白金台に住んでいるセレブたちを指す言葉がある。
シロガネーゼ。
自分の物を捨てられない人たちを指す言葉がある。
ステラレネーゼ。
俺は、当然後者である。
まあ中野区に住んでいるところから
前者であるはずがないんだけれども。
小さい頃から何かと物をとっておく習性があった。
何か買い物に行ったときも、
お店で、紙ヒコーキになる以外、
なんのとりえもないチラシたちをもらっては、
ずっと取ってあった。
小学校や中学校、高校で使った、
ノート、教科書、学年通信なども全部取ってあった。
俺の家がメチャクチャ広くて、
そういうのをちゃんと保管できるスペースがあるなら、
それでもよかったかもしれない。
でも実際はそうではない。
普通のマンションの普通の部屋が俺の巣だ。
要らないものをとっておけるスペース的余裕は皆無。
この歳になって、バイトをして、
ある程度自分のお金でいろいろ買うようになった。
ゲームや服など。
その数は年々増えてきている。
要らないものを捨てないと置く場所がない。
とゆーわけで、
前回、高校のものを9割方処分した。
卒業アルバムや部活の練習ノートはとってあるけど、
そういった印象に残ったもの以外は全部捨てた。
俺が今まで生きて生きた中で一番楽しかったのは
中学校時代だ。
だからそこで手に入れたものはすべて取っておきたかったが、
家の狭さがそれを許さなかった。
そこで泣く泣く、俺は教科書とノートを処分した。
もちろん文集やアルバムはとってあるけど。
そしたら、めっちゃスッキリした。
そもそもノートや教科書なんて、
とっておいても何の価値もない。
将来、自分の子供が勉強で使うかなと思っても、
世代が違うのだから、学んでいることも違うし、
今の俺が親の学生時代のノートや教科書を
見たことがない(むしろ存在の有無が怪しい)のと同じように、
俺のノートや教科書も自分以外の人には無価値なのだろう。
こうやって部屋を整理したらたまたま出てきて、
ちょっと眺めて、懐かしさに浸る以外、
それらの存在意義はない。
しかも自分の目に映らなければ、一生見ようとはしないだろう。
物置の奥にしまって、
自分が見ようとしなければ、
きっと死ぬまでそのままだ。
だいたい小学校は卒業してから9年、
中学は6年経っている。
その中で過去のノートや教科書やプリントを見た回数は、
妹が勉強の仕方がわからないと言ったとき、
アドバイスのために1度見たぐらいである。
今後、頻繁に見るなんてことはないだろうし、
社会に出たら忙しくてそんなことをしている暇はない。
所詮それだけの価値。
ならば、あってもなくても同じ。
むしろ部屋のスペースを考えるとない方がよい。
ノートや教科書なんかがなくても、
俺が当時勉強したとか、いろいろがんばったという事実は
生涯不変のことなのだし、
当時の思い出はいつまでも俺の心の中に残る。
もし俺の将来の結婚相手が小・中の関係者だったら
夫婦そろって思い出に浸ることもあるし、
そんなとき、「ノートとっとけばなぁ」と思うこともあるだろうが、
そんな可能性は極めてゼロに近いし、
別に物がなくても、心に残っているのだから問題はない。
だから今回、ほとんどのものを捨てることにした。
「過去にこだわるぐらいなら、常に新しいことを経験したい」
それが俺のモットーだ。
アルバムとか文集とか、必要最低限のものさえあればそれでいいのさ。
シロガネーゼ。
自分の物を捨てられない人たちを指す言葉がある。
ステラレネーゼ。
俺は、当然後者である。
まあ中野区に住んでいるところから
前者であるはずがないんだけれども。
小さい頃から何かと物をとっておく習性があった。
何か買い物に行ったときも、
お店で、紙ヒコーキになる以外、
なんのとりえもないチラシたちをもらっては、
ずっと取ってあった。
小学校や中学校、高校で使った、
ノート、教科書、学年通信なども全部取ってあった。
俺の家がメチャクチャ広くて、
そういうのをちゃんと保管できるスペースがあるなら、
それでもよかったかもしれない。
でも実際はそうではない。
普通のマンションの普通の部屋が俺の巣だ。
要らないものをとっておけるスペース的余裕は皆無。
この歳になって、バイトをして、
ある程度自分のお金でいろいろ買うようになった。
ゲームや服など。
その数は年々増えてきている。
要らないものを捨てないと置く場所がない。
とゆーわけで、
前回、高校のものを9割方処分した。
卒業アルバムや部活の練習ノートはとってあるけど、
そういった印象に残ったもの以外は全部捨てた。
俺が今まで生きて生きた中で一番楽しかったのは
中学校時代だ。
だからそこで手に入れたものはすべて取っておきたかったが、
家の狭さがそれを許さなかった。
そこで泣く泣く、俺は教科書とノートを処分した。
もちろん文集やアルバムはとってあるけど。
そしたら、めっちゃスッキリした。
そもそもノートや教科書なんて、
とっておいても何の価値もない。
将来、自分の子供が勉強で使うかなと思っても、
世代が違うのだから、学んでいることも違うし、
今の俺が親の学生時代のノートや教科書を
見たことがない(むしろ存在の有無が怪しい)のと同じように、
俺のノートや教科書も自分以外の人には無価値なのだろう。
こうやって部屋を整理したらたまたま出てきて、
ちょっと眺めて、懐かしさに浸る以外、
それらの存在意義はない。
しかも自分の目に映らなければ、一生見ようとはしないだろう。
物置の奥にしまって、
自分が見ようとしなければ、
きっと死ぬまでそのままだ。
だいたい小学校は卒業してから9年、
中学は6年経っている。
その中で過去のノートや教科書やプリントを見た回数は、
妹が勉強の仕方がわからないと言ったとき、
アドバイスのために1度見たぐらいである。
今後、頻繁に見るなんてことはないだろうし、
社会に出たら忙しくてそんなことをしている暇はない。
所詮それだけの価値。
ならば、あってもなくても同じ。
むしろ部屋のスペースを考えるとない方がよい。
ノートや教科書なんかがなくても、
俺が当時勉強したとか、いろいろがんばったという事実は
生涯不変のことなのだし、
当時の思い出はいつまでも俺の心の中に残る。
もし俺の将来の結婚相手が小・中の関係者だったら
夫婦そろって思い出に浸ることもあるし、
そんなとき、「ノートとっとけばなぁ」と思うこともあるだろうが、
そんな可能性は極めてゼロに近いし、
別に物がなくても、心に残っているのだから問題はない。
だから今回、ほとんどのものを捨てることにした。
「過去にこだわるぐらいなら、常に新しいことを経験したい」
それが俺のモットーだ。
アルバムとか文集とか、必要最低限のものさえあればそれでいいのさ。