「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
1954(昭和29)年11月
「折口信夫全集 27」中央公論社
1997(平成9)年5月
信吉法師が韜晦してから、十年たつた。
彼はある日、ふと指を繰つて見て、十年といふことばの響きに、心の落ちつくのを感じた。
信吉の馳落ちの噂を耳にしたとき、業病の苦しみに堪へきれなくなつて、海か川かへ身を投げたものと信じてゐた。
遠い昔のことである。
ある時信吉法師は寂寥と、やるせなさとを、この親身な相弟子に打ちあけて聞かしたのであつた。
源内法師は足音を盗んで、身毒の部屋の方へ歩いて行つた。
身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭りかゝつて、一心不乱に筆を操つてゐる。
捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れてゐた。
源内法師は居間に戻つた。
その美しい二の腕が胸に烙印した様に残つた。
その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。
そのどろ/\と蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。
彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまへと祈つた。
『身毒丸 』 折口信夫 1 信吉法師が彼(身徳)の肩を持つて、揺ぶつてゐたのである。
『身毒丸 』 折口信夫 2 此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れ片(はし)の様にも思はれ出した。 / 父の背
『身毒丸 』 折口信夫 3 父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。 身毒も法師になつて、浄い生活を送れ」
『身毒丸 』 折口信夫 4 身毒は、細面に、女のやうな柔らかな眉で、口は少し大きいが、赤い脣から漏れる歯は、貝殻のやうに美しかつた。
『身毒丸 』 折口信夫 5 あれはわしが剃つたのだ。たつた一人、若衆で交つてゐるのも、目障りだからなう。
『身毒丸 』 折口信夫 6 身毒は、うつけた目を睜(せい)つて、遥かな大空から落ちかゝつて来るかと思はれる、自分の声に ほれ/″\としてゐた。
『身毒丸 』 折口信夫 7 芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ。かういつて、龍女成仏品といふ一巻を手渡した。
『身毒丸 』 折口信夫 8 ちよつとでもそちの目に浮んだが最後、真倒様だ。否でも片羽にならねばならぬ。神宮寺の道心達の修業も、こちとらの修業も理は一つだ。
『身毒丸 』 折口信夫 9 放散してゐた意識が明らかに集中して来ると、師匠の心持ちが我心に流れ込む様に感ぜられて来る。あれだけの心労をさせるのも、自分の科だと考へられた。
『身毒丸 』 折口信夫 10 accident
『身毒丸 』 折口信夫 11 そのどろ/\と蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。