乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

【遊女】 一般的に考えられる「遊女」「遊君」と、「仏」としての存在であると考えられていた「遊女」(あそび)や「白拍子」は違う

2024-05-29 | 民俗考・伝承・講演

【遊女】 一般的に考えられる「遊女」「遊君」と、「仏」としての存在であると考えられていた「遊女」(あそび)や「白拍子」は違う

 【遊女】 一般的に考えられる「遊女」「遊君」と、「仏」としての存在であると考えられていた「遊女」(あそび)や「白拍子」は違う

 

 以前に民俗学マイブームであったころがあった。

 その時に読んだ遊女や遊女(あそびめ)や白拍子や傀儡や、本当かどうかは知らないが卑弥呼説などを読んだことを覚えている。また、湯女(ゆな)や街道沿いの宿屋の飯盛女も有名で、複数の民俗学者は多くを語っている。

 今回は新たな説を聞いたので、記録しておきたい。

 

【遊女】あそびは、遊女(あそびめ)とは違うというと云う・

 確かに、平安時代の遊女(あそび)は、存在したのであろう。

 そのことが、ウィキペディアにも出てきた。

 

【遊女】(ゆうじょ、あそびめ)

 遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊廓や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称。

「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。  

 呼称 「遊女」という呼称は古くからあり、元来は芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。

 

  古代中国の遊女 古代中国では遊女のことを妓女と呼ぶが、遊女という言葉は『詩経』周南・漢広編に「漢に遊女有り、求むべからず」とある。

 この詩経での用例は、川(漢水)べりでという意味、もしくは川の女神という意味である。

 

 齋藤茂は日本語での遊女は、この詩経での「出歩き遊ぶ女」から派生したようだとしている

 

 ここで注目したいのは、川(漢水)べりでという意味という部分。

【遊女】と書いて、【あそび】と云う説を唱えた学者様も、また、白拍子について記述されていた別の学者さんも、水に関係するという論に達せ田れていた。

 

【遊女】(ゆうじょ、あそびめ)を続けたい。

 

 ウィキペディアによれば、日本の遊女の別称である「女郎」は、古代中国では「若い女性」の意味である。

   夜鷹。江戸職人歌合. 石原正明著 (片野東四郎, 1900) 日本における遊女の呼称 日本では古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には、

 遊行女婦(うかれめ)の名で書かれており、平安時代になるとこれに代わって遊女(あそび)がでてくる。

「遊(あそび)」は、『源氏物語』みをつくしの巻に「あそび共の集いまいれるも」、『栄花物語』に「江口という所なりて、あそびども笠に月をいだし」、『散木集』に「あそびども数多もうで来て」、『更級日記』に「あそび三人」などがあり、歌舞を主にし、「あそびめ」「あそびもの」とも言った[5]。中世には、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)、傾城(けいせい)、上臈(じょうろう)などと呼ばれていた。 

 

 近世になると、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)といった呼称もあらわれる。遊廓の遊女には位があり、最高位の遊女を太夫という。江戸の吉原遊廓では太夫が消滅した宝暦以降は高級遊女を花魁(おいらん)といった。  

 大衆的な遊女には湯屋で性的労働を行う湯女(ゆな)、旅籠で性的労働を行う飯盛女(めしもりおんな)がある。

 そのほか街角で買春客を待つ京都の辻君(つじぎみ)、大坂の惣嫁・総嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)な江戸の夜鷹(よたか)などもある。ただし一般的には、「遊女」「遊君」と言った場合はこうした大衆的な娼婦より上位の女を指す。

 

 一般的に考えられる「遊女」「遊君」と、「仏」としての存在であると考えられていた「遊女」(あそび)や「白拍子」は違うことが分かる。

 上の内容がこう簡単にウィキペディアで出てくるとは思わなかった。

 ウィキペディアも良いが時間を見つけて柳田國男の論を読んでみたいと思う。

 民俗学は、これだから面白い。

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映画『神々の深き欲望』 5★/5 1964年 174分 今村昌平監督 脚本:今村昌平、長谷部慶次  三國連太郎 河原崎長一郎 沖山秀子 松井康子 嵐寛寿郎 浜村純

2023-06-19 | 民俗考・伝承・講演

絵金

 

 

 

映画『神々の深き欲望』 5★/5 1964年 174分 今村昌平監督 脚本:今村昌平、長谷部慶次  三國連太郎 河原崎長一郎 沖山秀子 松井康子 嵐寛寿郎 浜村純

 

 

 映画『神々の深き欲望』を見た。

 映画を見るというよりも民俗学、与那国、説経節の書物を読んでいるような錯覚に陥った。

 

 映画『神々の深き欲望』は南の島という特殊な文化に基づき、それを肯定的かつ疑問視さえも含めて描かれる。

 何につけ民俗学的な要素が満載で、場面場面が面白くてならない。

 

 民俗学の要素の一つで、仮面というもいのがある。

 どこかしこで取り上げられ、また、博物館や宝物館でも仮面は度々取り上げられている。

 それは祭儀であったり祭りであったり伝統芸のであったりと多種多様だが、この映画では私が読んだ書物には書かれてないことが出てきた。

 

 船に乗り、男と女(兄弟)を追いかける。

 あと少しというところで、

「酒を飲め」

「仮面をつけろ」

 

