ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル
Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク 8 /ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル
アメリカ音楽史への影響
ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという目的のために創設された音楽院であった。
創始者のジャネット・サーバー夫人は、メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による英語のオペラ上演を行うことが夢であった。
すなわち、この音楽院は、アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての位置づけにあった。
チェコ国民楽派の大物作曲家であったドヴォルザークを招聘した目的もアメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、特に作曲分野での充実を図る狙いがあった。
ドヴォルザークがアメリカに到着した直後に、サーバー夫人はアメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表している。
しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされなかった。その理由として、基本的な音楽教育が不備でありナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、ドヴォルザーク自身がネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究・吸収することに時間を費やし実践的教育にまで至らなかったことなど、さまざまな憶測がなされている。
しかし、これはドヴォルザークが以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかったということには当たらない。
ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、国民音楽の潮流を生み出したことは間違いない。
渡米8ヶ月後の1893年5月21日、「ヘラルド・トリビューン」紙上に『黒人の旋律の真の価値』と題するドヴォルザークの論文が掲載された。また1895年、チェコに帰国した後ではあるが、ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と題する論文を発表している。
これらの論文を通してドヴォルザークは、黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのだった。
そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものであった。
これらの作品は、スラヴ的であると同時にアメリカのフォークロアの影響が表れており、アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあった。
ドヴォルザーク門下生たちは、黒人霊歌やジュビリーを素材とした短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも似たような傾向を持つ楽曲を作り始めた。
ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、チェコに帰国するころまでには作品のほとんどがアメリカ初演を終えていた。
ニューヨーク・フィルハーモニックはアメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、ドヴォルザークを名誉会員に推挙したのであった。
(Wikipedia)