乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『マノン・レスコー』あらすじ(一部)/ プッチーニ《マノン・レスコー》全曲

2024-10-30 | クラッシック音楽

プッチーニ《マノン・レスコー》全曲 テバルディ/デル・モナコ

 

『マノン・レスコー』

あらすじ

 

 

 主人公は、マノンではなく男性。

 マノンを心より愛しすぎているために、不幸になった男

 世界の果てまで行こうとも、マノンの後を追っていこうとする騎士グリュー。

 

 オペラでも、バレエでも、気に留めるのは、恋の魔力にボロボロになっていくグリューの姿。

 

   グリューはマノン・レスコーと出会い彼女の魅力のとりこに。

 グリューはりっぱな階級の出身でマノンは家格のつりあわない下層階級の女性。

 しかしグリューはそんなこと気にも留めず、マノンとグリューは恋愛関係になる。

 

 パリで結婚する約束をしましたが、親の承認が得られず、結婚不可能。

 パリでの同居生活は順調に見えましたが、やがてお金が尽きる。

 

 するとマノンは遊びのために、他の金持ちを家に連れ込んでしまう。

 

 グリューは衝撃を受ける。

 

 マノンを独り占めしたいほかの男の戦略で、グリューは実家に連れ戻されてしまう。

 

 

 浮気な女との恋愛をあざわらう周囲の人たちの嘲笑に負けず、グリューは自分の恋愛を貫く。

 

 「かえしてもらいたいのは彼女なんだ」  

「他の男はマノンの心を獲得しません。マノンがぼくを裏切るなんてことがあるでしょうか。いや、ない。ぼくを愛さなくなるなんてことがあるでしょうか。いや、ない。」

 「ぼくは男の家に火をつけよう。そして不貞のマノンもろとも黒焦げに焼いてやこう、、、」

 

 グリューは恋愛の狂気に陥る。

 

 

 マノンは他の金持ちの男に囲われたまま。

 マノンの愛情に比してしかるべき金を払い、いい暮らしを与える。

 

 

 グリューは僧門(キリスト教)に入ろうとする。

 世をすてて隠遁し、家柄にふさわしい宗教者への道を歩もうとする。

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『マノン・レスコー』アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ /動画でわかる《マノン・レスコー》

2024-10-27 | クラッシック音楽

動画でわかる《マノン・レスコー》

 

『マノン・レスコー』アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ /動画でわかる《マノン・レスコー》

 

 

 アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ (Antoine François Prévost d'Exiles、1697年4月1日 - 1763年12月25日)は、フランスの小説家。

 

 カトリック教会の聖職者であったため、アベ・プレヴォ(Abbé Prévost、僧プレヴォ)と短縮して呼ばれることが多い。  

 

 人物・生涯 エダン(フランス語版)にて弁護士の子として生まれた。

 

 イエズス会学校で学び、幾度か聖職を離れて軍に入隊したり、逃亡して外国へ行った経験が、高名な小説『マノン・レスコー』の土台となった。

 

 また著作家として、15世紀以降のヨーロッパで出版されたあらゆる紀行文をまとめて『旅行の歴史』を出版した。

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『マノン』あらすじ

2024-10-27 | クラッシック音楽

3分でわかる!バレエ「マノン」|新国立劇場バレエ団

 

『マノン』あらすじ

 

 

『マノン』

  原作はマノン・レスコー

 フランスの貴族アベ・プレヴォーによる1731年の小説『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』。

  正しくは『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、7巻からなる自伝的小説集『ある貴族の回想と冒険』の第7巻に当たる。

 

  ファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を描いた文学作品としては最初のものといわれ、繊細な心理描写からロマン主義文学の走りともされる。  

 

 この作品に基づくオペラ(歌劇)としては、マスネによる『マノン』の他、プッチーニの『マノン・レスコー』も有名。  

 

 なお、マスネによる歌劇『マノン』の音楽は、バレエ『マノン』では一切用いられていない。

 

 バレエでの音楽は、元ダンサーのレイトン・ルーカス(Leighton Lucas/1903-1982)により、マスネの他の楽曲が編曲・アレンジされたものが用いられている。

 

 

 

 あらすじ・ストーリー

 

