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乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

「付 信太妻」   ( 以前にも読んだ「説経節」(東洋文庫)より「月 信太妻」を読む。  (恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森)

2024-09-04 | 説経節、幸若舞、舞の本等

「付 信太妻」

 以前にも読んだ『説経節』(東洋文庫)より「付 信太妻」を読む。 

恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の  うらみ葛の葉 

 

 

 

  以前読んだ時の記録はこちら ↓

説経節』(東洋文庫)より「付 信太妻」 樟の葉と恋に陥った安倍保名の本名は、安倍権太左衛門保名。子は、安倍晴明。

 

「信太妻」と云えば、歌舞伎で言うならば、『葛の葉』

 この演目もわたくしは好きで、色々な役者でさんのを見たし、説経節の「信太妻」の動画も見たことがあるが、中でも中村扇雀さんの『葛の葉』は感動に値した。

 

 ところで今回「付 信太妻」を読み、新たな発見をした。

 

    恋しくば

    尋ね来てみよ

    和泉なる

    信太の森の

    うらみ葛の葉

 

 この歌は、葛の葉が子をあやしながら、障子に文字を書く。

 子(後の安倍晴明という設定)がぐずるので

      あやす

      左手で書く

      口に筆をもって書く

      後ろ向きに書く

などの趣向を凝らされてはいるが人形浄瑠璃や説経節では、子は布団に寝かされたまま、葛の葉が障子に右手で書くというといった形になっている。

 

 

    恋しくば

    尋ね来てみよ

    和泉なる

    信太の森の

    うらみ葛の葉

 

 説経節の「付 信太妻」を書く前に、それをにおわす記述が丁寧に書かれている。

 

 

    恋しくば

    尋ね来てみよ

    和泉なる

    信太の森の

    うらみ葛の葉

 

 この部分は柳田國男をはじめ、多くの民俗学者が注目し論じている所である。

 

 概ね共通している所は

    葛の葉が狐たる理由(信太の背景)

    (ここでは割愛させていただきます)

 

 

 うらみ葛の葉

    うらみ = 裏見(うらみ)

          恨み

 

 うらみ葛の葉

 うらみ = 裏見(うらみ)

  クズの葉の後ろを見れば、クズの葉の裏には白い毛が生えている。

  つまり、クズの葉の裏は狐(葛の葉=自分自身)に見立てられている。

    

 

このように考えれば、

   

    恋しくば

    尋ね来てみよ

    和泉なる

    信太の森の

    うらみ葛の葉

     

は切なく悲しい。

 

 涙を呑んで別れゆく葛の葉の気持ちが伝わってくるのである。

 

 

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前進座の『さんしょう太夫』の練習風景     帰ってきた『さんしょう太夫』【凄盛りチャンネル231】

2024-08-28 | 説経節、幸若舞、舞の本等
帰ってきた『さんしょう太夫』【凄盛りチャンネル231】



 前進座の『さんしょう太夫』の練習風景 のユーチューブを見つけました。

 いつ消去されるかはわかりませんが、記録させていただきたいと思います。
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映画『山椒大夫』1954年 124分   監督 溝口健二 脚本 八尋不二 依田義賢  原作 森鷗外

2024-08-27 | 説経節、幸若舞、舞の本等

  映画『山椒大夫』1954年 124分   監督 溝口健二 脚本 八尋不二 依田義賢  原作 森鷗外




山椒大夫
1954年
124分

監督 溝口健二
脚本 八尋不二 依田義賢  
原作 森鷗外
出演者 田中絹代 花柳喜章 香川京子 進藤英太郎 河野秋武 菅井一郎 見明凡太朗



 以前見た時には手放しでほめたたえていた映画『山椒大夫』

 しかしながら、今回見ると、ずいぶんと感じ方が変わっていた。


 森鴎外原作の『山椒大夫』は、説経節の『山椒太夫』とはずいぶん違っていた。

 確かに、安寿と厨子王の道行きの苦難をもう少し膨らませた方が良かったのではないかと感じた。

 また上にも書いた苦難の部分やそれに伴う身分の差のおぞましさ。また、母との関係性を掘り下げなければ、説経節の『山椒太夫』ではないように感じた。

 最もこれは、森鴎外原作の『山椒大夫』なのである。

 森鴎外の『山椒大夫』はこの点において、研究者から批判されていることを改めて感じた。




『山椒大夫』と『山椒太夫』

 説経節では【太】を使われ、文字数も一つ多い。




 面白かったのは、4,50歳の女性を探して、墓が移った時の厨子王。

 子どもの墓でもなく、母がたどり着いたのではなく厨子王が悲しみにたたずんのだが。

 謡曲の『隅田川』が思い浮かび、自然に、鐘の音が鳴り響く気がした。


 
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説経節 6  文字的文化への移行  他の芸能・文芸への影響 /説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田/

2024-08-27 | 説経節、幸若舞、舞の本等
説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田妻―葛の葉子別れ(初葛)




説経節 6  文字的文化への移行  他の芸能・文芸への影響 /説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田/


文字的文化への移行
 説経節が、中世末から近世にかけての時期、にわかに芸能として脚光を浴びるようになったのは、操り芝居との提携という契機もあったが、これまで延べてきたように、説経節の語りそのものに、人びとを惹きつける独特の魅力や時代を越えた普遍性が備わっていたからであろうと考えられる。



 慶長年間(1596年-1615年)の日本においては、一部の人は別として大多数の人びとは文字や書籍になじまない生活を送っていた。

 もとより写本はさかんになされていたし、絵巻物よりも簡便な奈良絵本も当時さかんに製作されていた。

 また、南蛮人や朝鮮半島からもたらされた新しい印刷技術もあって活字本も刊行されていたのであるが、しかし、それは必ずしも社会的に広汎におよんだものではなかった。

 それが、寛永年間(1624年-1645年)に入り、従来の木活字に代わって、原稿そのままを木の板に彫って印刷する整版印刷がなされるようになると、出版は完全に商業ベースに乗った。

 これにともない、出版の大衆化が大いに進み、一般庶民を読者とする大衆文学も読まれるようになったのである。

 整版印刷は、漢字を自由に用い、読み仮名なども付して読みやすくすることができるうえ、はるかに低廉な価格で印刷物が刊行でき、版元の経営を安定させたのであった。



 こうして進行した出版大衆化もあって、民衆の側にも文字に対する旺盛な学習意欲が生まれた。

 慶長より約100年後の宝永3年(1706年)の浄瑠璃『碁盤太平記』には、大星力弥が文盲の岡平を笑って
「世には無筆も多けれども、一文字引く事も読む事もならぬとは、子供に劣った奉公人」
と語る場面が出てくるまでに至り、その間の民衆の識字率の向上にはめざましいものがある。



 ところが、慶長の頃にあっては一般民衆はまだまだ文字の文芸からは遠い世界にあり、口承文芸とくに語りものの世界にあったのである。

 そして、寛永期以降の出版大衆化の進行は次第に文芸における文字の比重を増大せしめた。

「古説経」
といわれる寛永から明暦にかけての説経正本は、このような経緯のなかで生まれたのである。



 そしてまた、説経節が18世紀に入って急速に衰退していくことは、都市を中心とした民衆の文化が、口頭的な文化から文字的な文化へと大転換を遂げたことと軌を一にしているのであり、これは文化史上の大きな画期であった


 もとより、青森県のイタコ祭文や新潟県の瞽女唄など、かつての説経節と形式や素材において共通点をもつ口承文芸が細々と続いてきたことは確かではあるが、とはいえ、これらの芸能がその内容においてひじょうに衰弱してしまったものであることは否定できない。



 これに対し、かつての説経節とりわけ「古説経」と呼ばれる説経節は、日本の口承文芸史上高度に花開いた作品群であり、ある意味では最後の鮮光とも呼びうる存在である。

 それが、幸いにも製版印刷の普及の時期にあたっていたため、文字によるテキストとして後世に伝えられたのである。



他の芸能・文芸への影響


他の芸能・文芸への影響
 
 浄瑠璃と説経節は相互に影響をあたえあい、浄瑠璃作品に多くの素材を提供したのは既述のとおりである。

 説経節の演目から素材を得た浄瑠璃(文楽)の作品には上述の『摂州合邦辻』のほか『小栗判官車街道』『苅萱桑門筑紫車榮』『芦屋道満大内鑑』などがある。

 元禄期以降の説経節はまた、換骨奪胎されて歌舞伎の演目としても演じられるようになった。




『山椒大夫』は、歌舞伎では『由良湊千軒長者』という演目になったが、現在ではあまり上演されなくなっている。



     『俊徳丸』は謡曲『弱法師』の題材となっており、歌舞伎・文楽の『摂州合邦辻』

     『苅萱』の石童丸の物語は歌舞伎の『苅萱道心』
     『小栗判官』は歌舞伎・文楽の『小栗判官車街道』の題材となっている。




 浪花節(浪曲)は、祭文語りと説経節の双方を源流として生まれた語りものといわれ、ちょぼくれ、ちょんがれ、浮かれ節なども同系統とされる。


 浪花節の起源は享保(1716年-1735年)ころに活躍した浪花伊助であると説明されることも多いが、実際に流行したのは幕末期が最初であるという。




 また、落語は説教と説話、講談は説教を源流としており、ともに近世初頭に成立した話芸である。


 説教(説経)からは節談説教と説経節が派生しているが、説経節における石童丸や小栗判官の話は、講談でも多く取り上げられ、明治・大正に至るまで庶民にはなじみ深い話であった。





映画『山椒大夫』のポスター

 ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得するなど海外でも高い評価を受けた。

 説経節は、文芸のうえでは江戸時代の絵入り娯楽本である草双紙(絵草紙)や伝奇小説(読本)の類にも多くの素材を提供した。



 曲亭馬琴も『石堂丸苅萱物語』や『松浦佐用姫石魂録』などの読本作品をのこしている。





 説経節の演目はのちに近代小説の題材ともなった。

 1915年(大正4年)に森鷗外によって小説『山椒大夫』が書かれ、雑誌『中央公論』に掲載された[25]。鷗外は、説経のあらすじをおおむね再現しながらも脚色を加え、親子や姉弟の骨肉の愛を中心に描き、近代的な意味で破綻のない世界にまとめあげたが、しばしば、原作のもつ荒々しさや陰惨さ、虐げられた者のどろどろとした情念の部分は取り払われたと指摘される。

 また、この翻案小説にあっては「道行」の下りはごく簡単に処理されており、死と再生という説経節がもつ独特の場と形式も軽視されている
と指摘されることがある。



 1917年(大正6年)には折口信夫によって短編小説『身毒丸』が発表されたが、これは説経節『俊徳丸』や謡曲『弱法師』のもととなった高安長者伝説を「宗教倫理の方便風な分子をとり去つて」短編小説化したものである。

 主人公「しんとく(身毒)丸」は、ここでは先祖伝来の病を持つ田楽師の子息として描かれている[注釈 21]。




 昭和に入って、鷗外原作の『山椒大夫』が1954年(昭和29年)、溝口健二監督作品として映画化され、折口原作の『身毒丸』は寺山修司・岸田理生の脚本を得て、劇団天井桟敷によって舞台作品『身毒丸』として1978年(昭和53年)に初演されるなど、説経節の演目が新しいかたちでよみがえり、話題となった。