 男曰く

「なんで仮面をつけるんだ。仮面を取れって。誰が誰だか、わからんて(要約)」

と。

 そう、仮面は神になり、また他者になり、仮面の力を借りて自分以上の力を蓄え、制裁することさえできるのだ。

 仮面をつけると誰だかわからない裏返しとして、仮面を待とうものはもはや人間以上なのであるのかもしれない。

 

 島の口減らしとして、ある日ある時、突然に鐘が鳴らされ、綱で引いた田んぼへと、島人は一目散で目指す。

 縄の中には入れなかった者は口減らしのために殺される。

 

 また、妊娠した女は崖から崖に飛ぶように命じられ、崖から落ちるものが後をたたない。

 これで妊婦と赤城の二人の口減らしができる(昔の島の考えであり、私にあらず。)

 以上の二つの話は、学生の頃に与那国島や南の島々について記された本で読んだことがある。

 

 また、夜這いは明治時代など つい最近まで日本の各地で行われていた地方もある。

 映画に出て北島も、またしかり。

 夜這いについては赤松啓介全集や単行本単行本で読んだが、実際に映画で映像として見て見ると、凄まじかった。

 

 巫女や預言者や風邪送りや雨乞いや●根信仰。異質なものに対しての神的力。村八。

 祭り、歌、儀式。夜這いや近親相姦。さけ、仮面の意味合い。海。赤。船。風。

 他多くの風習などが取り上げられ、ずいぶんと興味深い映画であった。

 

 戦地で負傷して下半身が麻痺している。いつも蛇皮線で島の創世紀を弾き語っているという歌う男が随所随所に出てきて、映画を引き締めていた。

 鼻を高く細工師、誰だかわからなかったが、後で調べと、浜村淳であった。

 浜村淳がこんなに山椒のような役目を果たせることを初めて知った。

 この映画では浜村淳の立ち位置は素晴らしかった。

 

 弾き語っているという歌う足の悪い男は、コロのついた車に乗せられ、第三者が遅ておられた。

 その姿は、東洋文庫で読んだ説経節の『安寿と厨子王』を思い起こさせた。

 しんみりとした島唄の調べと内容は、脳裏に焼き付く。

 また時には子供達に大人の関係を真面目に教えていたりとこの男の意味合いは大きかった。

 

 説経節の『安寿と厨子王』を思い起こさせる男は、愛情深き兄弟の意味合いを廃炉げ深めた。

 

 この映画は私にとっては興味深く面白い作品であった。

 期間を置いてもう一度見て見たい。

 民俗学的要素の連続であったので、今回のカレゴリーとしては【映画】ではなく、【民俗学】に含めたいと思う。

 

 

 みなさま、

 いつもありがとうございます。

 今回も見たという簡単な記録だけで失礼致します。

 

 

 

 

 

 

  • 太根吉:三國連太郎
    主人公。島の掟を破る行為をする。
  • 太亀太郎:河原崎長一郎
    根吉の息子。島の古臭い因習から逃れたいと思っている。
  • 刈谷:北村和夫
    東京から来た測量技師。前任の島尻が音信不通だったため、事業継続を検討するために島にやって来る。
  • 太トリ子:沖山秀子
    亀太郎の妹。知的障害がある。
  • 太ウマ:松井康子
    根吉の妹で竜の妾。ノロという巫女に当たる役目を務めている。
  • 竜立元:加藤嘉
    クラゲ島の区長で製糖工場の工場長。
  • 島尻:小松方正
    刈谷の前任の測量技師。東京に妻子がいるにもかかわらず、島の女性と結婚している。
  • 東夫人:細川ちか子
    刈谷の会社の会長夫人。刈谷の義母でもある。
  • 刈谷夫人:扇千景(特別出演)
    刈谷の妻。東夫人の娘。
  • 里徳里:浜村純
    竜や根吉の戦友。戦地で負傷して下半身が麻痺している。いつも蛇皮線で島の創世紀を弾き語っている。
  • 比嘉:殿山泰司
    沖縄本島からの行商人。
  • 麓金朝:水島晋
    竜の部下で漁労長。5年後のクラゲ島の精糖工場長。
  • 土持:石津康彦
  • 山城:徳川清
  • 村の青年:長谷川和彦
    夜這いをする青年の一人。
  • 竜ウナリ:原泉
    竜立元の妻。毎日お祈りをしている。
  • 里ウト:中村たつ
    徳里の妻。5年後のクラゲ島でコカコーラを売っている。
  • 太山盛:嵐寛寿郎
    根吉の父。神に仕える太家の長。自分の娘と近親相姦をして根吉を産ませている。
監督 今村昌平
脚本 今村昌平
長谷部慶次

 

 

 

 

長谷部 慶治とは

  • 長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日[1] - 没年不詳)は、山形県酒田市出身の脚本家映画監督

    別名義に長谷部慶がある。ただし、録音技師の「長谷部 慶治」は当記事人物ではない、同姓同名の別人である]

長谷部 慶治受賞歴

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『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  4,8★/5 2005年 明治大学公開文化講座

2022-07-03 | 民俗考・伝承・講演

 

  『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  4,8★/5 2005年 明治大学公開文化講座

 

 

 

 明治大学公開文化講座の『巡礼その世界』の中から、「巡礼の諸相」を読む。

 好きな内容の話で、一気に楽しめた。

 