 パリ郊外の宿屋に一台の馬車が停まった。

 中から降りて来たのは、ひときわ美しい少女マノン。

 家庭の事情で修道院に入るため、途中で立ち寄った宿屋だった。  

 

 宿屋にいた若き学生デ・グリュー(グリュウ)は、この美少女マノンにたちまち一目惚れしてしまい、二人で駆け落ちしようと彼女を説得する。

 

 マノンも優しいデ・グリューに心を開く。  

 マノンに惹かれたのはデ・グリューだけではなかった。

 好色な老富豪ムッシューG.Mはマノンの兄レスコーに彼女の身請け話を持ちかけ、大金と引き換えに兄レスコーの同意を取り付けた。

  しかし、ムッシューG.Mと兄レスコーが話している間に、マノンはムッシューG.Mの財布を抜き取り、デ・グリューと駆け落ちする。

 しばらく二人は同棲を続けるが、デ・グリューの留守中にムッシューG.Mが現れ、大金でマノンを説得し、愛人として連れ去ってしまう。

  ムッシューG.Mのパーティー会場で、マノンとデ・グリューは再会する。

 

 マノンを説得するデ・グリューに、

「カードでイカサマしてムッシューG.Mの金を巻き上げられれば一緒に行く」

と答えるマノン。

 だがイカサマは見破られてしまう。  

 逃げるマノンとデ・グリュー。

 しかし荷造りの途中でマノンが警官に捕まってしまう。

 

 アメリカに流刑になるマノン。

 デ・グリューはマノンを追ってアメリカに飛んだ。

 

  ニューオルレアンの刑務所に送られたマノン。

 美しい彼女はすぐに看守の目にとまった。

 看守がマノンを口説いている所へ踏み込んでくるデ・グリュー。彼は看守を刺してしまい、マノンを連れて逃亡する。

  ルイジアナの沼地に逃げ込む二人。

 疲れ果てたマノンは倒れ、デ・グリューの腕の中で静かに息絶えるのだった。

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ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ 1 ネトレプコが迫真の演技『マノン』

2024-10-27 | クラッシック音楽

プリマ・ドンナ・オペラの最高峰!ネトレプコが迫真の演技と絶唱で大女優を絶唱

 

 

ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ 1

 

(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。

 その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。

 イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。

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 『マノン』/ JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

2024-10-27 | クラッシック音楽

JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

 

 『マノン』/ JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

 

 

『マノン』 あらすじ(Wikipedia)

 

第1幕  

 デ・グリューとマノンの出逢い フランス、アミアンの宿屋。

 この宿屋に、放蕩貴族のギヨーは友人のブレティニや高級娼婦達と食事をしに立ち寄る。

 しかし、宿屋の主人がなかなか食事を運んでこないので腹を立てている。漸く食卓が整ったところに、1台の馬車が到着し、ブルジョワ達の群衆の中からマノンが降り立つ。

 マノンはその享楽的性格から修道院に入れられることになっていたが、彼女自身はその運命を既に諦めていた。

 

 マノンは、迎えに来た従兄レスコーに対して、この心情を表すアリア「私はまだぼうっとしています」を歌う。

 

 マノンの美しさに目を奪われたギヨーは、金と身分にものを言わせてマノンを連れて帰ろうとするが、レスコーに阻まれる。

 レスコーはマノンに節操を守るように説教し、自らは友人達と賭け事をするためその場から離れる。

 

 そこに、父の元へ向かおうとしていた騎士デ・グリューが登場し、マノンの美しさに目を奪われる。

 ためらいがちにマノンに話しかけたデ・グリューは、マノンの修道院入りの話を聞くと、それを思いとどまらせて、2人でパリに行くことを提案し、マノンも同意。

 

 2人は憧れの街パリへ逃れる。(以下、楽譜上省略可能)そこに登場したギヨーとレスコーはマノンが駈落ちしたことに怒り、集まった群衆はまんまとしてやられた2人を笑い飛ばす。

 

 

 

 第2幕

 パリ、ヴィヴィエンヌ通りのデ・グリューとマノンの家。

 2人は、貧しくとも愛情に満ちた生活を送り、デ・グリューは、マノンとの結婚の許しを求める手紙を父に記す。

 そこへ突然、マノンを我が物にしようとするブレティニと、彼に買収されたレスコーが現れる。

 レスコーはデ・グリューとマノンとの仲を認めたふりをし、デ・グリューが書いた手紙を満足げに読み上げる。

 その間にマノンはブレティニーから

「貧しい生活とおさらばして、贅沢な暮らしをしよう」

と誘惑され、さらにデ・グリューがその夜実家に連れ戻されることになっていることを知らされる。

 