 また、『小栗判官』は、1982年(昭和57年)に初演された遠藤啄郎脚本・演出の横浜ボートシアターによる仮面劇『小栗判官照手姫』となって大反響を呼び、1991年(平成3年)に初演された梅原猛作のスーパー歌舞伎『オグリ』として注目された[39]。


 その他、説経節の素材は、日本列島各地で、たとえば瞽女唄として、盲僧琵琶として、あるいは大黒舞の歌などとして伝えられた。

 また、三味線による説経語りは、新潟県佐渡市の説経人形(国の重要無形民俗文化財)、埼玉県横瀬町の人形芝居(袱紗人形、埼玉県指定無形民俗文化財)、東京都八王子市の車人形(選択無形民俗文化財)など各地の民俗芸能として、そのなごりをとどめている。


Wikipedia
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説経節 5     劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等
  説経節 5  


劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より







詞章とその変遷

  詞章は全体に因果律を説く霊験物が多いが、浄瑠璃の影響を強く受ける以前と以後では、形式・内容ともに大きな変化がある。



古説経の詞章

 本地語りと古説経特有の語り口 明暦以前の、いわゆる「古説経」冒頭には、 国を申さば丹後国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の御本地(ごほんじ)を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度(ひとたび)は人間にておわします。

 … — 明暦2年刊、佐渡七太夫正本『せつきやうさんせう太夫』  というような本地語りがある。

 ここでは、神仏が神仏になる以前の姿、いわば神仏の本源(本地)である人間について語られる。

 そして、この詞章をみると、七五調あるいはその変形を単位として語られており、たとえば、丹後を信濃に、金焼地蔵を親子地蔵に入れ替えると『苅萱』の本地語りに、あるいは国を美濃、神仏を正八幡の荒人神とすれば『をぐり(小栗判官)』の本地語りになる。




説経与七郎正本『さんせう太夫』(寛永16年頃)

  人買いによって船で丹後に運ばれる安寿姫と厨子王丸。 このような定型的な文句は、他にも随所にみられ、

   「あらいたはしや○○」

   「○○これを御覧じて」

   「○○げにもと思ぼしめし」

の空欄部分に登場人物の名を挿入すると、さまざまな作品の詞章となり得る。



 古説経では、他の語りものにはみられない卑俗な日常語や方言、訛言がふんだんに用いられ、また、敬語の過剰な多用や道行における独特のスタイルなどにきわだった特徴がある。


 さらに、古説経特有の語り口として注目されるものに

   「旅装束をなされてに
 
   「かっぱと起きさせ給いてに

などにおける、おもに助詞の「て」につく間投詞の「に」の存在がある


 これは、4種の古説経の正本いずれにも共通してみられ、三都の太夫が別々に語っておりながら語り口における見事な統一性が確認できるのである。


 これについては、元来伊勢方言ではないかという説(高野辰之)、さらに加えて、説経者のなかで有力なグループ(伊勢のささら説経)が他に支配的な影響をおよぼしたのではないかとする説(室木弥太郎)などがある。



 本地語りなどにみられるこのような定型的な文句について、現在おこなわれている瞽女唄イタコの祭文などの語り方と比較すると、その詞章の特徴は、口承文芸として長く語りつがれてきた結果ではないかと推測できる


 というのも、語り手は、暗記した詞章をそのまま逐語的に語るのではなくて、多くの決まり文句をみずから蓄えていて、聴き手を前にして随時これら常套句を取捨選択し、組み合わせながら、その場で自由に物語をつむぎ出していったのであり、口演の一回ごとにオリジナルな演出をほどこしていたのである。


 20世紀アメリカ合衆国の叙事詩学者ミルマン・パリーと弟子のアルバート.B.ロードは、古代ギリシアのホメロスの叙事詩や現代ユーゴスラヴィアの口誦詩人の研究等を通じて、無文字社会における口承文芸は、このような韻律に合う決まり文句を容易に入れ替えて語られることを解明し、これを「オーラル・コンポジション」と命名した。



 古説経の詞章はおそらく、この方法で記憶され、再現され、伝承されたものと考えられる。




道行文と地名

 本地語りは、限られた日常的な時間・空間から聴衆を解き放ち、非日常的な、未知な領域へ引き入れていくという効果もあったと思われる。

 しかし、これは遠国の霊地や霊仏を実見し、それにまつわる霊験譚や因縁話を熟知していなければ語り出せない性質のものでもあった。


 それと同様に、説経節に特徴的な詞章として道行(旅)の過程を述べた「道行文」がある。


『平家物語』や『太平記』にも名所案内も兼ねた道行の場面があらわれるが、代表的な説経節といわれる『かるかや』『さんせう太夫』『をぐり』『しんとく丸』『あいごの若』もまた、いずれも道行文を含んでいる。



 また、地名については、作品の内容そのものに直接の関係が全くないにもかかわらず、具体的な特定の地名をはっきりと述べていることが注目される。


『土佐日記』『伊勢物語』以降の上古・中古の文学にあっては、歌も物語も、場所と内容とが互いに分かちがたく結びついており、能楽や軍記物における道行の下りは、たえず土地の歴史をふりかえる素材となり、また、土地情報の圧縮版のような意味合いがあった


 これは、説経節においても同様であり、人びとは地名を聴くだけで過去の出来事や歌・物語・人物などを想起し、しばしばこの部分だけの語りを演者に求めることさえあったようである。



 なお、室木弥太郎は、それが実際に語られた場所に応じて、地名を入れ替え、庶民が当該地において篤く信仰した神仏を引き合いに出すことによって、その物語のリアリティを保証する意味もあったのではないかと推定している。




 一方、道行の詞章には正本による限り、季節の描写が確認できない


 これは、説経の者たちがどの季節に語っても、聴衆にそのときどきの季節として想像してもらうためであろうと考えられる。




 浄瑠璃の影響 万治以降の正本になると、新たに古浄瑠璃の影響を受けた序があらわれ、文字によって描かれた作品に近づいていく。


 それつらつらおもんみるに、人倫の法義を本(ほん)として、君を敬い、民をあわれみ、政事(まつりごと)内には五戒を保ち… — 万治4年刊『あいごの若』 




『あいこの若』二段目(寛文10年頃刊行)

 人形劇となった影響で合戦シーンも登場している。

 こうした重々しい教訓的な言葉によって演者の威厳を示すようになり、一方、かつて野外芸能だったものが劇場芸能となったことから旅の必要がなくなり、地方の寺社や神仏が、しだいに都市の聴衆に無縁のものになっていったことから、従来の「本地物」形式はすがたを消失していく。


 また、従来は段に分かれていなかった説経が浄瑠璃同様、全体が6段に分けられるようになったが、室木弥太郎はこの変化を万治元年(1658年)以降のことと推定している。


 そして、それぞれの段末には「上下万民おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ」という古浄瑠璃特有の形式句が付加されるようになり、さらに、各段のあいだには余興を入れて聴衆を飽きさせないような工夫をほどこしている。



 そのほか、操り人形が活躍するハイライト・シーンとして合戦の場面を設けるなどの工夫を加え、言葉遣いも古説経風の方言や俗語を捨てて、より標準的で洗練されたものになってくる


 これらは、いずれも劇場進出に向けた一連の改革ととらえることも可能である。



 しかしながら、このような変化は一方で、泥臭くとも庶民のための口承文芸として生きつづけてきた古説経独特の生命力やその独特な味わいを喪失していく過程でもあった


 なお、旧作品の改作や新作が急速に進み、浄瑠璃の改作がおこなわれるようになったのも万治以降のことである。



音曲的特色と聴衆 「クドキ」

  録音機器のない時代の芸能については、音声資料を欠くことから、その音曲的特色を説明するのは容易ではないが、江戸中期の儒学者太宰春台の著作『独語(ひとりごと)』には、説経節について、 其の声も只悲しきの声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にはあらず。



 三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつやうなれども、甚だしき淫声にはあらず。

 言はば哀みて傷(やぶ)ると言ふ声なり




太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台 著書『独語』において、説経節の音声を「哀みて傷る」と表現した。

 春台の説くところによれば、浄瑠璃が「淫声」(「みだらな声」または「人の意表を突くような歌い方」)であるのに対し、説経節の語りは、三味線をともなってからは多少「うきたつ」ところが生じたものの、哀しみのあまり傷つき、破れてしまったかのような哀切の声(「只悲しきの声」)であるという。




 尾州家本『歌舞伎絵巻』でも、これを裏づけるかのように、説経節の聴き手のうちの何人かは顔をおおって泣いている


 古説経の節譜としては、

    コトバ(詞) フシ(節) クドキ(口説) フシクドキ ツメ(詰) フシツメ
の6種が確認されており、そのうち、
    「フシ」「フシクドキ」「フシツメ」
は歌謡的要素を含むと考えられる。



 基本的には、「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い、あっさりとした語り方であったろうと考えられるのに対し、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと思われる。


「クドキ」「ツメ」以下はわずかしかあらわれないが、「クドキ」はおそらく沈んだ調子で悲しみの感情を込め、くどく語り、「ツメ」は拷問など緊迫した場面での語りであったろうと考えられる[27]。「フシクドキ」「フシツメ」はそれに節を付けたものであろう。


 上の6種以外に、
    「キリ」「三重」「ワキ」
という符号が付される例がまれにあるが、「ワキ」が太夫の補佐役がワキから入り、太夫と合わせ語りをしただろうと考えられるほかは、詳細がよくわかっていない。



 説経節の正本には「いたはしや」「あらいたはしや」という言葉が何度も登場するが、与七郎正本『さんせう太夫』を例にとると、フシは20カ所中14カ所、フシクドキは1カ所中1カ所、クドキは1カ所中1カ所、それぞれ「いたはしや」または「あらいたはしや」のフレーズで始まっており、ここに顕著な符合がみられる。



 他の正本では、この関係がそれほど明瞭でなかったり、
     「あはれなるかな」「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きにける」
のような語が使われる場合もあるにはあったが、
     「いたはしや」「あらいたはしや」
の語を哀感を込めて歌い語るところに説経節の語り口における顕著な特色があったと考えられる。



 文政13年(1830年)の喜多村節信『嬉遊笑覧』は宝暦10年(1760年)刊行の『風俗陀羅尼』から「いたはしや 浮世のすみに天満節」という冠付(雑俳の一種)の句を引用し、宝永元年(1704年)頃に江戸の天満八太夫が没した後、天満節はかつての隆盛が嘘のように衰えてしまったことを詠んでいるが、ここでは「いたはしや」の語が説経の語り口をあらわすことも同時に詠み込んでいるのである。


 説経節という芸能の淵源は仏教における唱導や説経であったところから、本来的にはきわめて宗教性の強いものであったろうと考えられるが、それは決して理路整然とした仏教教義を説くようなものではなく、中世の民衆がいだいていた救済や転生などの強い願いに直接うったえかける情念的なものであった。


 中世日本における民衆生活は、商行為としての人身売買が存在しており、また、たび重なる戦乱や一揆のなかで抑圧され、蔓延する疫病や頻発する災害に打ちひしがれる悲惨なものだったのであり、人びとが現世に希望をもてないことも多かったと考えられる。

 したがって、説経節の語り手のみならず、それに耳を傾ける聴衆もまた、社会的に底辺に近い人びとが多く、主人公の悲惨な境遇や果敢な行動に共感し、身につまされては泣き、あるいは、過激なまでの復讐に溜飲を下げ、そこから自らの魂を解放させていたと考えられるのである。



(ウィキペディア)
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説経節 4   演目と正本  古説経  「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等