 東大寺の勧進の話や旅としての宗教(遊行女婦、傀儡女、白拍子、瞽女、熊野比丘尼)の話は民俗学の書物のどこかしこに出てくるので、読んでいてワクワクとする。

 また、一遍上人の罪業感を伴う愛欲にからまる経緯を図絵を元に説かれた部ぶっbは北そんでしまった。

 確かに、再出家を試みる三十三歳の一遍上人の連れの中には婦人と子供がおり、家に残り一遍上人を見送る者の中に婦人と子供の姿が認められる。

 

 山岳信仰の中に、「鳥取部」(ととりべ)の話が載っていた。

 

「鳥取部」(ととりべ)とは  (精選版 日本国語大辞典)

 〘名〙 令制前の部民の一つ。

 鳥を取って大王に献上したり飼育したりする品部。

 垂仁天皇のときに置かれたという。

 とりかいべ。とっとりべ。ととりべ。

 ※古事記(712)中(兼永本訓)「是(ここ)に天皇其の御子鳥取部(トリトリヘ)の鳥(とり)を定む」

 

 

 みなさまご来場、誠にありがとうございます。

 心より感謝申し上げます。

 

『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  

 2005年 

 明治大学公開文化講座

『巡礼その世界』251ページ

 762円

「巡礼の諸相」金山秋男  11〜70ページ

 

 

 

 

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歌舞伎『芦屋道満大内鑑 葛の葉』5,0★/5 【恋しくばたずね来きてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉】を考える// 中村扇雀、中村翫雀、坂東竹三郎  平成20年 松竹座

2022-05-16 | 民俗考・伝承・講演

 

  歌舞伎『芦屋道満大内鑑 葛の葉』5,0★/5  中村扇雀、中村翫雀、坂東竹三郎  平成20年(2008年)1月 松竹座

 

 

 私が心に残る平成20年松竹座の『芦屋道満大内鑑 葛の葉』を見た。

 中村扇雀演じるこの歌舞伎演目は、高校生から歌舞伎を見ている私にとっても背負おう劇的で印象深いものであった。

 

 まず前半、葛の葉の早替わりで心を捉え、加えて中村翫雀の所作が故藤十郎丈を匂わせ、心地が良い。

 

 きツネ葛の葉のとしての所作や動きや極端な言い回しが、異形とする生い立ちの葛の葉にピタリとイメージが重なる。

 また、本妻の葛の葉は、演じ方をずいぶん変えておられる。

 中村扇雀の葛の葉は、きりりとした目つきでどこかしらお顔立ちも異形のキツネ(ネコ科)になりやすい。

 いやいや、顔立ちや体型に加えて、所作や演じ方やメークなど、多くの努力の賜物と言えるであろう。

 

 中村扇雀の葛の葉の障子に書き残す歌に、今回も感動した。

 

     恋しくばたずね来きてみよ和泉なる

     信太の森のうらみ葛の葉

 

はあまりにも有名だが、扇雀の芝居では

 

    恋しくは

      きツね(たツね)

     きてみよ

      和泉なる

 

     信太の森の

      うらみ

       葛の葉 

 

と書かれる。中村扇雀の教養と品格を感じる。

 

 

    恋しくは

      きツね(たツね)

     きてみよ

      和泉なる

が、まず達筆である。

 

   【恋しくは】

は、【恋】とかき、次に下から上に【は→し→く】と書かれるが、【し】が長く、 【恋しくは】としての文字の形と配置が非常に美しい。

 

     【たツね】の【た】は変体仮名で【き】とも読める様に工夫されている。

     【たツね】は【きツね】

(に)、でもあるのだ。

 

     【きてみよ】

      【和泉なる】

で子(後、安倍晴明)が目覚めて葛の葉の元に来るが、子がぐずり続ける。

 

 葛の葉は子供を引き寄せて荒らしながら左手で書く鏡文字となる。

     【信太の森の】

      【うらみ】

は、

    【恋しくは】

      【きツね(たツね】

     【きてみよ】

      【和泉なる】

の儚い達筆さとは裏腹に、鏡文字で四角い文字。

 これは葛の葉が森に帰り身を引く決意の表れでもあるように感じる。

 

 それでも泣きぐずる子供。

 葛の葉は筆を口にくわえ、

       【葛の葉】 

と、自分の決心を達筆な文字で書き切る。

 

 

 

 

『芦屋道満大内鑑 葛の葉』は民俗学者も度々問題視している。

 異形である葛の葉は、信太の森という大阪の地形にも注目されているとも事。

 いわゆる『土蜘蛛』と比較して解説されることも多い。

 

 そんな事は私にとってはどうでも良いが問題は歌の

恋しくばたツね(きツね)来きてみよ和泉なる

     信太の森のうらみ葛の葉

 そのままとってもわかりやすい歌だが、

【うらみ】

は 

 恨み(身を引かねばならない身の上の)恨み

 裏見(葛の葉っぱの裏をめくると、怪我は言えている。これをきツねに見立てている。)

と記す民俗学学者が多い。

 

 

 

 話を中村扇雀の『葛の葉』に戻そう。

 多くの役者で『葛の葉』を見たが、中村扇雀の葛の葉は芸術作品であった。

 松竹座という近い環境で演じられたこともありリアルタイムで舞台を見る機会に恵まれた幸運に感謝している。

 中村扇雀さんの『芦屋道満大内鑑 葛の葉』は、私の歌舞伎鑑賞の中で、10本の指には入っていることを付け加えておきたい。

 それほどまでに扇雀の葛の葉は好きであった。

 