 奢侈を求めるマノンは葛藤を抱えながらも、デ・グリューとの別れを決意。

 

 ブレティニとレスコーが一旦その場から離れ、デ・グリューは手紙を出すために不在にする。

 彼女はアリア「さよなら、私たちの小さなテーブルよ」を歌う。

 

 デ・グリューが帰宅すると、マノンが泣いている。

 彼は、その涙の理由が分からず、アリア「夢の歌」を歌い、彼女を慰める。

 

 そこへ父親の配下が現れ、デ・グリューを連れ去ってしまう。

 

 マノンは窓辺に駆けより、「私の可哀想な騎士さん!」と絶叫する。  

 

 

 

 

第3幕

 

第1場

祭りで賑わうクール・ラ・レーヌ。

 ブレティニの目を盗んで、レスコーと3人の高級娼婦たちが遊びに繰り出している。

 そこへ女王然として登場したマノンは、その美しさを群衆に讃えられる。ブレティニは、ギヨーの

「自分からマノンを奪わないでほしい」

との懇願を退け、金に物を言わせてオペラ座のバレエ団を呼び寄せ、マノンを誘惑する。マノンはここで群集を前にアリア「私は全ての道を歩く」、「甘い愛に誘う声に従いましょう」を歌う。

 

 ここで現れたデ・グリューの父親、伯爵とブレティニの会話から、デ・グリューがサン・シュルピスの神学校にいることを知ったマノンは、友人の話とごまかしつつ、デ・グリューが自らのことを愛しているか尋ねるが、伯爵はデ・グリューがマノンのことを既に忘れていると述べ、マノンは衝撃を受ける。

 マノンはバレエもろくに見ず、デ・グリューの元へ向かうためその場を立ち去る。  

 

 

第2場

 サン・シュルピス大聖堂。

 デ・グリューはマノンとの思いを断ち切るために信仰に身を捧げることにした。

 だが、マノンへの思いは断ち切りがたくアリア「消え去れ、優しい幻影よ」を歌う。

 

 そこへマノンが登場。

 それに驚くデ・グリュー。

 彼はマノンのかつてのよりを戻す願いに耳を貸そうとしない。

 しかし、マノンが「あなたの手を握ったことを思い出してください」という「誘惑のアリア」を歌うと、心が溶かされてしまう。

 

 第4幕

 賭博場ホテル・トランスシルヴァニ。

 共同生活を再開したマノンとデ・グリューであったが、マノンの相変わらずの享楽的な生活は変わらない。

 そのためデ・グリューは亡き母の遺産をとうとう使い果たしてしまう。

 

 マノンはデ・グリューに賭博で金を稼ぐことを提案し、ためらう彼をホテル・トランシルバニアの賭博場に連れ出す。

 そこにはギヨーがいて両者は賭博で対決。

 

 幸運にもデ・グリューは賭博でもギヨーに勝利するが、それに腹を立てたギヨーはデ・グリューがいかさまをしたとでっち上げる。

 

 2人は哀れ、警察に逮捕される。

 

 第5幕

 ル・アーブルへの道中。

 捉われの身となったマノンとデ・グリューであったが、デ・グリューは父親の力添えで自由の身となる。

 しかし、マノンは売春婦としてアメリカに売り飛ばされることになった。

 

 マノンの奪還を試みるデ・グリューであったが、レスコーから

「兵が集まらなかった」

と聞かされ愕然とする。

 

 マノンの奪還が絶望的となり落胆するデ・グリュー。

 それに同情したレスコーは流刑船の関係者を買収し、両者の逢瀬の場を用意する。果たして。

 マノンとデ・グリューの逢瀬は実現したが、マノンは衰弱して明日とも知れぬ命であった。

 

 2人は熱い抱擁を交わし、変わらぬ愛を確かめ合うが、マノンは将に息絶えようとしていた。

 デ・グリューは

「この手を握ったわが手を思いだせ」

と叫びマノンを励ますが、マノンは空しく息絶える。

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Mozart 5 モーツァルト:魔笛 /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