    説経節 4   演目と正本  古説経  「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称



演目と正本 古説経


『せつきやうかるかや』(寛永8年(1631年))刊行)

 加藤繁氏は妻子を捨てて出家し、苅萱道心を名乗る。

 現存する説経の正本は、古い順に、

   『せつきやうかるかや』太夫未詳、寛永8年(1631年)4月刊、

   じやうるり や喜衛門板 『さんせう太夫』説経与七郎、寛永16年(1639年)頃刊、

   さうしや長兵衛板? 『せつきやうしんとく丸』天下無双佐渡七太夫、正保5年(1648年)3月刊、

   九兵衛板 『せつきやうさんせう太夫』天下一説経佐渡七太夫、明暦2年(1656年)6月刊、さうしや九兵衛板


があり、以下、
   万治元年(1658年)10月刊『熊野之権現記こすいてん』、

   万治4年(1661年)正月刊『あいごの若』

などと続くが、荒木繁(国文学)は、明暦2年の『せつきやうさんせう太夫』までが「説経節が本来の語り物としての説経節らしい用語と語り口を保っていた時代」として、これらに「古説経」の名を与えている。



 初期の説経正本においては『せつきやうかるかや』のように、わざわざ「せつきやう」を付して並行芸能である浄瑠璃ではないということを明示している例が多い。


 この時期には、演者も「説経与七郎」などというふうに説経の語り手であることを示すことがある。

万治以降、時代を経るにともない、説経節は浄瑠璃の影響をいっそう強く受けるようになり、「説経浄瑠璃」と称されるような変質を遂げる。


 特に冒頭部分の「本地語り」が失われ、浄瑠璃色の濃い序があらわれるのが顕著な例である(詳細後述)。




五説経とその他の演目


 赤木文庫所蔵『あいこの若(愛護若)』(寛文10年(1670年)頃刊行) 江戸の天満八太夫の正本と推定される。

 説経節の代表作5作を総称して「五説経」という呼び方は既に寛文年間(1661年-1673年)にみられるが、当時具体的に何を指していたかは不明である。


 東京堂出版『藝能辞典』(1953年刊)「説経節」の項(執筆担当:郡司正勝)には、古くは

     『苅萱』
 
     『俊徳丸(しんとく丸)』

     『小栗判官』

     『山椒大夫』

     『梵天国』

を称したが、享保のころになると

     『苅萱』

     『山椒大夫』

     『愛護若』

     『信田妻(葛の葉)』

     『梅若』

を称するようになったと説明されている。



 また、国文学者で小説家の水谷不倒の説によれば、

     『苅萱』

     『山椒大夫』

     『小栗判官』

     『俊徳丸』

     『法蔵比丘(阿弥陀之本地)』
の5種が「五説経」である。



 説経操りの衰退した安永3年(1774年)序の「浄瑠璃通鑑」(『済生堂五部雑録』所収)には

   「其五説教とは信田妻、隅田川、愛護、津志王、石塔丸なり」と記録されており(『隅田川』は『梅若』、『津志王』は『山椒大夫』、『石塔丸』は『苅萱』をそれぞれさしている)、


 いずれにしても、「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称であった。


 他の演目としては、


『五翠殿(熊野之御本地)』『松浦長者』『釈迦の御本地』『熊谷先陣問答』『越前国永平寺開山記』『尾州成海 笠寺観音之本地』『大福弁財天御本地』『目蓮記』『百合若大臣』『王昭君』『兵庫の築島』『石山記』『鎌田兵衛正清』『志田の小太郎』『阿弥陀胸割』『崙山上人之由来』『毘沙門之本地』『天智天皇』『伍太刀菩薩』『弘知上人』『小敦盛』『中将姫御本地』(以上、横山重『説経正本集』収載)、また、『日蓮尊者』『伏見常磐』『善光寺開帳』『曇鸞記』『吹上秀衡入』


などがある。



 これらのうち、『熊野之権現記ごすいでん(熊野之御本地)』や『目蓮記』『梵天国』などは、古体をのこしていると考えられるが、『愛護若』『松浦長者』は少なくとも正本のうえからは「説経浄瑠璃」の名がふさわしい作品となっている。



 また、『伏見常磐』『志田の小太郎』『百合若大臣』『兵庫の築島』などは元は曲舞に取材していると思われる。



 前掲の謡曲『自然居士』『逢坂物狂』には人身売買の話が出てきたが、説経節の『山椒大夫』『小栗判官』『松浦長者』『梅若』などでも人買いは重要なモチーフとなっている。



『松浦長者』のさよ姫は、父の十三年の孝養のために我が身を人買いに売る設定となっており、『自然居士』の筋ときわめて高い相似性をもつことが注目される。



 説経浄瑠璃は、仏の徳をたたえるものが多く、古浄瑠璃(竹本義太夫以前の浄瑠璃)から影響を受けたものもあるが、逆に『摂州合邦辻』など説経節から浄瑠璃に素材をあたえたという例も少なくない



 内容は、本地縁起物についての語りに加え、劇的効果をねらって、継子(ままこ)いじめ、お家騒動などの背景を添えたものが多い。
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説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等
説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ




説経節

操り興行の盛衰


 近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。

 戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。

 浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永8年(1631年)より少し前を想定している。


 また、『さんせう太夫』など正本にのこる演目は、一話を語るにも相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした。


 とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない。

説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社(上述)の配下となり、その口宣を受けた。


大坂 畠山其山撰『色道大鏡』(1678年)巻八 (左側2行)「説経の操は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」の文が確認できる。


 延宝6年(1678年)成立の『色道大鏡』巻八に「説経の操(あやつり)は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」とあって、寛永16年の正本『さんせう太夫』冒頭に記された「摂州東成郡生玉庄大坂、天下一説経与七郎」と同一人物と思われる。

 これによれば、寛永年間(1624年-1644年)、大坂天王寺の生國魂神社(生玉神社)境内で操り説経を興行したと伝え、『諸国遊里好色由来揃』の説にしたがえば与七郎はもと伊勢国出身のささら説経の徒であったという。

 この「説経与七郎」の名代は幕末まで続いている。



『色道大鏡』はまた、明暦(1655年-1657年)から寛文(1661年-1673年)にかけて、説経七太夫も興行を行ったと伝えており、この七太夫が江戸の佐渡七太夫(後述)の前身ではなかったかとの推定もある。



 ほかに、大坂二郎兵衛という説経者の存在も確認されているが、その系統や所属は不明である。



 京都 京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から日暮八太夫や日暮小太夫があらわれ、寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている。

 正本の刊行などから推定して寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による寛文4年(1664年)の説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている[1]。なお、「日暮小太夫」の名跡は宝暦(1751年-1764年)の頃まで続いたと推定されている。



  説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され、江戸にくらべて早い段階で衰退してしまった。


 浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわったのである。




  名古屋 上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。

『尾張戯場事始』によれば、寛文5年(1665年)、京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行している。

 そのときの演目は
「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」
と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい。




 衰退期の様相は不明ながら、三都と軌を一にしているものと思われる。

 しかし、幕末期の名古屋においては、新内節の岡本美根太夫があらわれ、説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始しているが、これは「説経源氏節」(または単に「源氏節」)と称されている。


 江戸・東国 江戸は三都のなかでも説経座が最もさかんであった。


 正保(1644年-1648年)の頃から佐渡七太夫が堺町(現在の日本橋人形町)で、万治(1658年-1661年)頃には初代天満八太夫が禰宜町(現在の日本橋堀留町)で興行をおこなった。

 佐渡七太夫の「佐渡」の名は、興行的に成功を収めた地の名に由来するものではないかという説がある。

 近世初頭にあって、佐渡金山を擁する佐渡島は多数の鉱山労働者が押し寄せ、娯楽の一環としての説経節には興行に対する高い需要があったと推察されるからである。




 また、天満八太夫は寛文元年(1661年)に受領して「石見掾藤原重信」を名乗っている。


 佐渡七太夫の方は、2代目が天和(1681年-1684年)の頃に活躍し、3代目の佐渡七太夫豊孝という説経語りは正徳・享保(1711年-1736年)の頃、説経の伝統を守ろうと努めて正本を盛んに刊行した。



 元禄(1688年-1704年)の頃、江戸では天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営み、江戸における人形操りの最盛期の様相を呈しており、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫の名が知られる。


 

 18世紀初頭をすぎると江戸の人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消した。

 佐渡七太夫豊孝の時代はすでに説経節は衰微しており、彼が刊行した正本には説経の古典とも呼ぶべき演目が多くふくまれる。




 有銭堂清霞の『東都一流江戸節根元集』によれば、延享(1744年-1748年)年間、説経節は江戸や地方の祭礼などでまれにみられる程度となってしまったと記されている。


 江戸ではその後、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり、享和(1801年-1804年)の頃には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させた。

 この系統から薩摩若太夫が出たものの、説経芝居はやがて衰えてしまった


 ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。



 江戸時代後期以降、説経は大都会を離れ、主として農村地域における屋外芸能に回帰して、その芸能としての余命を保った。説経は、零落した牢人によってになわれることもあり、かれらは江戸で「乞胸(ごうむね)」という組織をつくって他者による口演を嫌ったが、一方、香具師もまた売薬の方便から説経浄瑠璃を語ったところから、乞胸と香具師の利害はしばしば衝突した




 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけとなってしまっている。
 (聴きたい)


 八王子や西多摩地方の八王子車人形や写し絵などとともに行われる薩摩派の薩摩若太夫(13代目)、板橋を中心に活動する若松派の2世若松若太夫(1919年-1999年)・3世若松若太夫(1964年- )、天満派の天満八太夫の活躍が新しい。


 なお、明治維新ののち、薩摩派の太夫が福島県会津地方に門付に入ったところ、旧会津藩の人びとが宿敵薩摩を称する者だとして太夫を迫害したため「若松」を名乗ったという逸話も今日に伝わっている。
(ウィキペディア)
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説経節 2   説経節の歴史の続き(前回の内容も有り)

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等

 説経節 2   説経節の歴史の続き (前回の内容も有り)


 
前回の説経節の歴史 1

説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学

 鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。

とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。

 これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。




虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部)
 
「経師」(説経師)について記されている。

 ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。

 しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。

 それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。


「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。


「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。

 その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。


 南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。

 なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。




ささら乞食

 説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。

 ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。



 0現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。

 そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。

 

 観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。


 能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えてる。


『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。


 なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。


 さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。




蝉丸神社(滋賀県大津市)

 中世芸能の徒にとって自らの祖神と仰いだ盲目の僧、蝉丸法師を祭っている。

 近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。


 永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。

 上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。


 近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。

 蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。



 現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。

 たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。



八坂神社所蔵『洛中洛外図』(元和年間)にみえる屋外での説経節

 土佐派絵師の手になるものといわれる。

 大傘をかざし、むしろの上でささらを摺って説経語りをしている。

 ひしゃくで投げ銭を集めている人物、聴衆の泣き伏しているすがたなどが確認、群がった乞食をさす言葉であったといわれている。







説経節の歴史 2


『人倫訓蒙図彙』(元禄年間)にみえる門説経 ささら、胡弓、三味線の3人組による門付芸として描かれている。大傘はなく、演者は菅笠をかぶっている。

『北野社家日記』の慶長4年(1599年)1月24日の記事に、説経者が京都北野の経王堂(現大報恩寺)の脇で説経語りをおこないたい旨、北野天満宮に申し入れたことが記され、あるいは、元和年間(1615年-1624年)制作の『洛中洛外図』(八坂神社本)や江戸時代初頭の絵巻物『采女歌舞伎草紙』(徳川美術館蔵)にはむしろの上に立って、長い柄の大傘(おおからかさ)をかざし、月代を剃り、羽織を着た人物がささら説経を語るようすが、『洛中洛外図』(西村家本)や元禄年間の『人倫訓蒙図彙』には門付する説経者(「門説経」)のようすが描かれている。

