写真は、「hand」 エジプト ナイル川にて
ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10 /ヤクブ・フルシャ/ 東京都交響楽団
Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク 4 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10
国際的名声
1878年に作曲され、同年にプラハで初演されて成功を収めたオペラ『いたずら農夫』が1882年にドレスデンで、翌1883年にはハンブルクで上演される。
これはドヴォルザークのオペラがチェコ以外で上演された初めての例である。
しかし、1885年のウィーン宮廷歌劇場での公演は、政治的な摩擦を引き起こし、リハーサルの段階から不評であった。
ワーグナー派のフーゴ・ヴォルフは、ドヴォルザークのオーケストレーションについて
「胸が悪くなる、粗野で陳腐なものだ」
と批判している。
しかし、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックからはウィーン移住の誘いを受ける。
ブラームスもこれを勧めたが、ドヴォルザークは、迷った末に結局これを断り、チェコに留まることにした。
ロイヤル・アルバート・ホール 1884年3月、ドヴォルザークはロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問した。
この時、いくつかのコンサートが催されたが、ロイヤル・アルバート・ホールで自ら指揮を執り『スターバト・マーテル』の演奏を行った時のことを、こう綴っている。
「私が姿を現すと12,000人もの聴衆から熱狂的な歓迎を受けた。(中略)私は心からの感謝を表すために何度も繰り返しお辞儀をしなければならなかった」
こうしてイギリス訪問を大成功に終えると、ドヴォルザークはプラハから60km離れたヴィソカー(チェコ語版)という小さな村に建てた別荘にこもり、くつろいだ時間を送った。
この別荘は、義理の兄にあたるコウニツ伯爵から土地を譲り受けたもので、今やチェコを代表する作曲家となったものの、田舎生まれの彼には、ゆったりとした田園生活を送る必要があったのである。
しかし、同年8月末には再び渡英、また11月にはベルリンで指揮者デビューを果たすなど、多忙な音楽家生活に変わりはなかった。
1884年の6月にドヴォルザークは、ロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に推薦されるとともに新作交響曲の依頼を受けた。
これに応えて作曲されたのが交響曲第7番である。
そして、彼はこの新作交響曲を携えて、1885年4月に3度目の渡英を果たす。
ドヴォルザークとイギリスの蜜月はこの後も続き、結局生涯に9回のイギリス訪問を重ねている。
交響曲第7番は、劇的序曲『フス教徒』とも主題上の関連がある愛国的な感情をうかがわせる作品である。
ドヴォルザークは、出版社ジムロックに対して、この交響曲のスコアの表紙にはドイツ語と並んでチェコ語でタイトルを印刷し、自分の名前もドイツ語の「Anton」ではなく、チェコ語「Antonín」を想起できるよう「Ant.」とするよう要求している。
しかし、ドヴォルザークが小品を作曲してくれないことに不満を抱いていた出版社は、この要求を採り上げなかった。
こうしたことからドヴォルザークとジムロックとの間は冷えた関係となって行く。
1887年には、8月にジムロックに対して
「今は新作の構想はない」
と言いながら、10月には室内楽曲の傑作ピアノ五重奏曲第2番(Op.81, B.155)を完成させている。
そして秋に交響曲第5番、交響的変奏曲、弦楽五重奏曲ト長調、詩篇149番といった作品とともに新作を携えてベルリンのジムロックを訪れ、これらの作品を購入すること、そのスコア表紙の作曲者の名前は「Ant.」とすることを承諾させたのであった。
1890年、ドヴォルザークは交響曲第8番を完成させる。
しかしジムロックは
「大規模な作品は売れ行きがよくない」
ことを理由に買い叩こうとした。
このため、両者の溝は決定的なものとなり、ドヴォルザークは、ロンドンの出版社ノヴェロ社にこの新作交響曲を渡してしまった。
そのために、この交響曲は「ロンドン」または「イギリス」と呼ばれることがあるが、それは上記の理由にしか拠らないものであり、イギリスをモチーフにした標題的な要素はない。
1888年、プラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、1890年にはその招きでモスクワとサンクトペテルブルクを訪問している。
このころ、ドヴォルザークは様々な栄誉を受けている。
1889年に鉄冠勲章(ドイツ語版)三等を受章し、1890年にはチェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙された。
1891年にはプラハ大学より名誉博士号、ケンブリッジ大学より名誉音楽博士号を授与されている。
公職としては、1890年秋にプラハ音楽院教授就任を受諾し、翌1891年からこの職に就いている。
ドヴォルザークが担当した15人の生徒の中にはヨセフ・スク、オスカル・ネドバル、ヴィーチェスラフ・ノヴァークといった次代のチェコ音楽を担う逸材が集まっていた。
ドヴォルザークはこうした多忙の中、レクイエムとピアノ三重奏曲第4番『ドゥムキー』という2つの重要な作品を完成させている。
(Wikipedia)