教授とともに、教授宅に戻ると、昨日とうってかわって、
瞳子がすがってくる相手が私に代わっていた。
「おかえり。おかえり」
嬉しくてたまらない繰り返しを聞きながら、私はそっと瞳子の頭をなでた。
「うん・・」
じわりと瞳子の目の端に涙がにじむ。
それは、昨日の帰宅時、瞳子の教授への行動がどういう意味合いをもつものか、私に悟らせた。
瞳子は父親を恐れている。
恐れているからこそ、気に触るような行動や恐れている事が教授にばれてしまう行動をひかえ、教授に取り入る唯一の方法を処すしかなかったのだ。
私という庇護者が現れ、瞳子は「父親が恐ろしい」と、いう思いを表明した。
それは、私なら、守ってくれると感じ取ったせいだろう。
だが、その一方で、教授に対する敵意をむき出しにしたに等しい行為は瞳子をいっそう不安におとしいれ、教授への恐怖が募る。
それで、瞳子は私の部屋ににげてきたのだ。
そして、教授と私が共に帰ってくれば当然、教授をさけるためにも、安全地帯にはいりこむ。
教授へ取り入る必要がなくなった瞳子は、教授の存在を排除し、前と逆転した状態を露呈し、教授は瞳子から言葉ひとつ、かけられなかった。
「ふむ・・」
私を頼りきっている姿に、瞳子を託せる安心感をもちながら、教授にため息が交じる。
「すみません・・」
謝る私に教授があわてて、夫人を呼んだ。
「初子・・」
夫人は台所から、手をふきあげながら出てきた。
「ごめんなさい。ちょっと、手をはなせなくて・・」
教授の鞄を受け取ると、そっと、私に合図した。
それは、大丈夫。
同意書の事も何もかも、主人には判らないようにするからというものだった。
「うん。今日はなにかね?いいにおいがするぞ」
心持浮き立って見えるのは、教授が同意書の事をなにもふれさせないために、明るく振舞ったのかもしれない。
夕食をおえると、風呂。夫人は気をきかせ、私のために新しい下着と肌着とパジャマまでそろえていてくれていた。
教授が風呂にはいった隙を見計らい、私は夫人に催眠療法の承諾を得られたと告げた。
「教授には黙っていてください。クリニックは通常の定期健診ということで、私が瞳子をつれていきます」
「ええ。心得てます。それでも、瞳子は外にでるでしょうか?
今日も留守番をたのんで、買い物にいってきたのですが、何度さそっても、外にでようとしない・・」
対人恐怖症・・は、当然あるだろう。外にでるのは、家の中にいるより恐ろしい。
教授への恐怖は、父親で無い人という観念で、事実と向き合うことを避け、外よりは安全で、
生活の基盤のある家に居るしかなくなった瞳子は夕方だけ帰ってくる教授をうまくやり過ごす。
そんなにまでして、この家にしがみつくしかない瞳子であったのに、私が帰りかけたとき、自分も一緒に行くとダダをこねた。
瞳子はこの家からでたい。それが、本当だろう。
だからかもしれない。
だから、この家から連れ出してくれる、大義名分が通る方法は、唯一、結婚。
その結婚相手である「YOSHIHARU」の名を呼んだ瞳子は「ここからつれだしてほしい」と、意思表示したのかもしれない。
その願いをかなえてもらうためには、私のご機嫌を取り結ばなきゃいけない。
瞳子の思考回路は、教授に対する態度と同じ選択を廻らす。
そう考えて間違いないんじゃないだろうか?
そして、そんな瞳子に私は結婚を申し込み、そんな事はお嫁さんになってくれてから、と、瞳子を宥めた。
それが、結果的に良かった。
瞳子は媚びた態度をとらなくても、結婚、すなわち、家を出れると理解し、私への信頼と安心感を深くした。
それが、さっきの態度に如実に表れている。
「大丈夫です。一緒に帰るといったくらいですから、私とだったら、多分、外に出ます」
夫人はすこし、考え込んでいたが、相変わらず、ぺたりと私に張り付いている瞳子にたずねた。
「瞳子、お医者さん・・義治さんといっしょにいく?」
瞳子は丸い目になった。
「え?私・・病気じゃないよ。それに、注射きらいよ」
私はすかさず口ぞえした。
「健康診断だよ。体重はかって、身長はかって、視力検査・・えっと・・」
どうやら、医者に恐れをなして、さっそく、子供の瞳子にもぐりこんでしまったようだった。
幼い瞳子に視力検査は判らないかと言葉をとめて、どう言おうかと迷っていたら瞳子が笑い出した。
「知ってる。おたまみたいなの、目にあてるのよね」
おたまがおかしいと瞳子は笑った。
「うん。そうだよ。私と一緒に行く?」
「うん」
私と一緒・・それだけで瞳子がうなづく。
夫人はいっぱい涙をためた瞳をあわてて手の甲で拭っていた。
「ごめんなさい。この子が笑うの・・あれから・・はじめて・・」
「ええ」
私は夫人の気持ちが手に取るように判った。
笑いさえ忘れていた瞳子が退行現象の中でといえども笑った。
およその感情すべて、おきざりにして、淀んだ沼の中から、河童のように、水面に顔だけだして、おどおどと辺りを伺う。
そんな瞳子が笑い声を立てた。
治る、治る、きっと、治る。この人に任せて間違い無い。
夫人の思いに微かな希望がさしこんだせいか、心持ち、夫人の瞳が明るく見えた。
教授の手前を考慮するのだろうか?
一旦は、自分の部屋にはいって、小一時間もすると、瞳子は枕をもって、やってきた。
「どうぞ」
と、部屋にいれると、この前のような「YOGHIHARU」は、無かった。
その代わり、当たり前のように自分の枕を私の枕の隣にならばせ、ちゃっかり、布団の中にもぐりこんだ。
「おはなししよう」
あるいは、私に取り入る方法が「お話し」だと思ったのかもしれない。
もしかしたら、瞳子は私にあるべき姿の父親を求めているのかもしれない。
虐待でなく、楽しい語らいという崩れてしまった父親の姿を取り戻したかったのかもしれない。
「そうですね。じゃあ、瞳子さん。今度、私とお医者さんにいきましょうね」
「え?」
今度は素直な返事が返ってこなかった。
「注射・・するんでしょ?」
恐がりな瞳子の不安。だけど、私はホッとしていた。今、少なくとも、瞳子の感情が先にでた。
庇護されている状況を持続しないといけないとばかりに「うん」と闇雲に答えるだけでなく、私には、自分の感情もいえる。
そんな瞳子に見えた。
「大丈夫ですよ。注射なんかしません。痛い思いなんかさせませんよ」
「うん・・」
また、瞳子の涙がわいてきた。
痛い思い、恐い思い、いやな思い、そんなマイナスの思いをかけさせはしない。
この言葉が瞳子の心の奥底に響くのだろう。
レイプも、虐待も、失ってしまった父親の姿も、みんな、痛い傷を残している。
だけど、もう、この先、そんな思いを味わう事はない。
安心の芽がのびたち、瞳子ははやくも、軽い寝息をかき始めていた。
私は枕元においた、鞄の中から女医に渡された資料を取り出した。
ページをひらくと、そこに目を落とす。
性的虐待の仕組みと経過。
その目次が一番目についた。
読み進む私は、怒りで我を忘れそうになる。
瞳子の様子に一番あてはまると思えたのが、以下の部分だった。
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