 このことから、説経節がもともと野外芸能(大道芸・門付芸)として発展したことがわかる。

 大傘とむしろ(茣蓙)は、大道芸としての説経芸を成り立たせる大道具であり、むしろをもって舞台となし、長柄の大傘をもって非日常的な演劇空間を創出したのではないかとも考えられる。




 いっぽう、大傘については、営業中のしるしであった。

 大傘を、田楽を専門に踊る田楽法師が傘をもった伝統にちなむとし、傘のかたちをした松を「神様松」と称する地域もあることから、神の依り代であることを表象するものとの見解もある。


『人倫訓蒙図彙』では、「門説経」と掲げた図に「物もらいに種なきとはいへども、小弓引(こきゅうひき)、編木摺(ささらすり)はわきて下品(げぼん)の一属なり」との説明が付されており、ささら説経の徒は乞食のなかでも最下層のものと見なされていたこと、説経を語るときの伴奏に胡弓が使用されるようになり、ささらと胡弓が説経には欠かせないものであったことを示している。


 なお、この図では、一人がささら、一人が三味線、一人が胡弓をもった三人組が、屋敷の門口に立つ光景が描かれている。



元禄5年(1692年)の『諸国遊里好色由来揃』などでは「伊勢乞食」がささらを摺りながら語り歩いたものが「門説経」であると伝えており、『人倫訓蒙図彙』もまた説経の出所を伊勢国としている。

「伊勢乞食」の語は、のちに伊勢商人の吝嗇を非難する語となったが、元来は伊勢神宮に参宮した人びとを目あてとして群がった乞食をさす言葉であったといわれている。



 北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂(『洛中洛外図』)といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たしていたのであり、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間だったのである。

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説経節(せっきょうぶし)とは

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等


説経節(せっきょうぶし)とは


 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸。

 仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。

 
 近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。


 単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。

 古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である。

 
 説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある。


 説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する。

 また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある。


 徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある(詳細後述)



説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学

 鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。

とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。

 これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。




虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部)
 
「経師」(説経師)について記されている。

 ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。

 しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。

 それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。


「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。


「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。

 その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。


 南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。

 なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。




ささら乞食

 説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。

 ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。



 0現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。

 そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。

 

 観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。


 0能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えてる。


『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。


 なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。


 さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。




蝉丸神社(滋賀県大津市)

 中世芸能の徒にとって自らの祖神と仰いだ盲目の僧、蝉丸法師を祭っている。

 近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。


 永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。

 上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。


 近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。

 蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。



 現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。

 たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。



八坂神社所蔵『洛中洛外図』(元和年間)にみえる屋外での説経節

 土佐派絵師の手になるものといわれる。

 大傘をかざし、むしろの上でささらを摺って説経語りをしている。

 ひしゃくで投げ銭を集めている人物、聴衆の泣き伏しているすがたなどが確認、群がった乞食をさす言葉であったといわれている。
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さんせう太夫(説経節)とは

2024-08-25 | 説経節、幸若舞、舞の本等

さんせう太夫(説経節)とは



 以前にも東洋文庫読んだ『説経節』の一話である『さんせう太夫』(東洋文庫では、『山椒大夫』と書かれている)をもう一度読んでみた。

 話は知ってはいるものの、いまいちイメージがわかず、【 さんせう太夫(説経節)】を調べてみることにした。

 土曜に前進座の演劇を見旅程なので、それまでにわたくし自身のイメージを固めておきたいと、焦っている(笑)
 


さんせう太夫(説経節)  ⁅さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物とは⁆  (ウィキペディア)

 説経「さんせう太夫」は、高貴の身分の者が人買いにたぶらかされて長者に売られ、奴隷として辛酸をなめた後に、出世して迫害者に復讐するという物語である。

 高貴のものが身を落として試練にあうという構成の上からは、一種の貴種流離譚の体裁をとっているが、物語の比重は、迫害を受けるものの悲哀と苦しみに置かれており、故なき差別や暴力への怨念に満ちたこだわりがある。


 中世の日本には、支配する者とされる者との間に、厳然とした溝があり、過酷な対立があった。

 そして、支配される者の底辺には、譜代下人と呼ばれる階層があり、支配者に身分的に隷属して、奴隷のような境涯に甘んじていた。

 かれらは、人にはなれぬ製外者(にんがいしゃ)として扱われ、支配者による搾取のほか、苛烈な差別を受けていた。



さんせう太夫(さんしょうだゆう)(山川 日本史小辞典 改訂新版)


「山椒太夫」「山荘太夫」とも。

 説経節の一つ。

 岩城判官(いわきはんがん)正氏は無実の罪で筑紫に流され,その妻と子の安寿と厨子王は,赦免を乞いに京をめざす。

 その途中,越後で人買いにだまされ,丹後由良の長者山椒太夫に売られ酷使される。

 姉弟は脱出をはかるが露見,弟だけがのがれ,姉は死ぬ。


 厨子王はお守りの金焼(かなやぎ)地蔵の霊験で危機を脱し,摂津国天王寺の童子をへて,梅津院の養子になる。

 
 帝に謁見できた厨子王は事情をあかし,父の所領を回復。

 丹後国も賜り,太夫らに復讐する。

 その後,盲目となっていた母を捜しだし,金焼地蔵でなでると開眼したので,丹後に地蔵を本尊として寺を建立。

 森鴎外「山椒太夫」で著名になった。
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『説経節』(東洋文庫)より「付 信太妻」 樟の葉と恋に陥った安倍保名の本名は、安倍権太左衛門保名。子は、安倍晴明。

2019-06-17 | 説経節、幸若舞、舞の本等
長浜曳山まつり 翁山『碁太平記白石噺 新吉原揚屋の場』宮城野 2019年






     
    『説経節』(東洋文庫)より「付 信太妻」 樟の葉と恋に陥った安倍保名の本名は、安倍権太左衛門保名。子は、安倍晴明。





 

 七月、松竹座において私の好きな演目のひとつである『樟葉』が上演される。

 以前にも東洋文庫で『説経節』「付 信太妻」を楽しんだが、今回注意を払って読んで見た。

「付 信太妻」では「芦屋道満大内鑑~葛の葉」に加え「安倍晴明と石川悪右衛門の対決」と言った展開がなされ、果実十五個をネズミに帰るといった有名な話で安倍晴明が勝ち、悪右衛門の首をとるといった話で終わる。

 上は岩波の新日本古典文学大系93(緑)の『竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集』「芦屋道満大内鑑」でのクエあしく展開されているので、いずれ読んでみたい。


 樟の葉
       
 安倍保名 (親子)→  安倍晴明
            ↓↑(対決)
 蘆屋道満 (兄弟) 石川五右衛門(悪右衛門)


 晴明は話の上では2枚目であるとイメージの固定化があり、歌舞伎役者でいうならば片岡仁左衛門竹などがピタリと当てはまる感が否めない。

 ところが安倍保名の本名は、安倍権太左衛門保名(あべのごんたざえもんやすな)と濁音が多く、フルネームでいうと二枚目のイメージは薄れる。

 

 好きな演目なので書きたいことはいっぱいだが、今回も簡単な記録のみにて失礼いたします。



   『説経節』「信徳丸」東洋文庫(『弱法師』『摂州合邦辻』『文楽瑠璃集 』の「摂州合邦辻」比較)
   『説経節』から 「付 信太妻」 東洋文庫 平凡社
   『古浄瑠璃 説経集』から「さんせう太夫」 岩波 新版古典大系
   『さんせう太夫考』から「説経序説」「さんせう太夫の構造」岩崎武夫著 平凡社選書
    東洋文庫『説経節』から「山椒太夫」「注」「解説:山椒太夫」昭和44年3月
   『説経節』厨子王丸& 『幸若舞』信太(平将門孫)& 『説経節』小栗判官 = 重瞳、双瞳
   『小栗判官』
   『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』塩見鮮一郎著 説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、庶民の目から見た貧困、病、宗教、道行きを描く。
   『説経節』(東洋文庫)より「山椒大夫」(天下一説経与七郎)、『古浄瑠璃 説教集』(新日本古典文学大系)より「さんせう大夫」(天下一説経与七郎正本 「さんせう大夫物語」で補う)
   『説経節』(東洋文庫)より「付 信太妻」 樟の葉と恋に陥った安倍保名の本名は、安倍権太左衛門保名。子は、安倍晴明。





 以下の表記は『新日本古典文学大系 93』▼ ウィキペディアより


第1段
東宮御所の段
朱雀天皇の御代、月を白虹が貫き、暗くなるという天変が発生する。勅命により東宮である桜木親王の御所において、親王の后「御息所」の父である橘元方、もう一人の后である「六の君」の父である小野好古をはじめとした諸官を集めて評議が行われることとなる。
急死した天文博士、加茂保憲の代理で出席した娘の榊が見立てたところでは、今般の天変は凶事であり、東宮周辺の女性の嫉妬に原因があるという。この災いを避ける方法は加茂の家に伝えられている陰陽道の秘伝書『金烏玉兎集』に書かれているが、これを受け継ぐ後継者が決まっていないと言う。候補は2名、安倍保名と芦屋道満だが、いずれかを選ぶ前に保憲が亡くなったので、『金烏玉兎集』の伝承者がいないと告げた。これを聞きつけた六の君と御息所が、両人とも尼となって凶事の原因を取り除くと訴え出る。これに慌てた桜木親王はとりあえず后2人を下がらせ、評議に参加した一同に安倍保名と芦屋道満はどのような人物かと問う。それに応えて橘元方が、芦屋道満は自分の家来であり、保憲の一番弟子であると主張。一方小野好古も、安倍保名は自分の家来であり、師匠である加茂保憲から「保」の字を名乗ることを許された一番弟子であるという。后2人に出家されては困る桜木親王は、神意=くじで天文博士の後継者を決めるよう指示し、元方側は執権(補佐官)の岩倉治部に、好古側は同じく執権の左近太郎が立ち会うよう命じた。
間の町の段
東宮御所からの帰路、榊は安倍保名の使用人である与勘平から手紙を受け取る。榊と安倍保名は加茂保憲も認めた恋仲であり、手紙は逢瀬を求める内容であった。榊は返事をしたため、保名からの手紙とともに与勘平へ渡そうとするが、風に飛ばされてしまう。榊は手紙が他人に読まれることを恐れつつ、屋敷へと戻る。
加茂館の段
加茂保憲の妻、榊の養母(榊は養子)は保憲の死後に出家して「後室」様と呼ばれている。後室は、橘元方側執権である岩倉治部の妹でもある。その後室のもとに刻限より早く治部が到着し、「偶然入手した」と、榊が失くした保名の手紙を見せる。さらに加茂保憲の後継者をくじで決めることになった顛末を語り、「くじでは保名が後継者になってしまうかもしれないので、何か良い方策はないか」と、加茂家の執権乾平馬を加えて相談する。後室は、自分の持つ鍵と榊の持つ鍵の両方がなければ取り出すことができないはずの『金烏玉兎集』を治部に見せ、「こっそり作った合鍵で取り出した」と告げる。治部は狂喜し、この『金烏玉兎集』を隠して、榊と保名が『金烏玉兎集』を盗んだことにする算段を巡らせる。
そこへ何も知らない榊が帰宅、さらに逢瀬を楽しむべく保名も訪れてくる。榊と保名の仲は加茂の者以外には秘密なので、榊は保名を自室に隠す。そうこうしている間に左近太郎が到着。一同揃ったのでくじを行おうとするが、治部が「神前に『金烏玉兎集』を供えよう」と言い出し、これに同意した榊と後室がそれぞれの鍵で保管庫を開けると『金烏玉兎集』がない。治部と後室は事前の打ち合わせ通り素知らぬ顔で「榊が盗んだ」厳しく問い質し、そこへ平馬が榊の部屋に隠れていた保名を引き立ててくる。榊は「保名には罪はない」と弁明するが、保名は師匠の妻に手向かうわけにもいかず、脇差しで自害を試みる。その刀を榊が奪い取り、「身の潔白は神仏が明らかにしてくれる」と自刃して果てた。保名は榊の遺骸にすがりついて嘆いていたが、生真面目な性格が災いして正気を失い、哄笑とともにどこへともなく歩み去る。
事が済んだので、平馬は左近太郎を帰らせようとするが、左近太郎はこれを投げ飛ばす。これを見た後室が左近太郎の狼藉を咎めるが、袖から合鍵がこぼれ落ちてしまい、逃げ出そうとする。これで真相を悟った左近太郎は平馬を斬首。逃げようとした後室は、駆け付けた与勘平が注連縄で梁から吊るして成敗。左近太郎は「事の詳細知れば保名も正気に戻るだろう」と与勘平に後を追わせた。

