つれ/″\種 上 正徹本 7 第二十三段~第二十七段(3頁)
二十七段最初
二十七段、二十八段、
二十八段 二十九段
二十九段、三十段(つづく)
つれ/″\種 上 正徹本 7 第二十三段~第二十七段(3頁)
二十七段最初
二十七段、二十八段、
二十八段 二十九段
二十九段、三十段(つづく)
つれ/″\種 上 正徹本 6 第二十三段~第二十七段(3頁)
二十三段最初
二十三段、二十四段、二十五段
二十五段
二十五段、二十六段、二十七段(つづく)
つれ/″\種 上 正徹本 5 第十九段~第二十三段(4頁)
第十九段最初(第十九段前回二頁)
下、第十九段、三ページ目
十九段
十九段、二十段
二十一段、二十二段
二十二段(二十二段つづく)
つれ/″\種 上 正徹本 4 十四段~十九段(6頁)
十四段
十四段、十五段、十六段
十七段、十八段
十八段、十九段
十九段(つづく)
つれ/″\種 上 正徹本 3 八段~十四(5頁)
八段
八段、九段、十段
十段、十一段
十一段、十二段、十三段
十三段、十四段(つづく)
正徹とは 清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本
正徹(しょうてつ、永徳元年〈1381年〉 - 長禄3年5月9日〈1459年6月9日〉)は、室町時代中期の臨済宗の歌僧。
道号(字)は清巌・清岩
法諱は正徹、
庵号は松月庵・招月庵。
清巌正徹。
俗名は正清。
石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。
略歴
和歌を冷泉為尹と今川了俊(貞世)に学ぶ。
応永21年(1414年)出家、法号を正徹と号した。
京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼ばれた・
室町幕府6代将軍足利義教に忌避され謫居(たっきょ)。
そのためか『新続古今和歌集』に正徹の歌は入集していない。
義教の没後は歌壇に復帰し活躍。
歌人のみならず古典学者としても評価されており、8代将軍足利義政に『源氏物語』の講義を行っていることなどが知られている。
2万首近くの詠が現存する、室町時代最大の歌人。
歌風も際立って特色あり、二条派からは異端視されたが、藤原定家を尊崇し、時に前衛的、象徴的、夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。
門下には心敬らがいる。
家集に『草根集』、歌論に『正徹物語』がある。
『正徹物語』第201段では、歌道の数寄すなわち愛好の度合いを、茶道になぞらえ「茶食らひ」「茶飲み」「茶数寄」の3つに分け、いかにも室町時代的な比喩で説明している。
下の「茶食らひ」は、「茶といへば飲みゐて、更に茶の善悪をも知らず、おほく飲みゐたる」輩で、歌道では環境も仲間も問わず、「いか程ともなく詠むことを好みて読みゐたる」歌人だという。
「茶飲み」は茶の産地や出荷時期などを飲み分けるのに長じた者で、単に和歌の表現や泳法によく通じていてもまだ「茶飲み」に過ぎないという。
真の「茶数寄」とは「茶の具足を綺麗にして、建盞、天目、茶釜、水指などのいろいろの茶の具足を心の及ぶほどたしなみ持ちたる人」で、歌道でも「硯、文台、短冊、懐紙などうつくしくたしなみて、何時も一続など詠み、会所などしかるべき人」を真の数寄だとしている。
また、古典学者としては『源氏物語』の研究のほか、『伊勢物語』などの物語類や藤原定家などの歌人の家集など、多くの古典籍の書写を行い、現存の伝本流布に貢献している。
なかでも正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本として重要なものであり、彼が「つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也」と、両書を同じ文学の形態として認めた点は、現代では常識であるが、当時の文学史家として優れた着眼点といえる。
没後 没後500年以上たった2001年、出身地の岡山県小田郡矢掛町小田地区では、「正徹を顕彰する会」が結成され、井原鉄道小田駅の駅前広場に顕彰碑などが立てられている。
(Wikipedia)
つれ/″\種 上 正徹本 2 二段~八段(3頁)
卜部兼好 吉田 兼好 2
関東下向
『兼好歌集』より、兼好は少なくとも2度関東に下向したことが確認でき、1度目は鎌倉・金沢に一定期間居住し、2度目に訪れた際は旧居が荒廃している様子を次の歌に詠んでいる.