 その後も松竹座で中村時蔵さんの舞台も見たが、また違った味を出されていた。

 役者によって持ち味や雰囲気や多少話の受け取り方までもが変わる。

 舞台って、面白いですね^^

 

 

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ドキュメンタリー特番『氷と雪に閉ざされた秘境の地 天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日間』

2020-03-08 | 民俗考・伝承・講演
 ドキュメンタリー特番『氷と雪に閉ざされた秘境の地 天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日間』を見た。


 始まってしばらくすると、、チベットザクラとして、カンヒザクラのように垂れ下がった赤い花が紹介された。

 映像で捕らえられた花があまりにも似ていたので、メモしておこう^^ 


『氷と雪に閉ざされた秘境の地 天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日間』の映像はあまりにも美しく、素晴らしかった。

 過酷な雪深い地で、人々はたくましく生きるすべを探りつつ、伝統をも重んじ生きておられた。


 仮面劇の仮面は、法隆寺の伎楽の大きな面に似ていた。

 色鮮やかな紐でくるくると舞い、邪気を払いという点で、紐状の布と棒との違いはありが、京都祇園祭の綾傘鉾の踊りを思い浮かべた。

 ヒマラヤのこの地の仮面劇は、テレビ朝日によれば、世界で初めての映像だとのこと。

 民俗学の複数本によれば、人間が生きる上で 突如各地で同じような文化が生まれることがあるというので その典型例か、あるいは中国等から伝わってきたのかと思案する。


 四日八日十六日の断食、その後の大きな丸い穀物や米の二種類の団子をカレー状の料理につけて食べる。

 その丸の意味も多分あるのだろうなと思うが、私にはわからない。

 
 それにしても四日八日十六日とは、長い断食だ。

 イランのラマザーンは一ヶ月ほどだったと思うが、明け方から、夕暮れ七時まで。水なども一切禁止。(病気の人などは省く)

 七時になると家族や親戚が集まり、食事を楽しむとのことであったのでなんとかなりそうにも思うが、テレビ朝日の放映が本当であれば気が遠くなりそうな話だ。

 ただ、断食明けにすぐに濃度の濃い 茶碗目一杯の粥をすすっておられたので、あれ?っと思ってしまったのも事実である。


 正月の女性たちの踊りを見て、中国雲南省の踊りを思い浮かべた。

 麗江にもう一度行ってみたい。


 上にも書いたが美しい映像が続き、過酷な自然も映し出され、圧倒されてしまった。

 最初と最後にちらりと映った牛(ヤク)の木面を被った踊り。

 テレビでは説明されなかったが、牛(ヤク)の面の祭りは、おそらく五穀豊穣を意味すると感じた。

 
 

 




 
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天誅組 2   公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変

2018-07-11 | 民俗考・伝承・講演
 天誅組  公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変



 天誅組は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。
 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。
 天忠組ともいう。


 天誅組 1  中山忠光 天誅組の変
 天誅組 2  公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変

 公卿中山忠光  (天誅組にも記録)
 中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日) - 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家。

 権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。中山忠愛は同母兄、明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。長府藩潜伏中、現地女性の恩地登美(トミ)を侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけている。
 早くより真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。
 文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。
 久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。
 7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。
 8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。

 八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧。
 忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。
 長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。
 享年20。
 墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。
 明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位。

 なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。



 尊王攘夷
 尊王攘夷(そんのうじょうい)の「尊王」とは、王=すなわち「天皇」を敬い、「攘夷」(じょうい)は、外敵(外国の侵略)を撃退しようとする思想。
 幕末の日本では、外国船が頻繁に日本近海に現れるようになり、江戸幕府に対して開国を要求しました。



 天誅組の変
 天誅組の変は、幕末の文久3年8月17日(1863年9月29日)に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅された事件である。
 大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。


      ウィキペディア  他


 ご訪問、誠にありがとうございます。


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天誅組 1    何気に天誅組をウィキってみた。

2018-07-11 | 民俗考・伝承・講演


   天誅組



 天誅組は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団
 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。
 天忠組ともいう。



 中山忠光

 中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日) - 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家。

 権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。中山忠愛は同母兄、明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。長府藩潜伏中、現地女性の恩地登美(トミ)を侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけている。
 早くより真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。
 文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。
 久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。
 7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。
 8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。

 八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧。
 忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。
 長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。
 享年20。
 墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。
 明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位。

 なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。



 文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。
 8月14日夜、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発した。
 彼らは伏見から淀川を下って大坂から海路で堺へ再上陸。
 そこから河内へと向かう。

 これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。
 このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。
 彼らがいつの時点で天誅組を称したかは詳らかではない。

 8月17日夕方、五条の町へ着いた彼らは、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃
 代官鈴木正信(源内)の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。
 桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言し、「御政府」あるいは「総裁所」を称した。
 五条御政府と呼ばれる。

        今宵は 全て、ウィキペディア




 ご来場、誠にありがとう存じます。
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半端に考える。    半夏生