第2段
岩倉館の段
岩倉治部は加茂館の騒動をうまく抜け出し、その際『金烏玉兎集』も持ち出していた。治部は河内の郷士である石川悪右衛門と自分の娘婿にあたる芦屋道満を呼び出し、後室成敗の真相を明かさないまま加茂館の顛末を語り、『金烏玉兎集』の利用法に関して密議を行う。
治部は『金烏玉兎集』を道満に与え、「これで陰陽道の大家となり、主人である橘元方の望みを叶えよ」と命ずる。道満は感謝してこれを受け取る。なんとか橘元方を東宮の外戚に地位に付けたいと考える治部は、道満に対して、陰陽道の術で橘元方の娘である御息所を懐妊させることが可能かを問う。道満は、御息所の懐妊については荼枳尼の法を用いればよく、そのためにはメスの白狐の生き血が必要と答えた。狐に関しては、悪右衛門の故郷石川郡で難なく手に入るという。
さらに治部は六の君の拉致を計画しており、すでに試みたが東宮御所の警備が厳しく断念したことを明かした後、道満に人を誘い出すような術が『金烏玉兎集』に書かれていないかと聞く。道満は舅の本意が単なる拉致ではなく、六の君の殺害であることを見抜き、教え渋る。しかし治部は、道満の妹が敵方の左近太郎に嫁いでいることを持ち出し、妹のために己が主の裏切るのかと厳しく詰問し、挙句の果てに娘と離縁させて、舅・婿の縁を切るとまで言い出す。これに負けて道満は人をおびき出す術式を治部たちに教え、「どこで殺すのか」と問うた。治部は「御菩薩池(みぞろがいけ)に沈める」と答え、さらに悪右衛門が実行役を買って出た。悪右衛門は、事が成った暁には、自分の伯父の所領である信太の庄と、伯父の娘「葛の葉」を貰い受けられるよう、橘元方に口添えして欲しいと治部に頼み込み、治部はこれを承知した。

親王御所北門の段
東宮御所内の六の君の住居に近い北門で、石川悪右衛門は道満の指示したとおり、神符を所定の位置に貼る。程なく、心神喪失状態の六の君が歩み出てきたので、悪右衛門は彼女を担ぎ上げ、御菩薩池へと向かう。
御菩薩池の段
御菩薩池(現在の京都市北区上賀茂にある深泥池)まで六の君を担いできた石川悪右衛門だが、そこで疲労困憊して一息つく。意識を取り戻した六の君は「なぜこのような目に合わねばならないのか」と悪右衛門に問うたところ、悪右衛門は「御息所の邪魔になるから、この池に沈めて殺す」と答える。そして、重しになる石を六の君の袖に入れて池へ投げ込もうとしたところ、突如葦原からの大男が現れ、悪右衛門を投げ飛ばし、六の君を背負ってどこかに姿を消す。
信太社の段
信太庄司(石川悪右衛門の伯父)の娘葛の葉は、毎夜身内に不幸が起きる夢を見る。この夢が、都にいる姉の榊(榊は信太庄司の娘で、加茂の家の養子に入った)の身に何かあったことを暗示しているのではないかと考えた葛の葉は、産土神である信太社に詣でる。一方、お供の腰元達は、夢は逆夢で、しつこく言い寄ってくる従兄弟の石川悪右衛門との縁が切れることを暗示した吉兆かもしれないと葛の葉をなぐさめる。そうこうして、ともに参詣する予定の父母の到着を待つ葛の葉であったが…
小袖物狂ひ(景事[注釈 7])
正気を失って加茂館から消えた安倍保名が信太社に現れる。次いで与勘平も追いついて、保名を連れ帰ろうとするが、保名はその手を振り払い、榊の形見である小袖を木の枝にかけてその面影を追い求める。
保名の狂態を幕の内に隠れて目撃した葛の葉であったが、卑しからざるその風体が気になって、保名の前に姿を現す。保名は、姉に容姿が似ている葛の葉を榊と間違え抱きつこうとするが、腰元達に押しとどめられる。与勘平は腰元達に事情を説明し、納得した腰元達が葛の葉に取りなしたところ、葛の葉も保名を哀れと思い、正気に戻るよう保名へ優しく言葉をかける。その言葉を聞いた保名は心を鎮め、葛の葉が榊とは別人であると気づき、無言のうちに正気を取り戻す。葛の葉は、保名の小袖の文様に見覚えがあり、与勘平の話にあった無実の罪で自害した女性が、自らの姉であることに気づく。葛の葉はそのことを保名に告げ、さらに姉の身に何が起こったのか聞きたがったので、保名は葛の葉を伴い幕の内に入る。
程なく葛の葉の両親が信太社に到着すると、姉の小袖を打ち掛けた葛の葉が彼らの前に現れ「この小袖を見覚えありませんか」と問う。母は「それは自分が榊に贈ったもの」と言い、「なぜその小袖をあなたが」と葛の葉に聞く。そこで葛の葉が泣き崩れたため、見かねた保名が両親に対して榊の身に起こった出来事、自分と榊の関係を語る。さらに保名は葛の葉を娶りたいと両親に申し出るが、礼儀知らずの悪党である悪右衛門からも求婚されており、これには返事をしないで放置しているので、この場で即答できないと答えた。
そこへ鐘や法螺貝の音とともに白い狐が逃げ込んでくる。「白い狐は不思議な獣で、伏見稲荷の神使でもあるから助けてやろう」と保名はかたわらの祠の扉を開けて入れてやる。そこへ勢いよく悪右衛門が駆け込んでくると、顔を合わすのはまずいと保名は幕の内に隠れる。悪右衛門は庄司一行がいるのに気づき、狐を取り逃がしてしまった腹いせに無理矢理葛の葉を連れ去ろうとする。庄司と悪右衛門は押し問答の末、もみ合いとなり、庄司がねじ伏せられる。これを見た保名と与勘平は、隠れていた幕の内から飛び出し助けに入る。保名は与勘平に庄司一行を逃がすよう命じ、一人悪右衛門とその供の者達に立ち向かうが、多勢に無勢で取り押さえられる。捕らえられた無念に保名は自刃しようとするが、そこへ突然葛の葉が現れ、これを止める。さらに庄司一行を逃して戻ってきた与勘平が保名達に加勢し、悪右衛門一味を撃退する。保名は身を隠すため、夫婦となった葛の葉ともども自分の生国である安倍野に引き籠もるべく出発した。

第3段
左大将館の段
六の君に御菩薩池で逃げられた左大将橘元方は、事が露見するのを恐れ、家臣の早船主税に行方を捜索させていた。近隣で見つからなかったため、さらに遠国に出向こうとした主税に対して、岩倉治部は「心当たりがある」と留める。その心当たりとは自分の娘である築羽根の婿、すなわち芦屋道満のところであるという。築羽根が夫婦喧嘩の末、治部の元に戻ってきたため事情を聞くと、道満は自宅に荼枳尼天を祀る祠(勧請所)を作り、そこには家の者を近寄らせないという。ところがこの祠から女の泣く声が聞こえる。築羽根は道満が女を囲っていると思い込んで喧嘩となったのだが、六の君はここに匿くまわれている、というのが治部の考えだった。
この話を聞いた橘元方は、道満の妹が小野好古の執権左近太郎の元に嫁いでいる事実に思い当たるが、道満が即座に六の君を好古側に引き渡さず、なぜ自宅に匿っているのか不審に思う。この疑問を解消するべく築羽根を呼んで尋問することとなった。築羽根をうまく誘導することで真相を質そうとする橘元方に対して、築羽根はノロケ話から始まり、道満の不振な行動を語るうちに逆上して、近くにいた治部に掴みかかる始末。これでは埒が明かないと思った橘元方は、とりあえず築羽根を奥に戻して策を練る。治部は道満を捕縛して白状させることを提案するが、橘元方は、この場に呼びつけてある道満が屋敷を留守にする隙に捜索する方がよいと言う。そこへ道満が到着し、治部への挨拶も早々に橘元方との面会に臨む。治部は道満宅の捜索に向かうべく馬の用意をするが、治部と橘元方の密議を盗み聞いていた築羽根が止めに出る。これを振り払って治部は道満宅へと急いだ。
道満屋敷の段
主人夫婦が留守にしている道満の屋敷では女中たちが噂話に興じている。そこへ道満の妹であり、左近太郎の妻である花町が帰ってくる。聞けば左近太郎に離縁されたという。父である将監にその報告をしようとした矢先、岩倉治部がやってきて横柄な態度で将監に対し捜索を行う旨を告げた。落ち着いた態度で応対する将監だが、治部が理由も告げずに荼枳尼天を祀った祠の鍵を壊そうとしたため、これを押し留める。捜索は六の君を匿っている件だと告げる治部に対し、将監はそれを否定し、鍵をもつ道満の帰宅を待って欲しいと訴える。それを無視して鍵を壊した治部だが、将監は留守を預かる立場がないと立ち塞がる。そんな将監に対して治部は「主人の命で来ている自分に刃向かうのか」とすごまれ、しぶしぶ道を開ける。治部は祠から六の君を連れ出し将監の前に引き据えるが、それを見た花町が、父の脇差しを手にして「夫(左近太郎)の探していた姫君を返せ」と迫る。治部も刀の柄に手をかけて一触即発の状態となり、将監が間に入るが果たせず乱闘が始まる。そこへ橘元方の屋敷から帰宅した道満が現れ、治部を投げ飛ばす。道満が六の君隠匿の件は橘元方のところで解決済みであることを告げると、治部は逃げ帰った。
将監は道満の一連の行為を訝しむが、道満は心ならずも六の君誘拐に手を貸すことになったこと、六の君が殺されることは見過ごせないので、御菩薩池でに扮して石川悪右衛門の手から姫を助け出したことを打ち明ける。しかし、そのまま姫を小野好古の元へ返したのでは、自分の主人である橘元方の悪事を暴いてしまい、それは忠義に反するので自宅に匿っていたと告白した。これを聞いた将監と六の君は道満の忠節に感激し、六の君は「自分を生かしてくれたことは情け深い所業だが、それでは罪作りとなる。いっそ殺してほしい」とまで言う。とりあえず道満は姫に入浴を勧め、奥へ下がってもらう。
道満の告白を聞いていた花町は、自分が離縁された原因は道満の書いた神符にあったと知り、六の君を返せば元通りになると喜ぶ。しかし将監は「姫を返せるものなら返している。道満は主命ゆえに、六の君の命を奪うつもりだ」と花町に告げる。これを聞いた花町は言葉を失う。将監に質された道満は「確かに先刻橘元方から、姫の命を奪うことを下命された」と白状した。さらに六の君の首を橘元方に差し出したら切腹すると言う。しかし将監は「それは橘元方のためにならない」とし、主命に背かず、六の君を弑することもない方策があるという。ここで花町が、自分を殺して、その首を六の君のものと偽って橘元方に差し出せばよいと訴えるが、将監が、六の君と似ても似つかない花町の首ではすぐに見破られると却下する。将監は、自分が六の君を逃し、その際に道満に討ち取られたこととし、その隙に姫には逃げられたことにすればよい、と言う。しかし、道満も花町も自分たちの父親を犠牲にして事を収めることには到底納得できず、他によい案も浮かばないまま、夜は更けていく。