2024-10-26 | クラッシック音楽

W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

Mozart 5 モーツァルト:魔笛  /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

オペラの内容  

 魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。

 歌や会話の言語もドイツ語で、レチタティーヴォに代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。

 

  物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わる。

 シカネーダーが台本作成中に他の作品で似た筋書きが発表されたため急いで変更したためであるという説もあるが、単なる意外性を求めたストーリー上の工夫とみなすこともある。

 

 これまでの各種の解釈に対して、夜の女王の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるとすれば筋について問題はないと考えられる。

  本作にはフリーメイソンのさまざまなシンボルや教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に象徴的に使っているのが目立つ。

 

 序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。

 2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。現在では否定されているが、モーツァルトの急死はフリーメイソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどである。

 

  いずれにせよ、第2幕ではそれまでの救出劇から登場人物の(フリーメイソン的な)修行と試練の内容に変わる。

 これと対照的なのがブッファ的・道化的なキャラクターのパパゲーノである。

 シカネーダー自身が演じる役なので当然だが、要所要所に登場し、場をもりあげる役割を果たしている。

 モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えており、魔笛を代表するキャラクターとなった。  

 

 途中から善悪交代する夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。

 このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。

 特に夜の女王の2つのアリア(No4, No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。

 

 ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。

 その一人であるルチア・ポップに至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。

 ザラストロの2曲(No10, No,15)も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。

 

  なお、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、多神教的性格を好まなかったためか断念した。

 

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

Mozart 3  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕

Mozart 4  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

Mozart 5  モーツァルト:魔笛 /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

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Mozart 4 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

2024-10-20 | クラッシック音楽

 

Mozart 4 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

 

 

W. A. モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ (フルトヴェングラー, 1954年)【全曲・日本語字幕】

 

『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。  

 

 マックス・スレーフォークト画ドン・ジョバンニを演じるフランシスコ・ダンドラーデ(英語版)1903年 概要  邸宅ベルトラムカ。

 

 ここで『ドン・ジョヴァンニ』を書き上げた 初演は、作曲を依頼したプラハのエステート劇場(スタヴォフスケー劇場)で同年10月29日にモーツァルト自身の指揮で行われた。

 

 また、ウィーンでの初演は1788年5月7日であった。  

 

 

『フィガロの結婚』はウィーンではそれほど評判にならなかったが、プラハでは大ヒットし、作曲家が招かれることになった。

 

 モーツァルトは街行く人々が鼻歌にフィガロの一節を歌うのに接して大いに感激し、父親への手紙にその評判を書き送っている。

 

 その結果、翌シーズンのために新しい作品を依頼された結果できたのがこの作品である。

 

  初演に先立ち、書き掛けの原稿を持ってプラハにやってきたモーツァルトは、友人のドゥシェク夫妻の別荘に滞在して最終仕上げを急いだが、前夜になっても序曲だけは未完成であった。

 

 彼は眠気を押さえるために妻コンスタンツェの話を聞いたり飲み物を作ってもらったりしながらほぼ徹夜で総譜を書き上げ、ようやく朝には写譜屋に草稿を渡せたのだという。  

 

 台本は『フィガロ』に引き続きロレンツォ・ダ・ポンテによった。

 

 

 

 ドン・ジョヴァンニはスペインの伝説の放蕩者ドン・ファンの物語の主人公である。

 

 もっとも古い作品はティルソ・デ・モリーナ(1630年)といわれるが、ダ・ポンテはオペラ化するにあたり、同時代のベルターティの先行作『ドン・ジョヴァンニまたは石の客』(1787年)やモリエールの『ドン・ジュアン』(1665年)を参考にしたものと思われる。

 

 特に、ドンナ・エルヴィーラはモリエールの創作と思われ、この作品からの影響は明らかである。  

 

 モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ」と呼んだ。

 

 ドラマが正調の悲劇を表すのに対しジョコーソは喜劇的の意味であり、作曲者がこの作品に悲喜劇両方の要素を込めたと解釈する研究者もいる一方、単に喜劇の意味であるとする解釈もある。

 