ふるさとの浅茅が庭の露のうへに 床は草葉とやどる月かな — 家集・76番 兼好の関東下向は、延慶元年(1308年)11月11日付の六波羅探題・金沢貞顕による称名寺長老・剱阿に宛てた書状(金沢文庫文書)によっても確認できる。
同文書は、兼好が鎌倉から京都に持参した剱阿の手紙に対する返事である。
この中で当時越後守正五位下であった貞顕が「兼好」と呼び捨てにしていることからも、小川剛生は兼好が従五位下・左兵衛佐の地位にあったことを否定する。
金沢文庫には他に「うらへのかねよし」の名が現れる氏名未詳書状がある。
剱阿を「みやうにん(明忍)の御房」と呼んでいることから剱阿の称名寺長老就任(1308年)以前のものとみられる。
その中で「これは四郎太郎かとふら(弔)ひ候ふんにて候へく候、御申あけはし候ハヽ、うらへのかねよしとふしゆ(諷誦)にも申あけさせ給候へ、」すなわち「四郎太郎」が供養する分として「うらべのかねよし」の名で諷誦(経文や偈頌を声をあげて読むこと)を捧げるよう述べていることから、小川剛生は「四郎太郎」が卜部兼好の仮名であったとしている。
また、金沢文庫には兼好自身が剱阿に宛てた書状の立紙(包み紙)も2通 現存しており、いずれも「卜部兼好」で署名しており、位階官名を記さないことから小川剛生は兼好が出家まで正式な官途に就かなかったと推測している。
なお、兼好が帰洛した延慶元年(1308年)は後二条院が崩御した年でもあり、天皇の生母・西華門院が追善供養のために兼好に読ませた以下の和歌が、制作年次の明らかな最古の作とされることがある。
小川説ではこれは年忌法要の際の作で、生前の後二条院と兼好の関係を示すものではないとする。
うちとけてまどろむとしもなきものを あふとみつるやうつゝなるらん — 家集・57番 出家と遁世 『徒然草』50段より、応長元年(1311年)3月に兼好は京都の東山に居住していたことが確認できる。
小川説ではこれも前年に六波羅探題北方に任じられた金沢貞顕との関係とみる。
『徒然草』238段で兼好は金沢貞顕が建立した常在光院の鐘銘の誤りを鋳造前に指摘しており、京都においても貞顕との関係がうかがわれる。
兼好は30歳前後で出家し、俗名を音読した「兼好(けんこう)」を名乗った。この動機を『正徹物語』は元亨4年(1324年)の後宇多院の崩御によって発心したとするが、実際には正和2年(1313年)に山城国山科小野荘の名田を六条三位父子(山科頼成・維成)から購入した際の文書(『大徳寺文書』)に「兼好御房」とあることからそれ以前の出家である。
兼好が遁世後に住んだ場所としては、修学院(現・京都市左京区)と比叡山横川(よかわ)が『兼好家集』(52-55番、63-66番)に見える。
なお、仁和寺南の双ヶ丘は兼好ゆかりの地として知られ、「ならびの岡に無常所(墓所)まうけて、かたはらに桜を植ゑさすとて」(家集・20番)と本人も書いているが、居住したことを直接示す史料はない。
とはいえ『実隆公記』文亀3年(1503年)7月19日条にも仁和寺浄光院を「兼好法師旧跡」とする記述があり、古くからゆかりの地として知られていた。
正和5年(1316年)、兼好と親交のあった堀川具守が死去。翌年春、兼好は具守を偲んで延政門院一条という女性(延政門院の女房)と和歌の贈答をしている(家集・67ー68番)。
『徒然草』238段に、後醍醐天皇の皇太子時代、東宮御所に伺候していた堀川具親に用があり参上したところ、具親が『論語』の「紫の、朱奪ふことを悪む」とある巻を探しあぐねていたので、兼好がどこにあるか教えた話がある。これは後醍醐の即位前、文保2年(1318年)以前のことと分かる。
『徒然草』27段には、文保2年の後醍醐天皇の践祚の様子も記述される。
(Wikipedia)
卜部兼好 吉田 兼好 1
卜部 兼好 吉田 兼好(菊池容斎画『前賢故実』) 時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 生誕 弘安6年(1283年)頃? 死没 文和元年/正平7年(1352年)以降 改名 卜部兼好、兼好 別名 兼好法師、吉田兼好 官位 従五位下、左兵衛佐 主君 後伏見天皇→後二条天皇 氏族 卜部氏 父母 父:卜部兼顕 兄弟 兼好、慈遍、兼雄 妻 なし 子 なし 特記 事項 現在伝わる兼好の系譜は「吉田兼倶による捏造」とする説がある。
卜部 兼好(うらべ の かねよし / うらべ の けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。
私家集に『兼好法師家集』。
出家後は俗名を音読みした兼好(けんこう)を法名としたことから、兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれる。
治部少輔・卜部兼顕の子。
鎌倉および京都に足跡を残す。
吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏は後に吉田氏を名乗ったため、江戸時代以降は吉田 兼好(よしだ けんこう)とも称される。
