―序―黒龍の傍らにうずくまる少女が居る。白峰の瞳が少女を嘗め尽くしていた。立ち尽くす白峰に気が付いた黒龍が少女から目を上げた。「おまえのものか?」白峰の心に生じた思いを気取る事が出来ず、黒龍は問われた言葉に僅かに瞳をいこらしていた。「馬鹿な事を・・・」人としていかせしめる。何ぞ、我のものにできよう。
「そうか」
白峰とて、男。
黒龍の中にある少女への情愛は見抜けぬものではない。
―そうか― . . . 本文を読む
洞の祠 ―黒龍の抄―」
祠の中に敷き詰められている御影石の中央は湧き水がたまり、池の様相を呈している。池の中央に一段高い御影石の台座があった。きのえは暗い祠に瞳を馴染ませ、台座に目を凝らした。
何かがいる。誰かがいる
見えた事を確かめる為にきのえは池に足を踏み入れた。池の底は浅くなだらかに台座のある中央に降っていた。
中央の台座に手をつくと、えいっと池の底をけり台座によじ登った。御影石の平 . . . 本文を読む
「ああ・・いやじゃあ」祠の黒龍のところにきのえがやってくると途端に溜息を漏らす。「どうしたという?」「婆さまがうるさいに」「どう?」うるさいという?「藤太がところによめにいけというんじゃ」「藤太か?」黒龍はすぐさまに藤太の人柄を読んだ。「よいではないか?」「よいものか」「良い男じゃ。何よりも優しい男じゃ」「優しいがよいか?優しいがよいならおまえの方がたんとやさしいに」「わしは」「やさしいに・・・」 . . . 本文を読む
弥生の花見月を映す琵琶の海は静かに夜をのみこんでゆく。祠の中に湿った空気が流れ込むのは来訪の印である。直垂を濡らしてやってきたのは白峰だった。「白か?」「ああ」黒。そうだと冷たい微笑が口元に浮かぶと男ながらも惚れ惚れする美しさに背筋が張り詰める。「なんだ」「女子にうつつをぬかしておるらしいの?」「おなご?」「かようてきておるらしいの?」ここにかようというほどに姿を現すのはきのえだけである。だが、あ . . . 本文を読む
少女が白峰にくれたのは一瞥だけである。この白峰の麗しさに目も留めず、全ての者がみせる、はっと息をのむ白峰の眉目への賛美がない。黒龍の側ににじり寄ると、客人の目をはばかりもせず、寝転がる黒龍に背をよせた。その所作にけれんみもない。黒龍もいつもがそうであるがごとくのようにじっと少女の背を支える。その姿に男と女の痴話がない。雛鳥を羽の下に暖めるようである。「名前をなんという」物憂げに少女は白峰を見詰返し . . . 本文を読む
「水じゃろう?蛙?たがめ?鮒?鯉?山魚?山椒魚?蛍、かわにな?鮎?亀?」あてずっぽうに並びたて始めたきのえにくびをふり「どれもちがう」白峰はきのえのひとみの奥に住む女を刺し貫くように瞳を覗き込んだ。「あ」きのえを見る白峰の瞳の底に異様な妖しさがある。『まるで、蛙をにらむ蛇のようじゃ』ぞっとする思いを抱き込んだきのえがきがついた。「へ、蛇か?」「よう・・・わかったの」きのえの逆撫でされた思いにきがつ . . . 本文を読む
それから時はたつ。
相変わらず、きのえは黒龍に背をもたせかけている。柔らかな後れ毛が黒龍の目に映る。かぐわしい少女の香にふと黒龍は瞳をとじてしまいそうである。「あいかわらずだの」ぬっと現われる白峰もいつもの来客を通り越し二人の友人のごとくである。黒龍の胸にはぐくまれてゆくきのえへの情愛を見ぬふりをして、きのえと黒龍の間に立ち入る隙を作ってきた白峰である。「白峰。することがないかのようじゃの?」黒 . . . 本文を読む
明日を過ぎれば、どのみち、黒との争いがはじまろう。宣託の結果も同じ。きっと、諍いはさけられぬ。どの道同じ。宣託との結果と違う事といえば、間違いなくきのえを手に入れたあとに争いは始まる。それだけの違いだった。だが、そのことこそ、この二年、きのえをまちこした白峰の執念の結実である。明日からは友でなくなる、いや、今、この時から決別ははじまり、きのえを選び取った白峰でしかなくなった。