 このような議論が生ずる理由の一つは、第2幕の最後に置かれたドン・ジョヴァンニの地獄落ちに至る場面の強烈な音楽や、執拗に彼を追いかけるエルヴィーラの行動と彼女に与えられた音楽に、通常のオペラ・ブッファらしからぬ悲劇性を感じ取ることができるからであろう。

 

 

  ウィーンでの初演にあたり、当地の聴衆の好みや歌手の希望に応じて一部改訂して上演したが、今日ではプラハ版を元にした上で、ウィーン版で追加されたナンバーのいくつかを追加して上演することが多い。

 

 

  日本初演は1948年12月14日、東京・帝国劇場における藤原歌劇団の公演、藤原義江、宮本良平、石津憲一、木下保ほかのソロ、マンフレート・グルリット指揮東宝交響楽団によって実現した。

  演奏時間は第1幕90分、第2幕80分で、合計約2時間50分 

 

 

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

Mozart 3  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕

Mozart 4  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

 



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Mozart 3 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 

2024-10-20 | クラッシック音楽

 

Mozart 3 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 

 

ドン・ジョヴァンニ 序曲 ダニエル・ハーディング指揮 2006

 

モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕 ジュリーニ指揮/フィルハーモニア管

 

DON GIOVANNI, full opera by W. A. Mozart, Opéra National de Lyon (french subtitles)

 

 只今 私の好きな『ドン・ジョヴァンニ』を聴いている。

 今日は歌舞伎を見に行くが、帰ってきたら、オペラを見よう。

 ついでに筋書きも今一度しっかりと把握せねばなるまいて、、、

 

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

Mozart 3 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕

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Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

2024-10-19 | クラッシック音楽

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

 

 

★モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550 ベーム /ベルリンpo. Mozart Symphony No.40

 

モーツァルト交響曲第40番 - レナード・バーンスタイン

 

 モーツァルトとバッハは好きだと思っていたが、その実、曲名と調べが一致しないことが多い私。

 何かをしながら、スイングしている曲は多いが、、、

 曲名が分かり、気持ちよく歌える曲はことのほか少ない。

 

 ここにきて音楽を知りたいと思い、毎日音楽を聴いて、楽しみ過ごしている。

 

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Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

2024-10-19 | クラッシック音楽

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

 

 モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 ケンプ/ライトナー Mozart Piano Concert No.23 A-major

 Mozart -Piano Concerto No 23 A major K 488, Maurizio Pollini, Karl Bohm

 

モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 ケンプ/ライトナー Mozart Piano Concert No.23 A-major

 

Mozart -Piano Concerto No 23 A major K 488, Maurizio Pollini, Karl Bohm

 

 先日、京都市交響楽団第694回定期演奏会で『モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 』を聴く。

 

 始まる前に、聡明そうな高校生が、楽譜を食い入るように見つめていたが、演奏が始まるや否や、ノリノリで聞いておられる様子がこちらにも伝わってきた。

 

 最近、音楽が楽しくて仕方がない。

 毎日何かしらを聴いているが、夢は広がり、ウーンに一度は行って音楽三昧をしてみたいものだと思い始めた。

 元気な間に、自由な旅がしたい。

 

 家族はウーンは良い所で、もう一度行ってみたいという。

 果実をかじりつつチケット販売を座り並んで待ったという経験は、面白かったようである。

 

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モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 3 /  ムソルグスキー:歌曲集「死の歌と踊り」アレクサーシキン, ショルティ 1997

2024-10-10 | クラッシック音楽

ムソルグスキー:歌曲集「死の歌と踊り」アレクサーシキン, ショルティ 1997

 

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 3 /  ムソルグスキー:歌曲集「死の歌と踊り」アレクサーシキン, ショルティ 1997

 

 

舞台作品

 ムソルグスキーは生涯で7つのオペラを作曲しているが、生前唯一完成させた有名な『ボリス・ゴドゥノフ』を除き、そのほとんどが未完成のまま残されている。

 また構想に終わったオペラもいくつか存在し、彼が1856年に創作を試みた『アイスランドのハン』(ヴィクトル・ユーゴーの台本による)という実現に至らなかった作品があるが、これが最古のものとされている。

 

 また死の数年前に『ホヴァーンシチナ』と『ソローチンツィの定期市』を作曲していた最中の1877年頃に『プガチョフシチナ』という構想のみに終わった作品もある。

 これはプーシキンの『大尉の娘』に基づいたオペラとして計画された作品である。  歌劇『アテネのエディプス王』(Эдип в Афинах)(1858-60,未完) 初期に作曲された歌劇。

