石原慎太郎少年、米兵から殴りつけられる
太平洋戦争が終戦を迎えたとき、石原慎太郎少年は茅ヶ崎海岸で塹壕掘りに従事していた。玉音放送を聴いた瞬間、遊泳禁止だった海が自分の手に戻ってきた事実を覚知した。戦争に敗れた無念さよりも、自由と解放感のほうがよほど大きかった。
「茅ヶ崎海岸での塹壕掘り勤労動員から突然帰宅させられ、家のラジオで終戦の詔勅を聞きましたが、中学一年生では戦いに敗れたという無念さも、改めての危機感も余りありませんでした。それより何より、それまでの米軍の上陸に備えて軍隊に占領され遊泳を禁止されていた夏の海が再び私たちのために戻って来て、たまらない解放感があったのを鮮明に覚えています」(「文藝春秋」1981年12月号)
1945年8月15日の夜から、暗く忌まわしい灯火管制は解除された。電灯を覆っていた布を取り払うと、部屋はパッと明るくなった。ここから石原慎太郎にとっての戦後が始まったのだ。
湘南海岸から沖合を眺めると、相模湾にアメリカ海軍の大艦隊が忽然として姿を現した。そこにはなんと60隻もの大型艦船が鎮座している。艦船は相模湾を塞ぎ、水平線も見えないほどの圧倒的威容だった。
逗子の街を流れる田越川の畔には、海軍士官たちの交流拠点である水交社がある。あろうことか、この建物は米兵たちの売春宿に転じていた。水交社は、戦死した将校の遺骨を家族に渡すときに使われていた建物だ。その水交社の目の前の路上で、真っ昼間から半裸の女が黒人兵たちとふざけちらしている。石原慎太郎少年の屈辱感はピークに達した。
「商店街の通りを若いアメリカ兵が二人アイスキャンデーをしゃぶりながら大手をふってあるいてきた。町の人たちは遠慮をして店の軒先に身をよせて見守っていたが、それをいい気にして彼等は胸をはり歩いて来る。小癪に思った私は彼等に倣(なら)って道の真ん中を構わず歩いて行きすれちがったが、その瞬間相手の一人が手にしていたアイスキャンデーで私の頬をなぐりつけた」(『わが人生の時の時』)
話に尾ひれがつき「慎太郎がアメリカ兵に殴られて大怪我をした」という噂が広まった。すると湘南中学の教職員室に呼び出され、教員からなじられたのだ。
「なんで馬鹿なことをする、学校に迷惑がかかったらどうするのだ」
「あなたたちは去年までは国のために闘って立派に死ねと教えていたではないか」
高校生時代に不登校だった石原慎太郎
1946年5月から、東京・市ヶ谷の旧・陸軍士官学校講堂で極東国際軍事裁判が始まる。中学生の石原慎太郎少年は、極東軍事裁判を傍聴する貴重な機会を得た。ところが現場に赴くと、米兵からアイスキャンデーでドツかれたとき以上の屈辱を味わう。
「となりの大学生のお兄さんにともなわれて行った市ヶ谷の建物の二階の席にあがるため階段を登っていった私の肩を途中の踊り場にいたMP【※引用者註:Military police=陸軍憲兵】がいきなりつかんでなにか叫んだ。お兄さんの言葉だと雨の日に履いていた下駄がかたかたうるさいという。言われるまま脱いだ下駄を相手はいきなり蹴とばしてしまった。私は慌てて這いつくばり床を這いまわって下駄を拾い合わせてその後ぬれた階段を裸足で上り下駄を抱えて指定の席に座りこんだものだった。あの遺恨は一生忘れまい」(「文學界」2020年6月号「僕たちの時代」)
https://gendai.media/articles/-/104831?page=2
石原慎太郎氏は、逗子の街の道の真ん中を歩いていたら。
やはり向こうから、道の真ん中を歩いてきた。若い米国兵に殴られた。この屈辱は、絶対に忘れられない。
二千年も大昔の、野蛮な社会の宗教、その物では。現代の平和な、他国を思いやる、社会ルール・倫理を わきまえる。なんて、出来ない相談なのだ。大都市空爆や、原子爆弾の投下。あるいは、病院船とか米国側の例えば、オーストラリア兵が捕虜に為って、日本の輸送船で運搬されている。そうした、『自国の兵士が乗っている。それも、其の様に日本から、米国に通報されていた。』 にも関わらずに、米穀の潜水艦は、魚雷攻撃で 自国側の捕虜もろともに、殺害 した。
潜水艦による輸送船などの、民感染への攻撃は 勿論のこと。戦時国際法の違反ではあるが。
ハロルド・レインスフォード・スターク(Harold Rainsford Stark, 1880年11月12日 - 1972年8月21日)は、アメリカ海軍の軍人。第8代アメリカ海軍作戦部長(CNO)。
スタークは、こうした戦時国際法違反の、無制限潜水艦戦を支持した。
米軍の無制限潜水艦戦
米海軍作戦部長のハロルド・スターク大将