やってきた娘はおず . . . 本文を読む
村中は大騒ぎである。昨日の夕刻に姿を見たきり勝源のところの娘が夜更けても帰って来ない。探し回る勝源の顔色が蒼白になっているのをみると、村人も「藤太がところへいったのでないか」と、からかい半分では勝源を安心させる事が出来ないわけがあると悟る。「いやだといってはいたが・・・」もう七日もない祝言の日を前にきのえが姿をくらますとなると、やはり理由はそれしか思いつけない。ぼそりと呟いた勝源の不安であるが「そ . . . 本文を読む
「いやじゃ・・・」なんど懇願しても白峰に穿たれた物から、離れえない。「きのえ・・・無駄じゃ。蛇の物は果てるまで離れぬ」いつまで続くか判らぬ蹂躙がきのえを苛み、悲痛な泣き声が喉を虚しく通り過ぎてゆく。「父さ・・まが案じて・・おる。帰して・・・くれや」「心配すな。勝源には、知らせをやる」きのえの一計はあっさりと握り潰される。白峰という神格の面倒さがここにもある。わざにでむかなくとも、勝減の夢枕に立つか . . . 本文を読む
布団の上に端坐したまま、勝源の一夜が明けた。夜が白む頃まで、身体を布団に包ませたまま、きのえの事を考えていた。きのえは藤太の所に行ったに違いないという作三右門の言葉を信じようと努めるのだが、どうしても、腑に落ちない。言いたい事をはっきり言わずに置かぬ性分のきのえである。親の目を盗んで藤太と深い仲になっていたとしても、すでに許された仲であれば、むしろ堂々と「いやでもこうでも、藤太の所に行くしかない自 . . . 本文を読む
それだけでない。まだ・・・ある。『藤太・・わしが、お前に託したかった娘はもう・・』どう、つげればいいのだろうか。村長同士の寄り合いで教えられた男は、きのえの婿に相応しいと推し進められたとおり勝源の目にかなった。きのえよりむしろ、勝源が気に入ったといっていい。男親がたいそうきにいるような男だから、まちがいがないとおもっていた。だから、いくら、きのえがなんといっても、添うてみれば変わると信じていた。三 . . . 本文を読む
「なんということを・・・」洞の祠に現われた勝源の言葉で黒龍はきのえに何がおきたかを理解した。と、同時に黒龍の心に湧いた物をそのまま言葉にするとこうなる。「藤太にやるなら、諦めもしよう。このまま白峰なぞに渡すため己が心をふさぎこんだのではないわ」確かにきのえを求むる心がある。それは事実である。だが、それもきのえを人としていかせしめたいと思ったゆえふさぎこんでいた。それを良い事に・・・。「白峰、よくも . . . 本文を読む
「ひとつだけ、ききたい。きのえの先を読んだ時、何故あの娘がわしの女雛になるとでた?」「なに?」女雛。つまり妻という。黙り込んだ八代神はうでをくんだ。黒龍が嘘を言うはずがない。だが、それならば、なおさら・・「それを知って何故素直に・・」きのえとの運命を享受しようとしなかった?「人だぞ。人の子だ。許しては成らない結びつきではないか?」「おまえ・・・」馬鹿だといおうと思った。天は地に住むものを天空に住む . . . 本文を読む
勝源の夜は悲しい。藤太にどう告げればいい。考えては、軒を出るがやはり、藤太のところに行くに行けない。ぼんやり、外を眺めてみては、考え直そうと家にはいり、やはり、どうにもならぬと外に出て藤太の所へ行くしかないと軒下で立ちすくんでしまう。其の勝源が眼にしたものは正に異様な光景としか言いようがない。黒い闇の中にもっと黒い塊が蠢いている。「?・・!」其の場所はしずが岳にまちがいがない。勝源が見たものはしず . . . 本文を読む