コロナパンデミックの風とともにさくら色に染まる時を、七年ぶりに日本で過ごした後も、日本でのステェイが続き、季節の移り変わりも、また七年ぶりに体験することになった。
梅雨時の日本のジメジメとした湿気を充満した空気には、当初は馴染めなかつたが、長年、体に染み付いていたそれに馴染む感覚はすぐに戻り、むしろ懐かしく、優しく体を包んでくれるようになった。また、梅雨の始まりとともに、花をつけ始めた紫陽花の花が、徐々にその色彩を増し、梅雨と親和したその姿が美しさを増していった。梅雨時に、聞こえていたカエルの鳴き声が、梅雨の終わりとともに、蝉の鳴き声に代わって行った。
それとともに、暑さが増していき、日本特有の蒸し暑い夏の季節がやって来た。
オーストラリアの夏は、40℃を超えるほどの暑さに達することもあるが、乾燥しており、日陰や家に入ると涼しく感じる。そのため、冷房を使うことはほとんどなく、扇風機でほとんど過ごしていた。
しかし、この日本の夏は、クーラーは必需品である。クーラーをかけずにいると、熱中症で亡くなってしまうことも多いからだ。私も家にいるときは、クーラーをかけて過ごすことになった。そのため電気代が春先の二倍ほどにかさむことになった。
この蒸し暑さが続くなか、蝉の亡骸を地面に見かけるようになるにつれ、徐々に蒸し暑さが薄れていき、爽やかな青空にうろこ雲を見かけるようになると、どこからか赤とんぼが訪れるようになった。
そして、まだ残暑が残る九月の季節に入ると、オーストラリアのワイルドフラワーを懐かしく思い出すことになった。オーストラリアでは、この九月の時期には、毎年ワイルドフラワーを観賞するため、名所のキングスパークを家族で訪れるのが常であった。日本のこの九月は、台風の到来する厄介な季節であるが、オーストラリアでは、ワイルドフラワーが乱舞する生命の息吹を感じる春爛漫の季節だ。
そして、爽やかな秋の夜空に名月が映える頃、思わぬ知らせを聞くことになりました。
それは、役所時代の友人F君からのものでした。
彼からの知らせによれば、もう一人の友K君の奥さんが九月の八日に急死したとの内容でした。
K君とは、八月に彼の写真グループの展示会であっていました。その時、彼からはそのような奥さんの健康状況についての話は何もなく、その夜は、友人たちと楽しい時を過ごしていたものです。
F君はK君からの知らせを受け、私に知らせてくれたものでした。F君はずっと前に、奥さんを亡くしており、同じように男やもめになったK君は、まずF君に知らせたものだろうか。
私は、K君の奥さんには、二年前に、K君の写真グループの展示会であっていましたし、新婚当時の彼の家に友人たちと招待を受け、訪れたこともありました。また、几帳面なK君は、毎年クリスマスメッセージを届けてくれ、添えられた彼の家族写真で、奥さんの姿も拝見していました。
そして、今年には、彼のマレーシア赴任時の思い出を綴った本をいただいており、彼と彼の家族が築いてきた貴重な歴史を知ることになりました。
彼女に何があったかは、その知らせの後、彼にまだあって話を聞いていないため、私は、何も知る由はありませんが、独り身になった彼の心境はどんなものだろうかと、想いを巡らしていました。
それにつけても、私の場合は、コロナ禍のため、結婚して初めて、半年以上の時間を独り身で過ごしていますが、もうこの世で妻と会うことのできなくなった彼の気持ちは計り知ることできませんでした。
そんな折、偶然に、万葉の歌人大伴家持のこの歌を知ることになりました。
石竹花が花見るごとに 少女らが笑まひのにほひ思ほゆるかも
(なでしこ) (おとめ)
万葉集には、ナデシコの歌が二十六首あり、そのうち十一首が家持の作で、彼が好んだ花だと言われています。この歌は、家持が越中国に赴任中に詠んだ歌で、「庭中の花に作れる歌」と題して読んだ、長歌と短歌が一組になった歌とのことです。「少女ら」の「ら」は親愛の表現で、妻の坂上大嬢を指しており、「にほひ」は輝くような美しさを言っているとのことです。長歌では、ナデシコを花妻と表現しており、可憐な花に愛しい妻の姿を重ねていたようです。
すなわち、彼は、大和の国に残してきた妻を憶い、妻をナデシコになぞらえて、この歌を詠んだのではないだろうか。「石竹」は、現在はセキチク(カラナデシコ)をさしますが、この歌がもととなり、大和撫子と呼ばれるようになりました。ナデシコが「撫し子」となり、撫でるほど愛しい女子を表すこととなったとのことです。
その後、彼が、フェイスブックに妻の死を投稿した折に、私はお悔やみとともに、この家持の歌を添えることにしました。それは、K君の心情と家持の心情が、どこか相通ずるところがあるのではないかと、想えたからです。
その後、家持が、大和に戻り妻に会うことができたかどうか、わかりませんが、当時の万葉の時代には、もちろん電話もメールもなく、単身赴任は永遠の別れだったかもしれないからです。
一方、正に今、妻の死という現実に直面した彼の心情は、如何ばかりのものだろうかと、私は想いを巡らしていました。
そう言えば、数ヶ月前に、オーストラリアのパースにいる妻からのメールに、「久しぶりにピアノを弾きながら、達郎がよく聴いてくれていたことを懐かしく思い出しました。」とあったことを思い出しました。
そして、このパンデミックがもたらした私と妻との隔たりは、K君の妻との永遠の別れに比べれば、些細な隔たりにすぎないにも関わらず、なぜか私は、このパンデミックが早く収束し、昔の日常が戻り、妻のピアノをゆっくり聴くことができたらと、心から願っていました。
そんなことを思い出している折しも、庭に出て空を見上げると、優しげな雲を抱いた秋空に、一羽の鳥が舞っていました。
そしてその時、この大空は、時を隔てたあの家持の時代にもあり、また、はるか彼方のパースにも繋がっていることを思うと、彼が、「庭中の花に作れる歌」に願いを込めて詠んだように、私は、その大空に舞う一羽の鳥に、私の願いが届くように心の中で祈っていました。
先日、妻の中院法要を営み、一段落付いたところです。
たまたまその日は、わたしの誕生日と重なりました。
彼女が愛娘とともに楽しみ、最も輝いていたフラの舞踊について、これまでわたしが撮り溜めた舞台写真をもとに写真集を作成・印刷し、長く彼女の記憶を残すため、当日集まった子供たちや孫たちに渡しました。
貴君の撫子の輝いていた頃の写真集は、きっと天国に旅たった少女にも届き、旅の慰みになっていると思います。