2018-07-02 | 民俗考・伝承・講演
  写真は奈良 龍田大社の、植物 半夏生





 今日は半夏生


 これまでにもこのブログで繰り返し取り上げてきた半夏生。

 先日のこと。
 奈良県内の農家のご年配のご婦人に、半夏生について聞く機会があったと書いたのは、つい最近のことである。

 その時にお聞きしたのは、次の二点。
「半夏生の日に、畑に出てはいけないという話は聞いたことがない。」
「田植えの後に、蛸を食べる。」

 私が読んだ民俗学関係の本では、次のようなものであった。
 1 ちょうど植物の半夏生が茂る頃、半夏生の日がある。
 2 半夏生の日には畑に出てはならない。妖怪(?)が出てくる。
 3 半夏生の日に蛸を食べるのは、田の稲がしっかりと根付くように。(蛸は八本の足を持つので、蛸の足を稲の根に見立てたもの)


 昨日某スーパーでは次の様なアナウンスが流れ続けていた。
「明日二日は半夏生の日です。みなさん、蛸を食べて、暑さを吹き飛ばしましょう。」

 地方により、半夏生、ハンゲ、ハゲショなど呼び方は様々。
 また、畑に出てはいけないとか、雨が降るとか、この日に畑に行くと妖怪が出るとか、民俗学の観点から見て楽しい半夏生だが、各地の言い伝えなども今は薄れ意味合いを持たなくなりつつある様に感じる。
 そういった現状を踏まえて、スーパーが言い伝えの一部の伝承を買って出ているのは面白い。
 おそらく、地方やご家庭によっては農家の方も半夏生の意味合いは知る由もなく、スーパーによって蛸を食する人いったことを知る。
 大きく捉えると逆輸入の様な意味合いが感じられ、興味深く感じた。
 民俗学とは、そういうものかもしれないと、改めて感じた半夏生の日であった。

 

 補足
 ネットで調べると、半夏生は次のように書かれている。  (日本大百科全書(ニッポニカ)引用)

 七十二候の一つ。夏至(げし)の第三候にあたり、現在は雑節の一つとして残っている。
 太陽の位置が黄経100度にあるときと定義されているが、暦のうえの入梅は80度、夏至は90度であるから、半夏生は夏至を挟んで、入梅と対称の位置にあるときにあたり、陽暦では7月2日ごろとなる。半夏はドクダミ科の多年草で、別名カタシログサ。
 水辺や低湿地に生え、一種の臭気をもつ。
 その半夏が生えるころという意味である。

 昔の農事暦では、このころまでに田植を終えるとされていた。
 迷信的暦注としては、この日毒気が降るので、「前夜から井戸や泉に蓋(ふた)をすべし」といわれた。
               
根本順吉







 みなさま、ご訪問いただき、誠にありがとうございます。


 
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六月三十日   今日は、水無月を食べるよ。

2018-06-30 | 民俗考・伝承・講演
  写真は桃太郎のためにきびだんごをついているおじいさんとおばあさん  愛知県犬山市 桃太郎神社





 今日は、水無月最後の日。
 実家の一人が六月三十日生まれだったので、必ず、水無月(外郎に小豆のたんたのを散らし三角形に切り分けたもの)を食した。
 以前にも書いたが、水無月(お菓子)はういろう部分が白いものと、黒糖のものがある。
 黒糖の甘みはインパクトが大きく、夏の疲れを吹っ飛ばしてくれそうだ。
 京都の人は、この日、こぞって饅頭屋の店頭に行き、
「黒、十個」「黒、十二個」
といった具合に黒糖の水無月を買い求めることが多い。


 こういった現象は、五月の柏餅にも見られる。
「味噌餡、十個」「味噌餡、十二個」
という具合だ。
 もちろん、そういうご家庭が多く見られるというだけで、白い水無月やこしあんの柏餅が好きな京都の方もいらっしゃることも付け加えておきたい。

 
 六月三十日といえば、夏越祓(なごしのはらえ)
 夏越祓の輪くぐりによって半年間のケ(ケガレ)をはらい、無病息災を祈って水無月(お菓子)をいただく。
 程よく冷たいお菓子は喉の通りもよく、この暑い時期にはうってつけだ。
 体の熱を多少は取り去っってくれ、理にかなっていると感じる。


 そういえば、今日は春日大社さんの夏越の祓の案内を頂戴していた。行けばよかったか…。
 厄払いも兼ねて、単車に乗って隣町の神社にでもいってみようと思う。


 明日からは、七月。
 暑いぞ!
 本格的に夏突入。



 お付き合いくださいましてありがとうございます。
 心より感謝申し上げます。
  







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七月の祇園祭を前に、半端に「八坂神社」「祇園社」「木瓜紋(もっこうもん)」を思う。

2018-06-29 | 民俗考・伝承・講演
       写真は、2014年 祇園祭 鉾近くにて



 