奥庭の段
花町が誰かを待つかのように佇んでいると、兄嫁である筑羽根が現れる。彼女の悋気が自分と兄、父の苦境の発端であり、花町は筑羽根を罵倒する。ところが筑羽根は自分の行いを悔いており、花町の手にかかって果てるなら本望と言う。これにほだされた花町は、共に六の君を逃そうと筑羽根に提案する。もとより花町は六の君を逃がす算段で、その手助けをしてくれる夫の左近太郎を待っていたのであった。この案に意気投合した二人の元に顔を頭巾で隠した男が到着する。花町はこの男を左近太郎と思い込み、三人で道満宅に忍び込み、六の君を連れ出すが、そこに鑓を手にした道満が立ち塞がる。道満も頭巾の男を左近太郎と信じ、「命は取らないから、六の君を置いて立ち去れ」と警告するが、男は姫を奥に押しやり、道満に斬りかかる。二人の戦いは続くが、道満の鑓が男に致命傷を与え、男は倒れ伏す。それを見た花町が夫の仇と切りつけてきたが、道満は彼女をねじ伏せようとする。しかし、倒れた男がそれを止め、頭巾を脱ぐと、男は左近太郎ではなく、道満・花町兄妹の父将監であった。将監は左近太郎のふりをして、自分が犠牲になることで、道満の体面を保ち、花町の復縁を可能にしたのだった。実の父を手に掛けてしまった道満は自害しようとするが、遅れて到着した本物の左近太郎に止められる。左近太郎は、命を賭して六の君を守った将監の行動に感謝し、彼の忠義に報いるため、あえて橘元方の罪を桜木親王へ告発することはしないと誓うのだった。これを聞き安堵した将監は、家族に看取られ息を引き取る。
そこへ岩倉治部が登場し、道満に対して「左大将に約束した六の君の首級はどうなった」と詰問する。これに逆上した筑羽根が鑓で治部を突き殺す。筑羽根は手にした鑓で自害しようとするが、道満に制止される。道満は、六の君の謀殺は治部の入れ知恵であり、遅かれ早かれ治部はこのような最期を遂げたであろうと諭す。さらに、自分も筑羽根もそれぞれの父を殺した不孝者なので、ともに仏門に入り菩提を弔おうと言う。亡き将監も満足であろうと、左近太郎もこれに賛成する。道満は、出家した暁には「どうまん」を名乗ると語る。道満は、治部を討ち取ったのは将監であると検死役に報告すれば、将監の目論見どおり、道満と筑羽根に咎めはないだろから、六の君は左近太郎が小野好古の元へ連れ帰ってくれと頼む。

第4段
保名住家の段(子別れの段、狐(きつね)別れの段、狐(こ)別れの段とも)
保名と葛の葉が安倍野に隠棲して6年。二人の間には男子が生まれて穏やかな生活を送っている。ある日、保名宅で機を織っている葛の葉のところに何やら怪しげな木綿の買い付け人が現れるが、追い返される。次に安倍野に現れたのが、葛の葉の両親と葛の葉本人。葛の葉の父(信太庄司)は、6年もの間何の連絡もよこさない保名を訝しみ、母娘を待たせて一人で保名宅を訪れるが、保名は不在であった。そのとき宅内で機織りの音が聞こえたので覗いてみると、なんと娘と瓜二つ、声まで同一人物かと思える女性がいる。驚いた庄司は妻と娘の元にとって返し、今見たことを二人に話す。話の真偽を確かめるため母と娘も保名宅に入って、機織り部屋を盗み見ると、葛の葉本人が「どちらが自分かわからない」というほど似た女性がいる。とりあえずその場を離れた三人だが、事情がわからずため息をつくばかり。
そこへ保名が外出から戻ってくる。葛の葉の両親は保名に向かって「保名と添わせるために娘を連れてきた」と言う。これを「正式な婚姻のために、正装させて連れてきた」と勘違いした保名が、信太を出てから今日までの経緯を説明し、長年両親に連絡しなかった非礼を詫びる。話が噛み合わないため、庄司は「今、機を織っている女性を覗いてみなさい」と告げる。保名も葛の葉本人が眼前にいるにもかかわらず、機織りの音が聞こえてくる不思議に気づく。保名はあわてて機織り部屋を覗き見て、葛の葉が二人いることに呆然とする。庄司は、信太での騒動の後、石川悪右衛門の奸計で所領を没収され吉見の里(現在の大阪府泉南郡田尻町)で隠棲していたと言い、葛の葉は保名を慕うあまりに病床に伏していたと言う。そんな折、保名の消息を聞き及ぶや、たちまち葛の葉の体調が回復したので訪ねてきたものの、そこで自分の娘そっくりの女性を見つけたことを話す。ようやく事態を把握した保名は、機を織っているのは人外の物であると察して、葛の葉一行を物置に隠し、何食わぬ顔で機織り部屋に入っていく。
保名は葛の葉似の女に、庄司夫婦と四天王寺で偶然出会って、日暮れまでにここを訪れることとなったと伝える。それを聞く女の様子を観察する保名だが、女は別に驚いた様子もない。あまりの普通さに、庄司一行の方が怪しく思える程であったが、保名は奥に潜んで様子を伺うことにする。すると身支度を整えてきた女が、抱いた我が子に対して、縁を切って別れなければならないと涙ながらに告げる。自分は悪右衛門に追われていたところを助けてもらった狐であること、自分のために傷まで負った保名の恩に報いるため葛の葉の姿に化けて保名の自害を止めたこと、夫婦の語らいをしているうちに情愛が深まったことを告白する。さらに、葛の葉とその両親に預けるので、狐の子と後ろ指を差されないよう精進して生きよと言い聞かせ、泣き崩れる。この言葉を聞いた保名は走り出て、思いとどまるように声をかける。その声を聞いた庄司夫妻と葛の葉も出てくるが、女は童子を置いて消え去る。葛の葉と両親は、この子を我が子として育てる決心をするが、童子は母を慕って泣きじゃくり、保名も「狐の女房であっても何も恥ずかしいことはない」と嘆き悲しむ。さらに保名は一首の歌「恋しくは 尋ねきてみよいづみなる しのだの森のうらみくずのは」が障子に書きつけられているのを見つけ、悲しみを深くする。庄司は、歌には「恋しくなったら信太の森に訪ねて来て」とあるではないかと、保名を慰める。
そこへ今朝追い返した木綿の買い付け人が仲間を引き連れて現れ、自分たちは石川悪右衛門の家来で、主人が心をかけている葛の葉を引き渡せと迫る。保名は、葛の葉に子供を抱いて両親とともに隠れているように命じ、機織り道具や機織り機の部品を投げつけたり、振り回したりして激しく抗戦し、撃退する。隠れていた一同が出てきて保名を褒めそやすが、葛の葉は浮かない様子で、童子のために乳が欲しいという。庄司は「そうでなくても一度は信太の森を尋ねて義理を果たさなければならない。夜が明けたら保名、童子とともに信太の森へ行くといい」と言う。

