杵築神社(きつきじんじゃ 平群町福貴畑1396番地)大型絵馬と「聖観音座像」「木造深沙大将立像」
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信貴山から十三峠に向ってミニバイクで走っていると、杵築神社(平群町福貴畑1396番地)がありました。▼
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絵馬堂の前には鳥居。鳥居の両側には、写真のように飾られていました。▼
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中に入ってみますと、明治時代の大型絵馬が手の届きそうなところに奉納されています。▼
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驚きましたのが観音堂
中をのぞいてみますと、とても立派な観音様と姿の良い立像がいらっしゃいます。▼
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聖観音座像 (向って 右) 室町時代
福貴畑の氏神、杵築神社境内の観音堂の本尊。木彫、檜材の寄木造。差首、内刳りで素地仕上げ。白毫水晶。結跏趺坐(けっかふざ)し、像高93.4cm(三尺一寸)、膝張67.7cm。
後頭部内面に「空阿 天文十七年甲戌八月十八日(1548) 宿院仏師 源次」の墨書銘文がある。空阿と源次は、実は同一の人物で、開眼導師としての空阿と仏師名としての源次を使い分けていたと考えられている。
宿院仏師は南都宿院町に工房を置いていた番匠(大工集団)仏師である。町内ではこの像と椿井廃寺の十一面観音立像(享禄5年:1532/宿院源四郎、源次ほか)の二例が宿院仏師の作として知られる。
木造深沙大将立像 (左) 室町時代 前期
福貴畑の氏神、杵築(きつき)神社観音堂において本尊聖観音座像の脇尊として祀られている巨像で、高さ197?。寄木造りで、南北朝~室町前期の作と考えられている。
仏教の真髄を知るため、唐よりインドに向かった玄奘三(げんじょう)蔵(三蔵法師)が砂漠で遭難しかかった時に救った神とされる。
憤怒の表情で、髑髏(どくろ)の首飾り、臍には子供の顔、膝は象頭を付け、腕に蛇を巻いた奇怪な姿である。本来は砂漠の神であるが、波の彫刻の付く台座に乗り、杵築神社像においては龍神として祀られていた可能性がある。胎内には、天明5年(1785)の河内仏師による修理銘がある。
珍しい仏像であるが、町内では信貴山奥の院(米尾山福蔵寺)にも秘仏として祀られている。昭和51、52年に地元の有志・平群史蹟を守る会等が中心となって[深沙大将像修復推進委員会]が結成されて浄財を集めて修復された。この際、福貴畑大字により観音堂の 建物も整備されている。
なお、地元では「龍神」として雨乞いの対象にされていたらしく、足下に波模様の飾り(近世の後補)が付けられていた。本来、砂漠の神であり、解体修理の際に取り外されている。