 
  「八坂神社」「祇園社」「木瓜紋(もっこうもん)」




 
 先日思わぬ所・思わぬ形で、「八坂神社」「祇園社」「木瓜紋(もっこうもん)」を拝ませていただいた。

「八坂さん、祇園社の文字と木瓜紋」ですねとお尋ねすると、主曰く、我が家の守り神です、と。

 おそらく三桁は参拝したであろう八坂さんの文字に、目頭が暑くなる。

 京の町では、七月の一ヶ月間は、祇園祭一色である。


 八坂神社の池周辺では瓜(マクワウリ)を栽培したという。龍神に奉納したという。

 934年に祇園感神院を建立したとされている。


 伝承では、逃げてきた牛頭天王がマクワウリ畑に隠れたことで難を逃れた。なんだか、多少スサノオとの類似を思い浮かべる。

 一説では、牛頭天王は栽培人に
「瓜畑のお陰で助かった。瓜を珍重するように」
と言ったされている。

 牛頭天王は新羅から瀬戸内より備後国(広島県福山市)に渡来し、播摩の牛頭天王は京都の八坂郷の瓜生山に降臨したとされる。


 祇園祭期間は、京都人は、きゅうりを食べないとされているが、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾町の人びとである。

 鉾町で生まれた私は、物心がつくまでは、七月はきゅうりを食べなかったのであろうか…。引越し後は、祇園祭にきゅうりを食べなかったという記憶はない。

 ただし、上にも書いたように、八坂神社の御神紋は胡瓜ではない。

 正しくは木瓜である。

 五瓜に唐花紋と胡瓜の断面にとは少ししか似てない。

 胡瓜の断面が徳川家の葵紋に似ることから、祇園祭には胡瓜を食べないという話を度々聞いたことがあるが、真実は知らない。

 徳川光圀曰く、毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず、と。

 徳川を喰うな!という言葉が聞こえてきそうだ。




 お付き合いくださいまして、誠にありがとうございます。




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桃ちゃん、ぱっかーん♡ 日本における桃太郎伝説の地 (写真は愛知県犬山市 桃太郎神社)

2018-06-28 | 民俗考・伝承・講演


   桃ちゃん、ぱっかーん♡ 半端に、桃太郎伝説



 奈良の田原本は近鉄電車の乗り継ぎで、個性的なところ。

 電車の乗り継ぎがスムーズでなく、ブログで親しくさせていただいている電車好きの方も、ここの駅について記事にされていたことを覚えている。

 この田原本という地には、桃太郎伝説が残る。

 だが、元は奈良人ではない私たと不夫婦にとっては、詳細を知らない。

 田原本の桃太郎ゆかりの地を訪れよう訪れようと思いつつ、月日ばかりが流れる。

 そして今回、奈良の田原本における桃太郎ゆかりの地を訪れる前に、愛知県犬山市に1する桃太郎神社を訪れることと相成った。


 犬山市についたのは昼前。

 ホテルの食事予約時間には一時間ばかり余っていたので、手短に短時間タクシーをチャーターし、桃太郎神社へと向かう。

 神社について、桃太郎に登場するキャラクターたちのあまりのシュールさにまばゆさを感じる。

 あまり芸術的造形物とは言い難いが、神社全体は、桃太郎のレジャーランドのようであった。


 犬山市の桃太郎神社の写真は、次回での記録としたい。

 ここでは日本にある桃太郎ゆかりの地のごく一部をす紹介したい。

 なお桃太郎の三大伝説地は、岡山県,香川県,愛知県とされている。

 全国に伝わる桃太郎の伝承は,大和政権(大和朝廷:大和王権)による全国統一の戦いと深く関わっているとの見方もある。




 桃太郎神社の桃太郎(愛知県犬山市)
 吉備津彦神社の桃太郎(岡山県岡山市)
 桃太郎の凱旋(香川県高松市)
 桃太郎伝説発祥の地 奈良県磯城郡田原本町  他



  
 桃ちゃん、ぱっかーん ▼
 

 

 


 みなさま、ご訪問、誠にありがとうございます。
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二日で、三講座

2016-07-05 | 民俗考・伝承・講演


 今日は某大学の講義(考古学)を聴いてまいりました。
 この授業、考古学の根本的な見方を奈良の神社を通して広範囲から教えてくださいますので、面白うございます。
 考古学といえば細かなとことをほじくり出して、私見を押し付けるというイメージがあったのですが、見事に覆されました。
 例えば、「法隆寺論争」についても、今の学者たちが唱える多説を教えて頂けます。
 
 今までの考古学に対する疑問点も、自分なりに解消いたしました。
 受けて良かったと思える授業の一つです。
 前期で終わりですので、少し寂しく感じています。


 明日は、古典。
 古典は好きで、これまでは好き放題感覚的に読んでいました。今回は、文法において読める内容をご教授いただいております。
 お昼を挟み、大学図書館で時間を潰した後、大阪へと向かいます。
 夕刻からは、能楽「物狂」のお話を聴きます。
 明日のお話は『蝉丸』の予定。
 まだ見たことのない演目です。俄か勉強で、『観世流百番集-蝉丸』を数度読んでおきましたが、どうも頼りないので、これから岩波古典文学大系『謡曲百番集-蝉丸』を一通り読んでおくことにします。
 明日の帰りは夜。家族が協力してくれますので、趣味を楽しみむことができます。今現在、すべての環境に感謝です。


 


 写真は、今年4月10日、大神神社(三輪神社)の若宮の帰って行かれるところです。
 若宮さまがお帰りになられた後春の大神祭 後宴能がおこなわれます。
 今年の演目は、次の通りでした。