 

 ソフォクレスに基づき、V.A.オゼロフの台本で作曲が進められたが途中で放棄した。

 

 現在は合唱曲の『民衆の合唱』のみ現存。

 

 歌劇『サランボー(英語版)』(Саламбо)(1863-66,未完) フローベールの原作に基づき、作曲者自身が台本を作成。

 しかし途中で放棄したため未完となる。

 

 現在は台本のほぼ大半と3曲のナンバーのみが現存する。

 

 歌劇『結婚(英語版)』(Женитьба)(1868,未完) ニコライ・ゴーゴリの原作に基づいて、全4幕のオペラとして作曲が進められたが、作曲者が完成させたのは1幕のみ。残りの3幕はミハイル・イッポリトフ=イワノフの補筆により完成させた。 歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(Борис Годунов)(1868-69/71-73) アレクサンドル・プーシキンの原作を基に、スターソフと共同で台本を作成。1869年に初稿を完成させたが、劇場側から上演を拒否されたため大幅な改定を施し、1873年にプロローグ付きの4幕版を完成させた。

 

 未完となったオペラが多いムソルグスキーのオペラの中で唯一完成させたものである。

 

 歌劇『ホヴァーンシチナ』(Хованщина)(1872-80,未完) 17世紀に帝政ロシアで起きた史実を基に作曲者自身が台本を作成。

 

 第1幕への前奏曲が有名 オペラ・バレエ『ムラーダ』(Млада)(1872,未完) 未完の合作。

 キュイらによる合作オペラだが、2曲現存する 歌劇『ソロチンスクの定期市』(Сорочинская ярмарка)(1874-80,未完) ニコライ・ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に基づいて作曲者自身が台本を作成。

 

『ホヴァーンシチナ』と同時並行で作曲が進められていたが、作曲者の死没により未完のまま残された。

 のちにアナトリー・リャードフらにより補筆完成。 

 

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 1 /  「展覧会の絵」より "バーバ・ヤガー~キエフの大きな門"

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 2 /  ムソルグスキー/はげ山の一夜

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 3 /  ムソルグスキー:歌曲集「死の歌と踊り」アレクサーシキン, ショルティ 1997

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モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 2 /  ムソルグスキー はげ山の一夜

2024-10-08 | クラッシック音楽

ムソルグスキー/はげ山の一夜

 

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 2 /  ムソルグスキー はげ山の一夜

 

 

作品

 

 

 増四度を積み重ねる技法や、原色的な和声感覚、作曲素材の大胆な対比などは、さしずめ印象主義音楽や表現主義音楽の前触れとなっている。  

 

 ムソルグスキー作品の目覚しい斬新さは、20世紀半ばにショスタコーヴィチによって、作曲者の手法にあたうる限り忠実に、2つの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』と『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法がやり直されるまで、永らく見過ごされてきた。

 

 また『禿山の一夜』は、ディズニー映画『ファンタジア』に利用されて、いっそう有名になった。  

 

 想像力に富み最も演奏される作品は、ピアノのための連作組曲『展覧会の絵』である。

 この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺功をしのんで作曲された。

 

 19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていたが、今日のほとんどの演奏はラヴェルの編曲である。  

 

 ムソルグスキーは歌劇『ソロチンスクの定期市』を未完成のまま没したが、有名な舞曲『ゴパーク(英語読みでホパック)』は、しばしば単独で演奏され、またラフマニノフのピアノ用への編曲で有名になった。

 

  また、歌曲『蚤の歌』はゲーテ『メフィストフェレス』をアレクサンドル・ストルゴフシチコフがロシア語訳した詞に曲をつけたバス独唱曲。

 

 その他の作品では、3大歌曲集(『子供部屋』(1872年)、『日の光もなく』(1874年)、『死の歌と踊り』(1877年))が有名である。

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 1 /  「展覧会の絵」より "バーバ・ヤガー~キエフの大きな門"

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 2 /  ムソルグスキー/はげ山の一夜

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モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 1 /  「展覧会の絵」より "バーバ・ヤガー~キエフの大きな門"