道行信太の二人妻(景事)
(前半は狐の葛の葉が安倍野から信太へ帰る道行きを、後半はそれを追う本物の葛の葉、保名、童子の道行きが演じられる。前半は「乱菊の段」とも呼ばれる。)
草別れの段(後の別れの段とも)
ようやく信太の森に到着した保名一行は、菊が乱れ咲く中、狐を探して回る。葛の葉が「どうかこの子に会ってやって欲しい」と懇願すると、ふたたび葛の葉そっくりに化けた狐が現れる。保名は狐の葛の葉に走り寄って「物の怪だろうが構わない。せめてこの子の物心が付くまで育てて欲しい」と訴えかける。本物の葛の葉も、保名の面倒を見、童子を産み育ててくれたことを感謝し、自分のせいで親と別れなければならなくなったこの子が、自分を母と思い込んで乳を求めるのが悲しいと泣き伏す。それを聞いた狐は「正体を知られてしまっては1日たりとも人に混じって暮らすことができない。後のことは葛の葉に頼む」と童子に乳を含ませながら答える。それでも保名は戻ってくるように懇願するが、狐は「この姿だから引き留めるのだろう」と白狐の姿に戻って、我が子の身を案じるように草むらに姿を消す。保名は「どんな姿だろうが構わない」と後を追おうとするが、深い草むらに阻まれる。
信太の森の段(前半を童子問答の段あるいは童子物語の段、後半を二人奴の段ともいう)
保名たちの元に芦屋道満が駕籠に乗って現れる。葛の葉は刀を手に「姉の仇」と声をかけるが、道満は「落ち着くように」と言いながら悠然と駕籠から出てくる。僧形の道満を見た保名は、それが罪を逃れるための偽装だと思い「僧籍に入ったとはいえ、仇は仇」と勝負を挑む。しかし道満は、剃髪したのは自分の父将監の菩提を弔うためであること、榊が自らの命を絶つことになったのは後室と岩倉治部の企みであったこと、『金烏玉兎集』を奪い取ったという保名の疑いはもっともだが事実とは異なることを告げる。そして、難儀な目に会った兄弟弟子のことはこれまでも気をかけており、後継者としてふさわしい保名に『金烏玉兎集』を譲るため、故郷の芦屋の庄へ赴く途中に立ち寄ったのだと言う。そして『金烏玉兎集』を取り出し、「この書で陰陽の道を拓き、都へ帰ってきなさい」と言うのだった。これを聞いた保名は平伏し道満への邪推を詫びた後、「もはや出世の見込みがない自分にではなく、跡を継がせる息子に『金烏玉兎集』を譲って欲しい」と頼み込む。道満はこころよく『金烏玉兎集』を童子に手渡す。
受け取った童子は表紙の「金烏玉兎」の文字を見て、「金烏は太陽の中の3本足の烏、玉兎は月で餅をつく兎。よってこの本を読めば、天地の間のすべてが明らかになる」と言う。道満はこれを聞き、保名の教育を褒め称えるが、保名は何も教えていないという。そして、この子の生みの母は長い年月を生きてきた白狐であり、この子はその才を受け継いだのだろうと言う。道満は、中国にも妖狐と人の間にできた子供が成長して高官にまで昇りつめた例があるので、保名の子を試してみることにした。道満の出す質問の数々に、童子は姿を隠した母狐の力を借りて次々と正答していく。童子の才に感じ入った道満は、童子の烏帽子親となるので「晴明」と名乗るように言う。道満は、保名との再会も果たしたことでもあるし、信太社を参拝したいと申し出る。保名は自分も同行しようと言って、葛の葉は晴明とともにここで待つように言い残して去る。
(ここから後半)そこに石川悪右衛門が葛の葉を奪取しようと手下を引き連れて現れる。葛の葉を見つけた悪右衛門は親子を拉致しようとするが、突然与勘平が現れ、孤軍奮闘して悪右衛門らを阻止し、逃げる一味を追撃した。と、そこへまた状箱(書状を収めるための箱)を携えた与勘平が現れる。葛の葉は先程の奮戦を労うが、与勘平は自分は保名の用事で都へ使いに出た帰りで、戦いなど身に覚えがないという。与勘平と葛の葉が噛み合わない話を続けていると、悪右衛門一味が戻ってきて、後から現れた与勘平と争いになる。これを撃退し追撃する与勘平に「深い追いするな」と叫ぶ葛の葉だが、悪右衛門の家来に捕まる。そこにまた与勘平が現れ、応戦する。前後を敵に囲まれ駕籠に逃げ込んだ葛の葉親子だが、その駕籠を二人の与勘平が担いで逃走する。晴明が駕籠から顔を出して「与勘平が二人いる」とうれしそうに葛の葉に報告すると、駕籠を担いでいた与勘平本人もその事実にようやく気づき、自分が本物だと言い争いを始める。見かねた葛の葉が与勘平の生い立ちなどを尋ねて本物の与勘平を明らかにする。すると一方の与勘平が、自分は白狐の仲間の野干平で、助太刀に来たと明かす。そして悪右衛門一味の相手は自分(野干平)に任せて、本物の与勘平は葛の葉親子を連れて草むらに隠れていろと指図する。悪右衛門一味は妖狐の通力に翻弄され、命からがら逃げ帰った。
信太社から戻った保名と道満は一部始終を聞き、これも信太明神の加護と信太社に向かい遥拝する。そして「帰り道に伏兵が残っているかもしれない」と与勘平に提灯を持たせようとしたところ、あたり一帯が狐火の光に満ち溢れるのだった。
第5段
京、一条の橋の段
3年の月日が経ち、晴明は8歳となっていた。小野好古の元を尋ねようと、保名、葛の葉、晴明は京に上る。一行が一条の橋にさしかかったところで、左近太郎と出会う。好古は、左近太郎の労により保名の帰参を認め、利発なことで評判の晴明を明朝参内させるつもりだと言う。その前に一度晴明を好古に会わせるために、左近太郎が保名一行が泊まる宿に迎えにいくところだった。左近太郎は保名一行を小野好古の屋敷へと誘う。保名はその厚意には感謝するが、勝手に好古の元を飛び出た不義理ゆえ、会うのは晴明と葛の葉だけにしたいと言い、二人を送り出す。
一人になった保名は、長櫃を運んでいる石川悪右衛門一味と偶然行き会う。物陰から伺う保名は、この長櫃の中に悪右衛門が六の君を呪詛するための藁人形を運んでいるのを知る。悪右衛門の家来に見つけられそうになった保名は飛び出して一味と戦うが、不覚をとって討ち取られてしまう。保名の遺体は藁人形とともに長櫃へ入れられ、川に流される。
大内の段
内裏では、桜木親王が座る傍らに、左大将橘元方、参議小野好古の両名が控える。そこに葛の葉と晴明が連れてこられる。小野好古は「この者は自分の家臣安倍保名の息子の晴明。8歳と幼いが、陰陽道に通じているので、芦屋道満ともども帝都にあれば長久の基となるでしょう」と奏上する。これを聞いた橘元方は「この者の父保名は未熟者で、先般都を逐電し、落ちぶれ果てた男。その子が才能豊かなわけがない。都には、天下に並ぶ者なしと評判の芦屋道満一人いれば十分」と、晴明を貶める。これに憤った葛の葉が「幼くても才能ある人間はいる。小さな子に対してその態度は…」と食ってかかる。これに怒った橘元方が「卑しい女め」と葛の葉を引っ立てようとしたところ、桜木親王が制止する。桜木親王は晴明と道満の術比べを提案し、近在の百姓が見つけたという長櫃の中身を当てることを命じる。橘元方はこの長櫃が六の君呪詛のための藁人形入れたものと気づいて、なんとか中身当てをやめさせようとするが、桜木親王はこれを聞かない。
中身当てが始まった。道満が晴明から占うよう勧めるが晴明は固辞して、道満が先に占うこととなる。道満の見立てでは、中には人の形をしたものが二体あるが、一方は形だけ模した人形。他方は斬られて死んだ30歳ほどの男だと言う。晴明がこっそり占ったところ、道満の見立て通りで、心の中で悔しがる。晴明はしばらく思案した末、刀傷の男は魂魄がまだ抜け切ってないので落命とは言えないと答える。道満と葛の葉は心配して晴明に再考を促す。詰め所に控えていた石川悪右衛門がここぞとばかりに占いの場に現れ、「蓋を開けて、死体が出れば許さない」と晴明にすごんでみせる。晴明はこうした脅しに臆することなく、「母様ご安心を。刀傷をたちどころに直してみせます。ご覧あれ」と秘文を唱える。
晴明蘇生の祈(節事[注釈 8])
(晴明は一心不乱に祈祷する)
祈祷の効果か、長櫃の上に無数の鳥が集まってくる。鳥たちはしばらく旋回を繰り返した後、悦びの声を上げて飛び去る。晴明は「蘇生の徴。蓋を開けて」と促す。恥をかかせてやると、悪右衛門が蓋を開けようとすると、中から保名が悪右衛門を掴んで足元に踏みつけ、悪右衛門と橘元方による六の君呪殺の悪企みを明らかにする。一部始終を聞いた左近太郎が橘元方を投げ飛ばしたところ、道満が割って入って、「これでも御息所の父なので、命ばかりはお助けください」と嘆願する。これを聞いた桜木親王は「左大将は流刑、悪右衛門は保名父子に任せる」と裁定し、保名は悪右衛門を斬る。桜木親王は晴明に官位を与え、道満ともども末の世まで語り継がれる存在となった。




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『説経節』(東洋文庫)より「山椒大夫」(天下一説経与七郎)、『古浄瑠璃 説教集』(新日本古典文学大系)より「さんせう大夫」(天下一説経与七郎正本 「さんせう大夫物語」で補う)

2019-06-14 | 説経節、幸若舞、舞の本等
 東大寺


 


 『説経節』(東洋文庫)より「山椒大夫」(天下一説経与七郎)、『古浄瑠璃 説教集』(新日本古典文学大系)より「さんせう大夫」(天下一説経与七郎正本 「さんせう大夫物語」で補う)





 『説経節』(東洋文庫)より「山椒大夫」              310
  天下一説経与七郎
  寛永十六年ごろ刊 
  さうしや長兵衛板か?


 『古浄瑠璃 説教集』(新日本古典文学大系)より「さんせう大夫」   327
  寛永末年頃刊 「さんせう大夫」
  天下一説経与七郎正本。天理大学付属天理図書館像
  丹緑中型本で十四行二十八丁(上巻末丁裏無刻)
  上中下三巻形式。
  現代最古の正本。
  破れ部分あり

  破れ部分は
  寛文後期刊 「さんせう大夫物語」
 「さんせう大夫物語」(上巻新出。中下巻、大阪大学付属図書館赤城文庫蔵)で補う



 改めてざっくりと「山椒大夫」及び「さんせう大夫」を読んでみたが、疑問は募るばかり。
 大切な部分や気にかかる部分などをメモ書きながら読むのがいいかもしれない。

『説経節』といえばその一つに「信太妻」もあるが、七月には松竹座にて『葛の葉』が上演され流ので、観劇前にこちらも今一度押さえておきたい。

 図書館で『説経節』に関連する書物を2,3冊、その他『舞の本』などをお借りした。
 スズメよりは少し大きめの鳥が
「ムククククゥ、ムククククゥ」
と喉を唸らしながら、花壇のゼラニュウムやバラの間を歩いている。
 今日も楽しい時間の始まり。
 またや六月中旬からの一ヶ月間もやりたい事や やるべき事が決まる。
 しばらくは『説経節』関連で遊べそうだ。

 今回も簡単な記録のみにて失礼いたします。



   『説経節』「信徳丸」東洋文庫(『弱法師』『摂州合邦辻』『文楽瑠璃集 』の「摂州合邦辻」比較)
   『説経節』から 「付 信太妻」 東洋文庫 平凡社
   『古浄瑠璃 説経集』から「さんせう太夫」 岩波 新版古典大系
   『さんせう太夫考』から「説経序説」「さんせう太夫の構造」岩崎武夫著 平凡社選書
    東洋文庫『説経節』から「山椒太夫」「注」「解説:山椒太夫」昭和44年3月
   『説経節』厨子王丸& 『幸若舞』信太(平将門孫)& 『説経節』小栗判官 = 重瞳、双瞳
   『小栗判官』
   『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』塩見鮮一郎著 説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、庶民の目から見た貧困、病、宗教、道行きを描く。
   『説経節』(東洋文庫)より「山椒大夫」(天下一説経与七郎)、『古浄瑠璃 説教集』(新日本古典文学大系)より「さんせう大夫」(天下一説経与七郎正本 「さんせう大夫物語」で補う)









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『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』塩見鮮一郎著 説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、庶民の目から見た貧困、病、宗教、道行きを描く。 

2019-06-08 | 説経節、幸若舞、舞の本等



 『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』塩見鮮一郎著 説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、室町時代の庶民の目から見た貧困、病、宗教、道行きを描く。 

 文藝文庫 2012年





  
  当時の人々は、どんな暮らしをしていたのか

  説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、室町時代の庶民の目から見た貧困、病、宗教、そして恋の道行きを描く。

  担当編集者より
  中世の人々は、どんな暮らしをしていたのか——。説経節の名作『小栗判官』を題材に、殺された後、蘇生する主人公「をぐり」のたどった熊野への旅を改めて検証するとともに、貴族や高僧といった上流階級ではなく、庶民の目線から見た貧困、病、宗教、そして恋の道行き等々を描きます。文春新書『貧民の帝都』の著者による待望の第2弾です。(IS)
  (文藝春愁公式HPより)




 以前にも読んだ『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』を再読する。

 興味深い内容だったので多くを覚えてはいたが、再び興味を持つ。

 著者である塩見鮮一郎氏が七十の手習いとして謙遜されていらっしゃるが、氏の辿られた道(参考になさった書物や足取り)を私も学んで見たくなった。

 もともと伝統芸能、民俗学、古典、中世などには多少ではあるが興味を持っていたので、上をたどって遊ぶのは、これから先の人生の一部を費やしてもいいのではないかと考える。

 面白そうな遊びを見つけてしまったと、ほくそ笑む。


『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』は木曜、金曜の二日間をかけてゆっくりと読み進めたが、金曜日から岩波の新古典文学大系(緑)で東洋文庫と照らし合わせながら、これもまた二度目である『古浄瑠璃 説経集』「さんせう太夫」を読み進めている。