https://note.com/bouheitai1958/n/n992834edf9f0
米海軍作戦部長のハロルド・スターク大将はアジア・太平洋戦争の開戦直後、太平洋地域で作戦行動を展開中の海軍司令官たちに「対日無制限航空・潜水艦戦の実施」を発令した。日本の艦船は軍艦のみならず、民間人が乗船する輸送船や商船であっても無警告で攻撃してよいという命令である。言うまでもなく国際法違反であった。
米潜水艦部隊は南西諸島周辺海域はじめ太平洋のあちこちにひそみ、43年には約100隻の米潜水艦部隊が「群狼戦法」といわれる数隻の潜水艦が協調して敵船団を攻撃する作戦で日本商船の大量撃沈に踏み切った。これにより日本の海上輸送は壊滅状態に陥っていく。
バーベルは新造艦であり、この年7月ごろ小笠原諸島近海に進出し、その後南西諸島近海で哨戒活動をおこなっていたが、このころバーベルとともに南西諸島沖で哨戒活動をおこなっていた米潜水艦には、後に対馬丸を撃沈させるボーフィンなどもいた。宮古丸遭難も、こうした米軍の無制限潜水艦戦の一環であり、すでに南西諸島の制海権が米軍に奪われているなかでの出来事であった。
ルーズベルト大統領の急死 の後を襲った臨時大統領は、東京大空襲のまさにその、市民大虐殺のその中でアメリカ軍の最高指揮官に就任している。ルーズベルトは 4月12日に突然死を遂げた。東京空襲は前年の 11月から行われていたが、大統領の死をはさんで、3月10日、4月13日、4月15日そして 5月25日に焼夷弾攻撃を中心に、民間人を焼き殺す暴挙として敢行された。
ここから想像出来ることは、ルーズベルトの突然の死は、「人類の歴史への挑戦=大虐殺」を躊躇した為にコロされた。日本の小渕元総理もおなじ様な「卒中」で死亡しています。
捕虜の交換のため、ロシアから飛んできた。Ilyushin Il-76 をウクライナ軍は撃墜して、自国の捕虜もロシアの乗員も。全て冷酷にも虐殺してのけた。だいたい、湯田屋(ユダヤ)はこうした卑劣なことを、常態的にしてのけてきた。
第二次大戦の太平洋方面での戦いでは。日本の将兵が、200万とか死亡と言われてきたが。最近では、230万人の死亡が謂われている。わが郷・左近尉の考えでは、この 230万の内 50 ~ 100万人の将兵が。無制限潜水艦戦で殺されている。しかし是って、明々白々の国際戦時法違反である。ならば、日本国内の上部構造は。戦後 80年の今日でも。特ア・によって支配されている。
フジテレビは、身内の女子アナを慰安婦に。とかの情報は、自ら謂う事はない。ましてや宗主様の米国DS が戦時中に為した、悪事なのだもの。なんとかしてこの不祥事を隠し通したい。ならば、ネット空間を幾ら探してみても。この無制限潜水艦戦のことは、書かれていない。そしてこうした災難に遭った、関係者の多くは。もう鬼籍に入られてしまっている。そう、米国の
戦犯の多くは、逃げて。矢張りアッチの世界へ、雲隠れしてしまった。
石原慎太郎少年を、アイスキャンデーで殴った。若い米兵も、もう 多分 アッチの世界なのだろう。
そして残念なことだが。
日本の現実の政権は、石破、岸田らの凸凹によって。歪められている。
支那の企業経営者等は、日本国内のマンションだとか。別荘地を買いあさっている。そして我が愛すべき、岩屋外相の御仕事は。こうした支那のお金持ちの為に、ビザだとか滞在期間の延長の。便宜を計ること。
儂の若い頃ならば、こうした悪人には。頭から、ゴミ箱の塵をぶっかけて遣った。
こんだけ、見事に 敵国支那への内応を行う。
是ならば、ちゃんと調べられたならば。彼の受け取る賄は、ゴン太朗を越えて。100億 200億は、あたぼう なのかも知れない。支那に隠し金の仕掛けを作り。其処に ストック ならば。日本の人々は、調べることは出来ない。その調査の目的で、支那へ入国でもすれば。スパイ罪で逮捕されて。何をされるか判ったモノではない。そう、岩屋外相は そうした 大物に増長してしまっている。もう日枝氏よりも、もっともっと 大物なのかも知れない。
戦後ミンシュ勢力は、どのような悪事でも。事もなげに行う。
ならば、悔しいでは無いか。
ならば、ネットブログの訴状に、オット 俎上に載せて。
この者達を、刺身の 活け作り。美味く 造れたならば、お慰み。
まだまだ儂は、修行が足りない。ならば、包丁一本、サラシに巻いて。旅から旅への、渡り鳥でも 遣らねばならない。
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