2024-10-06 | クラッシック音楽

ムソルグスキー 「展覧会の絵」より "バーバ・ヤガー~キエフの大きな門" (Mussorgsky arr. Ravel: Pictures from an Exhibition)

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 1 /  「展覧会の絵」より "バーバ・ヤガー~キエフの大きな門"

 

 

ムソルグスキーとは

 モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский [mɐˈdɛst pʲɪˈtrovʲɪtɕ ˈmusərkskʲɪj] ( 音声ファイル),ラテン文字転写:Modest Petrovich Mussorgsky,

 1839年3月21日 - 1881年3月28日)

 ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。

 

「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。

 

 国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされる。  

 

 生涯 プスコフ州カレヴォ村にて地主階級の家に生まれる・

 

 6歳から母の手ほどきでピアノを始める(そこから、やがてフランツ・リストの小品を弾くまでになったといわれる)。

 

 10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。

 

  ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。

 

 1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカ(Porte-enseigne Polka)』が出版された。  

 

 2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキー、スターソフ、バラキレフ、キュイとの出会いは重要であった。

 

 バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する。

 

 リャードフ少年に出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。  

 

 ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。

 

 作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲(Intermezzo in modo classico)』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。

 

 ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォで過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。  

 

 この頃、ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。

 

 1863年から1866年まで、歌劇『サランボー (Salammbô) 』に取り組む。

 

 ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。

 ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。

 

 そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。

 

 再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。  

 

「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。

 

 この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。

 

 しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ゴパーク(Gopak)』と『愛しいサーヴィシナ(Darling Savishna)』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。

 

1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。  

 

 文官としての職務は安定していなかった。

 

 1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬であった。

 

 とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。

 

 バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近した。

  1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、アリアとレチタティーヴォをやめデクラマシオンをよしとした。  

 

『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。

 

『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。

 

 この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラマシオンは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。

 

 自然主義的な声楽書法が、数ある表現原理の中で、しだいに唯一のものとなった。

 

 『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語でオペラを作曲するよう励まされる。

 

 このためプーシキンの戯曲や歴史物語を集め、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を書き上げた。

 

 1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否にあった。

 

 初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだった。

 

 ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな第2稿(これが原典版である。)を完成させ1872年(おそらく5月)に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。

 

  1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。

 

『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。  

 

 イリヤ・レーピン『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』(トレチャコフ美術館所蔵、1881年) この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられる。

 

 さらに友人ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)が死に(1873年のことである)、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている、この時ムソルグスキーは35歳である。

 

 歌劇『ソロチンスクの定期市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。

 

  やがて著名人のサークルと交際を始めたが、酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死は心痛をもたらしたが、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲された。

 

 文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。

 

 しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。

 

 1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行うことさえ許されていた。

 

 ただし、サンクトペテルブルクに戻ると再び以前の荒んだ生活に逆戻りした。  

 

 1880年に公務員の地位を追われる。

 ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの定期市』を完成できるように寄付を集めようとした。

 

『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達したが完成には至らなかった。

 

  1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われた。ムソルグスキーが入院させられた状況は絶望的であり、3月28日に42歳で死去。イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれたが、これは最期を伝えるものとなった

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Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  8 /ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

2024-10-05 | クラッシック音楽

ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  8 /ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

 

アメリカ音楽史への影響
 ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという目的のために創設された音楽院であった。
 創始者のジャネット・サーバー夫人は、メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による英語のオペラ上演を行うことが夢であった。
 すなわち、この音楽院は、アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての位置づけにあった。
 
 チェコ国民楽派の大物作曲家であったドヴォルザークを招聘した目的もアメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、特に作曲分野での充実を図る狙いがあった。
 
 ドヴォルザークがアメリカに到着した直後に、サーバー夫人はアメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表している。
 
  しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされなかった。その理由として、基本的な音楽教育が不備でありナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、ドヴォルザーク自身がネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究・吸収することに時間を費やし実践的教育にまで至らなかったことなど、さまざまな憶測がなされている。  
 
 しかし、これはドヴォルザークが以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかったということには当たらない。
 
 ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、国民音楽の潮流を生み出したことは間違いない。
 
  渡米8ヶ月後の1893年5月21日、「ヘラルド・トリビューン」紙上に『黒人の旋律の真の価値』と題するドヴォルザークの論文が掲載された。また1895年、チェコに帰国した後ではあるが、ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と題する論文を発表している。
 
