第四部 Generalist in 古都編

Generalist大学教員.湘南、城東、マヒドン、出雲、Harvard、Michiganを経て現在古都で奮闘中

日米のPhysical 比較+日本の医学部の背景@関西HIV 臨床カンファレンス

2018-05-21 14:29:29 | 総合診療

みなさま こんにちわ。

スウェーデンから帰ってくるやいなや、いろいろな業務に追われて更新できていませんでした。
先週は1週間ワシントン大学(シアトル)からDr Paauw先生が来られており、マンツーマンで個人授業を受けていたようなものでした。
 
実はスティーブン・マクギー先生と同僚でかなりのお友達とのことで、米国と日本におけるフィジカルの闘い!?を繰り広げようと二人でイベントを開催しました。しかしながら、Ausculatory percussion methodの色々使い分けや爪のみから診断する色々なウンチク合戦など、心が通じ合いすぎておりもはや「伝えるべき心は一つ」という事で合致してしまいました。日米でほぼ差はありません。僕が少しイギリスよりなのでそれくらいでしょうか。
 
 
 
 
 
さて、昨日は関西HIV臨床カンファレンスという感染症好きな人間の間では夢のマニアなとんでもない会に特別講演でお呼びいただきました。その際に本邦の大学の医学教育体制はなんでこうなってしまったんだろうという身勝手な考察をお話ししました。
 
1870年代に当時最先端であったドイツ医学(実験基礎医学)を導入して、我が国は東京帝国大学を頂点としたヒエラルキーと医局制度を作成しました。そのことで大学教員としての評価システムがこの実験基礎医学の軸にかなり偏って普及してしまったことにあると考えています。当然ヒエラルキーの頂点から暖簾分けのように広がり、金太郎飴のように国の中核大学医学部も地方国立大学医学部も画一的にその実験基礎医学の評価軸を中心とした中での医学教育や実臨床も進められてきたように感じます。
もちろん基礎研究は極めて重要で未来の国の礎を築くものであることは間違いありません。
 
しかし、世界中のいろいろな国の同期や医師の友達と語れば語るほど、大学としての評価の軸は一元的/一面的であっては臨床・教育・研究の三本柱を機能させることは難しく、大学教員はいろいろな評価(建設的なフィードバック)を受けるべきであると考えるにいたっております。だって、教員は学生を評価するのに教員は学生から評価されないのはフェアではないですよね。
 
現在の世界的に有名なオランダの医学教育学や、エジンバラ学派から派生しているイギリスのHistory and Physicalを中心とした臨床内科学、ジョン・スノーを代表するような疫学(Public health)、そしてそれらをいい感じに融合させた米国の医学のようにザックリと言うことができると思います。
 
明治時代に始まった我が国の医学の見えにくい・言語化しにくい背景は海外との情報を途絶した第二次世界大戦が終わるまで(終わってからも)、イギリスやオランダ、アメリカの医学の学派(いわゆる臨床研究や臨床医学教育や公衆衛生的なものですね)が日本の大学医学部内に混ざることは少なかったように感じます。大学教員として残ることができる人はその評価を受けることがしやすい・できる人でありますので、どうしても評価軸が一つだけに偏っていると大学医学部にはそれに向いている人材が偏ってしまう潜在的な仕組みがあった思うわけです。
 
そして驚きました、なんとあの1969年の医学部を舞台にした小説「白い巨塔」の中で大河内教授がこのように語っております。
 
「日本の医学教育は、いまだに1870年代のドイツから採用した講義中心の教育課程をそのまま踏襲している為に、肝腎のベッドサイド教育が立ち遅れ、一方で学生たちも満足にも診療もできずして、学位を取ることに鵜の目、鷹の目になっておる。こういう弊害を打破する為にも、診療教育はもっと日数をかけて、みっちりやるべきだ」
浪速大学医学部病理学教室教授大河内先生
 
それから50年経った現在、大河内先生に謝りたく思います。
 
大河内先生、今なお僕らは大講義制の呪縛から逃れられておりません。若い人の為に、どうしたら良いでしょうか。教えてください。