しかし、現在では吉田流卜部氏の一族であること自体が吉田兼倶による捏造であるとの見解がある。
生涯 出自
卜部氏は、古代より卜占を司り神祇官の官職を務める家系であり、「卜部氏系」(『尊卑分脈』)によれば、卜部兼好の父は治部少輔卜部兼顕であり、兄弟に大僧正慈遍、従五位下民部大輔卜部兼雄がいるとされている。
兼好の祖父・従四位下右京大夫卜部兼名の代に、吉田神社の神職を務める吉田流卜部氏から分かれた庶流にあたるとされる。
『大日本史料』が引用する『諸寺過去帳』にある観応元年(1350年)に68歳で没したとの記述から、生年は弘安6年(1283年)とされる。
もっとも後述するように観応元年死没説が既に否定されている一方で、弘安6年生まれとしても矛盾がないことから生年は同年が採用されることが多い。
卜部氏系図に「蔵左兵衛佐」とあり、『正徹物語』に「久我か徳大寺かの諸大夫にてありしなり」とあることから、風巻景次郎は兼好は堀川家の家司であったと推定した。正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられた後、六位蔵人の勤務年限6年を終えて従五位下左兵衛佐に昇進したというのが通説である。
出自に関する異説 しかし、上述の通説に対し、小川剛生は以下の理由による否定説を提示している。
六位蔵人であれば兼好が公家日記に登場してもおかしくないが見当たらない 天皇の側仕えしているはずの時期に鎌倉に長期滞在している 卜部氏の家格は低く、兼好だけが六位蔵人・左兵衛佐という高官に任じられているのは不自然である 父とされる兼顕、兄弟の兼雄・慈遍は実在の人物であるが、同時代史料では彼らは血縁関係にない 「卜部氏系図」は『尊卑分脈』とは本来関係なく、15世紀末ごろに編纂されたものが後に竄入したものである 『正徹物語』は兼好を「滝口」ともしているが、滝口は侍(六位以下)であり諸大夫(五位)とする記述と矛盾している 兼好は元応2年(1320年)成立の『続千載集』以来7つの勅撰和歌集に入集しているが、諸大夫(五位)以上であれば俗名で表記される原則に反し、いずれも「兼好法師」である 兼好本人を知る藤原盛徳(元盛法師)による『勅撰作者部類』では兼好は「凡僧」に分類され、世系官歴の記載はない 以上より、「卜部氏系図」を吉田兼倶の捏造(後述)とみて、小川説では兼好の出自を若年時に卜部姓を名乗ったこと以外不明とする。
ただし、正和5年(1316年)に没した神宮祭主・大中臣定忠の追善のために結縁経和歌を詠んでいる(家集・26番)ことから、吉田流卜部氏よりは平野流卜部氏(平野神社の神主を務め、大中臣氏と姻戚関係がある)の系統に近いとみて、兼好の関東下向も伊勢国守護・金沢流北条氏との関係と推測する。
(Wikipedia)
つれづれ種
正徹本・永享三年(1431年)写
『徒然草』(つれづれぐさ)は、卜部兼好(兼好法師、兼好、吉田兼好)が書いたとされる随筆。
清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されている。
概要
徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 兼好を作者とするのが僧・正徹(後述)以来、定説になっている。
成立については、室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊。兼好の弟子の命松丸と親交があった)が、兼好の没後、草庵に残っていた原稿を編纂したと言われてきたが、疑わしい。
国文学者の橘純一は、鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとし、長く有力説とされてきた。
この説によれば南北朝の争乱以前に中年期の兼好が著したことになるが、現在は「長年書き溜めてきた文章を1349年頃にまとめた」とする説が有力である。
序段を含めて243段から成る。
文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。
内容は多岐にわたり、序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学に位置づけられる。
兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映しているほか、兼好が仁和寺がある双ヶ丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。
また、『徒然草』が伝える説話のなかには、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されている。中でも『平家物語』の作者に関する記述(226段)は現存する最古の物とされる。
(Wikipedia)