 これらの論文を通してドヴォルザークは、黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのだった。
 
 そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものであった。
 
 
 これらの作品は、スラヴ的であると同時にアメリカのフォークロアの影響が表れており、アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあった。
 
 ドヴォルザーク門下生たちは、黒人霊歌やジュビリーを素材とした短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも似たような傾向を持つ楽曲を作り始めた。  
 
 ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、チェコに帰国するころまでには作品のほとんどがアメリカ初演を終えていた。
 
 ニューヨーク・フィルハーモニックはアメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、ドヴォルザークを名誉会員に推挙したのであった。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  4 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  5 /ドヴォルザーク/スラヴ舞曲

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  6 /ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

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Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

2024-10-05 | クラッシック音楽

ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック Dvořák Serenade for Strings in E-major

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

 

エピソード
 
 鉄道ファンとしても知られている。
 
 1877年以降住んだプラハのアパートはプラハ本駅からほど近く、毎朝散歩の際にはこの駅を訪れることを日課にしていた。
 
 
 作曲に行き詰まると散歩に出かけ汽車を眺めて帰ってきたと伝えられる。
 
 列車の時刻表やシリーズ番号、さらには運転士の名前までも暗記していた。
 1845年にウィーンからプラハを結ぶ鉄道が開通、1851年には故郷ネラホゼヴェスを経由するドレスデンまでの線路が完成する。
 
 この少年期の体験がドヴォルザークの鉄道好きに影響したと指摘する研究者もいる。
 ドヴォルザークは毎日同じ鉄道を利用しており、その列車が奏でる走行音を楽しんでいた。
 
 アメリカからボヘミアに帰国した際に
「アメリカとここでは列車が走る時のリズムが全く違う。これはアメリカの方がレールが長いためだろう」
と語ったと言われる。
 
 ニューヨークにいたころには、鉄道熱と並んで船にも興味を持ち、1週間に2度ほどは波止場へ出かけて船を眺めていた・
 
 2017年現在、チェコ - オーストリア間を運行する特急列車「レイルジェット」にはチェコとオーストリアの作曲家の名前が愛称としてつけられており、そのうちの一つに「アントニン・ドヴォルザーク号」が存在する(オーストリアのグラーツから、ウィーンを経由し、チェコのプラハを結ぶ)。
 
 鳩の愛好家としても知られ、1884年に建てたヴィソカーの別荘で鳩の飼育を楽しんだ。
 小惑星(2055) Dvorakはドヴォルザークの名前にちなんで命名された。
 
 音楽史上の位置づけ  スタヴォフスケー劇場 ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。
 
 この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。
 
 同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。  
 
 
 ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。
 
 1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。
 
 1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第1作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。
 
 しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。
 
 ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第1作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第2作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。
 
 ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。  
 
 
 とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。
 
 彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌『家路』として親しまれるだけでなく、学校や市町村防災行政無線などで夕方の時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。
 
 ピアノ曲『ユーモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。
 
 また、歌曲『我が母の教えたまいし歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱されている。  アントニン・ドヴォルザークのアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された。
 
   チェコ音楽史における位置づけ ドヴォルザークの登場まで チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された「民族精神」の概念によってであった。
 
 ヘルダーはチェコ民謡を採集し、アンソロジーの形で発表した。これに刺激され、19世紀になるとチェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになった。
 
 19世紀末から20世紀初頭には、スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった才能の開花につながっていった。   
 
 
 このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで、個々の作曲家たちにとっては、民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていった。
 
 保守的な伝統主義者であった作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」
と主張し、一定の支持を得ていた。
 
 これを真っ向から否定したのがスメタナである。
 
 スメタナは1865年に
「民謡の旋律やリズムの模倣により国民様式が形成されるのではない」
と表明、標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。
 
 すなわち、音楽の題材としてはチェコ民族の持つ歴史、詩歌、民話などを採用するが、技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのである。そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、具体的な場面描写に限定して用いられている。
 
 こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、フィビフらがこの思想に同調した。
 
 こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだフランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、「進歩派」対「保守派」の論争となった。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  4 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  5 /ドヴォルザーク/スラヴ舞曲

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  6 /ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

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