができるとして、広く民間に普及。


 鴨川や桂川などの京都の河川は、かつてはよく氾濫。

 河川の氾濫は水害であり、同時に、伝染病の流行という二次的な被害をもたらしていました。

 災厄や疫病の招来の根源とされた御霊を祀り、京の町の平安を祈願して、祇園祭りを行いました。

 こうして 牛頭天王を祀る神仏習合の社殿としての祇園社が成立したのです。



 そうして今年私は綾傘鉾にて、牛頭天王がまつられていることを知りました。

 面は美しく、趣があります。

 私の心は高鳴ります。

 綾傘鉾で祇園祭本来の目的ともいうべき疫病の鎮まりを祈願するともいえる牛頭天王に出会え、私屋家族、友人、これを観て下さいましたみなさまの厄が祓えるような気がいたします。

 とても喜ばしい宵山を楽しめましたことを付け加えておきたいと思います。


 皆様方に 幸あれ!!

 
  


                 




Yahoo辞典より 転載


頭天王(ごずてんのう)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身とされ、薬師如来(やくしにょらい)を本地仏とする。武塔天神(むとうてんじん)、あるいは京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として祇園天神ともいう。平安時代から行疫神として崇信され、祇園祭はこの神を祀(まつ)って疫病を鎮める年中行事である。牛頭天王は、インドでは祇園精舎(しょうじゃ)の守護神であったが、わが国では、最初は播磨(はりま)国(兵庫県)明石(あかし)浦に垂迹(すいじゃく)、ついで広峰に移り、その後、京都東山瓜生(うりゅう)山北白川東光寺へ、さらに清和(せいわ)天皇869年(貞観11)東山の感神院に移ったとされ、それが現在の八坂神社である。『蔵王陀羅尼経(ざおうだらにきょう)』には、この神が「癘鬼(れいき)を縛撃(ばくげき)して疫難を禳除(じょうじょ)す」とみえる。また『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文には、武塔天神が蘇民将来(そみんしょうらい)から受けた一宿一飯の恩に報いるため除難の法を教えたとあり、これにちなみ、社寺では正月に疫病除(よ)けの護符として蘇民将来札が出される。牛王(ごおう)宝印も牛頭天王の護符で、祇園社から出ていた。




箕面ボランティア観光案内HPより 転載


牛頭天王信仰
 箕面に限らず、全国的にスサノオノミコトを祀った神社は数多い。これらの殆どは以前は牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたものである。
 箕面でも、桜ケ丘の阿比太神社は昔は牛頭天王社と呼ばれ、粟生間谷のスサノオ神社もかつては粟生天王社と呼ばれて、いずれも牛頭天王を祀っていた。それだけでなく、石丸の為那都比古神社も牛頭天王社であり、今は廃社になった白島の大宮神社も大婦天王社と云われて牛頭天王を祀っていた。 

 牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。
 京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て祇園社と呼んだのに始まる。天禄元年、悪疫を鎮める祇園御霊会(祇園祭)が始まったと云われる。

 当時は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。
 新たに牛頭天王を祀る社を作るのみならず、従来からの古社に牛頭天王を併祀することも多く行われた。そして、それらが、いつの間にか、従来からの祭神を押しのけ、牛頭天王を主祭神とするようになり、社名までもが変えられていったのである。

 下って、近世に入ると、国学者や神道家が現れてくるが、彼らにとって牛頭天王は誠に疎ましい目障りなものであった。神道こそ絶対であるとして、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、記紀の中で重要な位置にあるスサノオ神と習合している牛頭天王は許しがたいものであった。さらに、「てんのう」と称することは「天皇」に対する重大なな僭称であり、大不敬と思われた。延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていることに彼らは憤激したのであった。

 かくて、彼らは牛頭天王信長対策説なるものを考え出す。これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、織田氏が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称しただけのもので、本意から牛頭天王を祀ったのではないと云う説を作り出したのである。今、為那都比古神社に建っている「為那都比古社」と彫られた石柱は彼らによって立てられたもので、「牛頭天王社と称してはいるが、こここそ延喜式内の為那都比古神社である」と云いたかったのである。

 やがて明治維新となる。国学者たちが拠った明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、すべてその祭神をスサノオ神に変えるか、もしくは、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めた。かくて、京都の祇園社自身も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更した。箕面でも、為那都比古神社は名を昔に戻しで祭神の中から牛頭天王を削除し、阿比太神社は名を旧に復して祭神をスサノオ神とし、粟生天王社はスサノオノミコト神社と改名し祭神もスサノオ神とした。



                宵山に  
                   京都  綾傘鉾にて





  


                 



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綾傘鉾 『面』と『祇園囃子』のお台本

2009-07-19 | お出かけ





 YouTubeで 綾傘鉾の棒踊りを楽しんでいました。

 手の形は能楽を思わせる部分あり。

 動きは基本的にアップテンポで迫力があります。

 途中に入る
「よぅいよい。」
の掛け声も素敵でした。

 綾傘鉾の棒踊り、実際に観てみたいものです。



 ところで写真は綾傘鉾の棒踊りのときにもかぶられた方が座っておられました。

 面の斜め前には祇園囃子のお台本。

 両側には衣裳も飾られ、心ときめく時間を過ごすことができました。



               

                京都   綾傘鉾
                       綾小路通室町西入(善長寺町)

                       祇園祭 宵山の日に






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