  金剛流神歌「翁」金剛流宗家金剛永謹
  大藏流狂言「福之神」茂山千五郎
  金剛流仕舞「八島」廣田幸稔
       「羽衣」今井清隆

  金春流能「三輪(みわ)」櫻間右陣

  観世流仕舞「笹之段」赤松禎友
  金春流仕舞「熊坂」長谷猪一郎


  観世流能「合浦」(「合浦の玉」)大槻文藏

 写真はほとんど撮っていませんが、後日整理できればと思います。

 
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中国最古の仮面劇   儺戯(ノウシイ)

2015-03-05 | 民俗考・伝承・講演
  (写真は 「影絵」上演中の様子を、写させてくださったもの。   山西省)





   中国最古の仮面劇   儺戯(ノウシイ)    映画『単騎、千里を走る。』を見て



 昨年、黄龍の近くでのこと。
 予てから見たかった 京劇よりも古いと言われている「川劇 せんげき」を見ることができ、感無量だった。
 それよりも古い、いや、中国最古の仮面劇と言われている「儺戯(ノウシイ)」を、映画『単騎、千里を走る。』で少し見ることができた。
 農村の若者が、祭りの日には花形役者になる。また、厄払いという意味もあるらしい。
 こういった伝統芸能は、時代こそ異なるが、日本にも多くの形で見られ、興味深い。

 数年前に雲南省を訪れた際に、歌垣が大変美しいと感じた。
 しかし、「儺戯(ノウシイ)」は見る機会に恵まれなかった。
 一度きりしか行ったことがない雲南省は「丸い板に木彫り (文様彫り)」の弟子入りを兼ねて、もう一度ゆっくり訪れたいと夢見ているが、その折はこういった「儺戯(ノウシイ)」も見ることができればいいなと、さらに夢は膨らむ。
 夢は一つでも多くていいだろうと、ほくそ笑む…。


 人民画報 ●民俗と祭り● 中国最古の仮面劇  儺戯(ノウシイ) 文 写真 栗運成

慶応大学 中国江西の儺舞・儺戯 III  江西婺源県秋口郷長径村の儺舞・儺戯 (1991年9月 田仲一成 撮影)





 人民画報 ●民俗と祭り● 中国最古の仮面劇  儺戯(ノウシイ) 文 栗運成より
●民俗と祭り●

中国最古の仮面劇

儺戯(ノウシイ)

文  栗運成

 素朴な農村の住民が、今日は花形役者になる。
 儺舞は古代中国の祭祀儀式の中で踊られた仮面舞踊の一種で、そこから発展して演劇の形態をもつようになったものが儺戯である。儺戯では主要な役を演じる俳優は、木製の仮面を着ける。江西、湖南、湖北、貴州、安徽、山東、河北などに広く伝わっているが、黄河流域の儺戯には特に歴史文化の特徴が濃厚である。

「抓黄鬼」は河北省邯鄲市武安地方に伝わる民間芸能で、武安戯とも呼ばれている。儺戯は本来祭儀のときに行われる巫術の一種で、民間では災厄や魔物を祓うまじないとして行われてきた。伝説では悪魔を追い払うとき人々は「儺儺(ノウノウ)」という掛け声を発したと言われており、ここから「儺」或いは「儺祭」、「儺儀」と呼ばれるようになったのである。

「儺儀」は中国の殷商時代の占いに関する書物にも記載がある。周の時代に盛んになり、百人余りの祭儀から終には千人規模の大掛かりなものに発展していった。宮廷で行われた大規模なものの他、民間でも行われ、こちらは「郷儺」と呼ばれた。「儺儀」には次第に娯楽の要素が取り入れられるようになり、戯曲的発展を遂げたものが儺戯になった。


 儺戯では主な役は木製の仮面を着ける。これは劇中人物の醜悪さを強調するためである。
 賑やかなお囃子に導かれる出演者たちの行進
 邯鄲市の儺戯「抓黄鬼」は旧暦の1月15日、元宵節の期間に武安の固義村の人々によって演じられる。この日、村全体が舞台になり大いに賑わうのだ。祭りが始まると、戦のように騎馬の先駆けが村の通りを駆けて偵察し、その後ろを100人ほどの隊列が続く。旗手とチャルメラの楽隊を先頭に、仮面を着け、芝居の鎧を着た武将たちが三眼矛(刃に開けた三つの穴に金属の輪を通した矛)を打ち鳴らしながら村を練り歩く。そして、夜になると、鬼役が放たれ、昼夜を通しての鬼の捕り物が始まる。黄鬼は代々決まった家のものが演じることになっており、村人は一睡もせず、各々棍棒や槍を持って翌朝まで黄鬼を追い回す。午前、御用となった黄鬼は鎖に繋がれ、村を引き回された後に閻魔大王の前に突き出され、午後に処刑されてしまうのだ。

 黄鬼が象徴するものは親不孝、妻や目下の者を粗末にするなどの悪行である。実際に鬼を追い、処刑することで、これらの不品行を戒めたのだ。
 元宵になると村では鬼の捕り物をメインに、仮面劇、地方劇、芝居のコンテスト、獅子舞、覇王鞭(彩色の鞭状の棒を持って踊る民間舞踊)、武術、山車、竹馬などの出し物が演じられる。演者は総勢600名以上とロバ50頭余り。この盛大な行事は天候の安定、五穀豊穣、家庭円満、天下安寧などの一般庶民の伝統的願望を表すものなのである。
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皆既月食の赤い月(10月8日19時~20時) &  10月9日午前2時半頃の白い月 (13景)