「山椒太夫」の中には案山子と言った言葉は出てこないのだが、『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』の中に書かれていた箇所に至った時には、喜びを感じた。


『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』には興味深い内容が多くあり、講義を受け、復習しているているつもりになって三度目を読もう。

 本書はノートを取りながら中身を熟読及び習得したい。


 ところで拙ブログである『乱鳥の書きなぐり』で『中世の貧民 』を検索すると、『小栗判官』のページしかヒットしなかった。

 このページには

   『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』によれば、「をくり」の表記は「ふぉぐり」と発生するので、間違いだと指摘されていた。

と書いているので確かに記録しているはずなのだが、検索しても出てこない言葉や記録が多々あるのが残念である。(といっても、大した内容ではないのだが…)


 やりたいことが一つ増えた。『説経師 』や謡曲などを含めた、中世の文藝などをしっかりと読みたい。

 私なりの人生に小さな花の蕾が出てきた気がする。時間を大切に。楽しい時間を紡ぎたいと思う。


 今回も簡単な記録のみにて失礼申し上げます。
 

 
   『説経節』「信徳丸」東洋文庫(『弱法師』『摂州合邦辻』『文楽瑠璃集 』の「摂州合邦辻」比較)
   『説経節』から 「付 信太妻」 東洋文庫 平凡社
   『古浄瑠璃 説経集』から「さんせう太夫」 岩波 新版古典大系
   『さんせう太夫考』から「説経序説」「さんせう太夫の構造」岩崎武夫著 平凡社選書
    東洋文庫『説経節』から「山椒太夫」「注」「解説:山椒太夫」昭和44年3月
   『説経節』厨子王丸& 『幸若舞』信太(平将門孫)& 『説経節』小栗判官 = 重瞳、双瞳
   『小栗判官』
   『中世の貧民―説経師と廻国芸人 』塩見鮮一郎著 説経節の名作『小栗判官』を題材に、貴族や高僧、武士ではなく、庶民の目から見た貧困、病、宗教、道行きを描く。









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映画『山椒大夫』 5★ 監督:溝口健二 脚本:八尋不二、依田義賢  1954年 大映 田中絹代 花柳喜章 香川京子 進藤英太郎

2019-05-01 | 説経節、幸若舞、舞の本等


   映画『山椒大夫』 5★ 監督:溝口健二 脚本:八尋不二、依田義賢  1954年 大映 田中絹代 花柳喜章 香川京子 進藤英太郎






 溝口健二監督と依田義賢脚本とがタッグを組んだ映画の一つ、『山椒大夫』を観た。

 溝口健二監督の映画は、最近の私のマイブームの一つになりつつある。

 とにかく、どれを観ても、今のところ満足感が大きいい。


 今回は以前に読み比べた説経節や広義で考えると歌舞伎で見た『雙子隅田川』にも関連性のある映画『山椒大夫』であり、二時間があっという間に過ぎた。

 鴎外では描かれなかった硝煙で繰り広げられているひどい奴隷生活や拷問の場面は原作に基づいて描かれたこの映画は、素晴らしい芸術作品の一つだと感じた。






   
   『説経節』「信徳丸」東洋文庫(『弱法師』『摂州合邦辻』『文楽瑠璃集 』の「摂州合邦辻」比較)
   『説経節』から 「付 信太妻」 東洋文庫 平凡社
   『古浄瑠璃 説経集』から「さんせい太夫」 岩波 新版古典大系
   『さんせい太夫考』から「説経序説」「さんせい太夫の構造」岩崎武夫著 平凡社選書
    東洋文庫『説経節』から「山椒太夫」「注」「解説:山椒太夫」昭和44年3月
   『説経節』厨子王丸& 『幸若舞』信太(平将門孫)& 『説経節』小栗判官 = 重瞳、双瞳





    以下のデーターは全てウィキペディアより ▼

「山椒大夫」(さんしょうだゆう)は、説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説で、鴎外の代表作の一つである。


「安寿と厨子王丸」
 この小説は中世の芸能であった説経節の「五説経」と呼ばれた有名な演目の一つ「さんせう太夫」を原話として執筆され、1915年(大正4年)、森鴎外53歳の時に「中央公論」に掲載された。


 さんせう太夫
 岩城の判官正氏の御台所、その子安寿とつし王(厨子王)が、帝から安堵の令旨を賜るべく都へと向かう途中、人買いにたぶらかされて親子離れ離れに売られ、姉弟は丹後の長者「山椒太夫(三庄太夫)」のもとで奴隷として辛酸をなめる。
 姉の安寿は弟を脱走させたため山椒太夫の息子・三郎によって凄惨な拷問を受けた末に殺されてしまう。
 つし王は神仏により救われて出世し、山椒太夫父子に苛烈な復讐を行う。

 あらすじ
 平安時代の末期、陸奥国の掾であった平正氏は、上役の罪に連座して筑紫国へ左遷された。妻と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。
 やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えるようになった。
 そしてある日、安寿は厨子王に脱走をすすめる。厨子王は都への上洛を果たし、関白藤原師実の知遇を得て丹後に国司として赴任(実際は遥任であるが)、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、丹後一帯での人買いを禁止。山椒大夫はやむなく、奴隷を解放し賃金労働者として雇うようになる。
 その後、母が佐渡国にいると聞きつけた厨子王は、佐渡にむかい、盲人となった母親に再会する。

 小説化における脚色
 世に知られた安寿・厨子王伝説をいかにして小説『山椒大夫』に仕立てたかを随筆「歴史其儘と歴史離れ」で鴎外自らが具体的に語っている。それによると、伝説の筋書きを基にしながら、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わない、あるいは鴎外の好みに合わない部分に小説的な脚色を加えていったと述べている。
 鴎外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てている。
 また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルである。
 また、原作では焼印を押されてしまうが、森鴎外の山椒大夫では、夢の中の出来事として扱われており、お守りの地蔵に焼印が有ったとしている。


   → 映画では説経節の原作に基づき、描かれていた!


 映画
山椒大夫

監督 溝口健二
脚本 八尋不二
依田義賢
製作 永田雅一
出演者 田中絹代
花柳喜章
香川京子
進藤英太郎
河野秋武
浪花千栄子
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
編集 宮田味津三
配給 大映
公開 日本の旗 1954年3月31日
上映時間 124分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
テンプレートを表示
1954年3月31日公開。大映製作・配給の溝口健二監督作品。ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得するなど、海外でも高く評価され、溝口の代表作のひとつとなった。


 概要
 依田義賢と八尋不二が共同で脚色し、溝口が監督した。本作は海外でも高く評価され、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得、『西鶴一代女』『雨月物語』に次いで3年連続でヴェネツィア国際映画祭に入賞した。
 ほか、国内ではキネマ旬報ベストテン第9位にランクインされた。
 ラストの海のシーンはジャン=リュック・ゴダールが『気狂いピエロ』で再現したほどである。


 スタッフ
監督:溝口健二
製作:永田雅一
脚本:八尋不二、依田義賢
企画:辻久一
撮影:宮川一夫
録音:大谷巌
照明:岡本健一[2]
美術:伊藤熹朔
音楽:早坂文雄
編集:宮田味津三
助監督:田中徳三
進行:小澤宏


 キャスト
玉木:田中絹代
厨子王:花柳喜章
安寿:香川京子
山椒大夫:進藤英太郎(東映)
仁王:菅井一郎(第一協団)
吉次:見明凡太郎
小萩:小園蓉子(松竹)
姥竹:浪花千栄子
巫女:毛利菊江
藤原師実:三津田健(文学座)
平正氏:清水将夫(民芸)
曇猛律師:香川良介
太郎:河野秋武
内蔵介工藤:小柴幹治
左太夫:荒木忍
少年時代の厨子王:加藤雅彦 (現在の津川雅彦)
少女時代の安寿:榎並啓子
遊女中君:大美輝子
波路:橘公子
汐乃:金剛麗子
平正末:南部彰三
遊女宿の親方:東良之助
判官代則村:大邦一公
金平:伊達三郎
奴:石原須磨男
木戸の番人:天野一郎
萱野:相馬幸子
船着場の女:小松みどり

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平曲『平家物語 敦盛』(琵琶と語り)& 『幸若舞 敦盛』(鼓と特徴ある合いの手、舞)   (能楽)敦盛の予習3

2018-11-07 | 説経節、幸若舞、舞の本等
 三輪神社にて 二條流煎茶




 平曲

 平曲とは
『平家物語』を平家琵琶を伴奏として語る音曲。
『徒然草』によれば後鳥羽天皇の頃,生仏という盲人が語り始めたとされる。
 その後城方(八坂方。→八坂流),一方(いちかた。→一方流)の 2流に分かれ,一方流中興の祖,明石覚一が曲節,詞章を整えた。

 一方流は江戸時代に前田流,波多野流に分かれ,前田流のみが今日に伝えられている。
 平曲は節なしの素声(しらごえ)と,節をつけて語る引句(口説,初重,中音,三重,サシコエ,その他に細分される)の 2部分からなり,これらを組み合わせて,物語の内容にふさわしいように作曲されている。
          (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)



 平曲 琵琶演奏・歌
 平家物語 敦盛 ▼
 
 平曲 平家物語 敦盛 はいろいろな方で聞いてみましたが、このかたの声が私の場合は一番好きでした。




 以前東洋文庫で読んだ『幸若舞』
 ユーユーブで敦盛を見ていると『幸若舞』でも『敦盛』があることを知り、十動画以上を楽しませていただいた。
 幸若舞はリズミカルに地鎮のような明日の運ばせ方。
 小鼓も単調なリズムだが、
     パカパカ パカパカパカ ニュオ
     パカパカ パカパカパカ ニャオ


  と猫のようなアクセントの合いの手が入る。
 室町当時としては、割合に動くも早く、曲の画期的な舞であったのではないかと考える。
 小包の打ち方は、能楽のそれとは違い、パカパカと打つのが特徴。
 衣装は三河万歳や伊勢漫才を思い浮かべたが、発生の理由は全く違うのかもしれない。
 東洋文庫の解説部分に乗っていたのかもしれないが、忘れてしまっている。
 岩波文庫の古典文学大系のも『幸若舞』はあるので、今一度、読んでみたい。

 ユーチュービで幸若舞の敦盛を見ていると、謡及び舞もすり足で能楽さながらのものもあった。
 こういったものも幸若舞と呼びか稲川私にはわからないのですが、地鎮や三番叟など五穀豊穣の動きを取り入れた素朴な続きと歌と舞の幸若舞に魅力を感じたので、とりあえず何度も楽しませていただいた幸若舞の映像を紹介させていただきます。

 日本の室町時代からの『幸若舞』が今もうけつがれている。
 今はネットでもその一部を味わうことができ、幸せな時代だと感じる。

 私が何度も楽しませていただいた『幸若舞』の敦盛▼
 
 幸若舞 敦盛
 幸若舞(こうわかまい)は、室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。能や歌舞伎の原型といわれ、700年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。
 人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり
 








 京都観世会11月例会に備えて、
 そろそろ予習を… 3
 とりあえず百番集を読む。

  25日(日)11:00
 京都観世会11月例会

   (能) 敦盛  田茂井廣道
   (狂言) 千鳥  茂山千五郎
   (能)  富士太鼓 河村博重
   (能) 大会    宮本茂樹




 ご覧くださいまして、感謝いたします。
 
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