2014-10-09 | 民俗考・伝承・講演
     (写真は全て無加工。手持ち)





 2014年10月8日 皆既月食 19時15分~20時00分
 満月が大きく赤い

 
 20141008 19時15分

 

 

 
 20141008 19時30分

 

 
 20141008 19時50分

 

 
 20141008 20時00分



 2014年10月9日 皆既月食の後 午前2時半頃 
 満月 石膏ボールのような白い月

 

 

 

 
 
 


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映画『愛しの座敷わらし』ロケ地:遠野ふるさと村、岩手山 他 和泉聖治監督 水谷豊 安田成美 草笛光子

2014-09-24 | 民俗考・伝承・講演
   (イラン)




   映画『愛しの座敷わらし』ロケ地:遠野ふるさと村、岩手山、胡四王神社 他   和泉聖治監督 水谷豊 安田成美 草笛光子


 映画『愛しの座敷わらし』を見た。
 岩手の風景や風習や暮らしぶりや言葉に興味を持った。
 以前柳田國男氏の『遠野物語』を読んだことがある。
 岩手は美しい。
 一度行ってみたいと思いながら、まだ夢は果たせない。
 日本の至る所に美しい村や街が在る。
 ゆっくりと回ってみたいものだなぁ~



 ロケ地

 岩手銀行 中ノ橋支店
 遠野ふるさと村
 岩手山
 岩手銀行 中ノ橋支店(重要文化財)
 盛岡商工会議所
 盛岡城跡公園
 小岩井農場
 滝沢村立姥屋敷小学校・中学校
 胡四王神社





 座敷わらし

 座敷童子(ざしきわらし)は、主に岩手県に伝えられる精霊的な存在。
 座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。
 柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ、『遠野物語』の17話・18話および『遠野物語拾遺』87話に「ザシキワラシ」または「座敷ワラシ」の表記で話が掲載されており、17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり」「ザシキワラシは座敷童衆なり」と記述がある。

『遠野物語』には、座敷童子が去った家の一家が食中毒で全滅した話や、岩手県土淵村(現・遠野市)大字飯豊(いいで)の資産家で、座敷童子を子供が弓で矢を射たところ、座敷童子は家を去り、家運が傾いたという話が残されている。
 座敷童子の去った家が没落する話は、貧乏神が去った家が裕福になるという話と関連しているとの見方もある。これについては映画でも出てきた。

 白い座敷童子は吉事の前触れであり、赤い童子(赤い顔、赤い服、赤い手桶を手にした童子)が目に見えるのは、童子が家を出て行くことによる凶事の前触れとの説もある。
 赤い服の童子を見たという家族一同が食中毒死した事例もある。

 近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられているそうだ。

 映画では座敷わらしは飢饉による口減らしのために出現すると理由づけられていた。
 そのように考えられる民俗学の学者も存在する。
 座敷わらしにおいて色々な伝承や説が多く、本当のところはわからない。

 印象として、柳田國男氏の『遠野物語』は興味深く、読み物としても面白いことを付け加えておきたい。


 



監督 和泉聖治
脚本 金子成人
原作 荻原浩『愛しの座敷わらし』

水谷豊
安田成美
濱田龍臣
橋本愛
草笛光子

東映
2012年4月28日
109分
製作国 日本

『HOME 愛しの座敷わらし』(ホーム いとしのざしきわらし)として映画化。2012年4月28日公開。主演の水谷豊は、1983年公開の『逃がれの街』以来29年ぶりに映画単独主演を務めた。

あらすじ
父・晃一は食品会社の新製品開発責任者だったが、売れない豆腐プリンわさび味を作ったり、新たに創世した柿カレーにこだわりや愛情を注ぎすぎ、開発までに時間を掛けてしまい、東京から盛岡支店に半ば左遷された状態で、家族とともに岩手県の田舎町へと引っ越してきた。晃一が写真も見せずに家族に見せた家は築200年を数える古民家だった。東京での暮らしに馴れていた妻の史子は、突然の田舎暮らしに不安と不満でいっぱい。老人ばかりの近所付き合いにも戸惑う。前の外国人家族は1年ほどで引越したという。中2の長女・梓美にもただのボロ家にしか見えず、転校先の学校生活を考えると心が落ち着かない。転校前の学園生活でも人間関係で悩んでばかりだったからで、皆が書いた色紙も破ってしまう。同居する晃一の母親・澄代は田舎住まいには馴れた顔をしているものの、認知症の症状が始まりつつある。唯一、古民家への転居を楽しんでいる小4の長男・智也は、治りかけている喘息の持病をひどく心配され、サッカーをやりたくてもやれずにいる。晃一は家族の不平不満をなかなかうまく解消することはできないばかりか、支店でも馴れない営業職に悪戦苦闘する。誰もいない場所で物音が聞こえたかと思えば、囲炉裏の自在鈎(じざいかぎ)が勝手に動いたり、掃除機のコンセントがふいに抜けたり、手鏡に見知らぬ着物姿の子どもが映ったり、不思議な出来事が高橋家に起こり始める。この家には東北地方の民間伝承で有名な「座敷わらし」が住んでいるという。一風変わった同居人と共同生活をすることになった高橋一家は営業不振、更年期障害、認知症などを抱えながら、その生活に順応していく…。










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