小枝は、目が見えない。七つの年に母親の菊と一緒に高熱を発しった後に突然、目が見えなくなった。
小枝の目が見えなくなったことより、幸太に、小枝にもっと大きな不幸がおとずれていた。
小枝は視力をうしなったが、幸太の女房小枝の母親である菊は病の末に短い生涯を閉じたのである。
幸太は炭焼きで生計をたてていたから、住まいも 炭焼き小屋の横に作っていた。
ここに菊を嫁に貰い、翌年には、 . . . 本文を読む
それから、十年がすぎた。
幸太は小枝が盲目になったことを、いっさい、口に出そうとしなかった。
炭焼き小屋に訪れる人間はいない。五,六日おきに幸太が問屋に出来上がった炭を運びに町にいくときだけが、唯一、小枝以外の人間と関わるだけである。
幸太さえ黙っていれば、小枝の失明は明るみに出る事はなかった。
問屋の前に荷車をおき、いつものように幸太は炭を店の中の角につみあげた。
よってくる番頭はにこ . . . 本文を読む
一方、小枝である。
幸太は、ここ、三,四年前から、町へでるとき、小枝にくどいほど念を押す。
いいか、小屋から出るんじゃないぞ。しんばり棒をかって、俺がけえってくるまで、外にでちゃいけない。
幸太が心配するわけはわかる。山家のくらしといえど、山の中に人が来ないわけではない。
山中を渡り歩くマタギがとくに不安である。
幾日も山を渡り歩いたマタギがひょっくり、若い女子をみつけたら・・・。
流 . . . 本文を読む
五歩歩いて右に向きをかえて・・・。
角ばった小枝の動きを見つめていた男は、やっと、気がついた。「おまえ?目がみえないのか?」
突然の声に小枝はやっと、誰かが傍に来ていた事に気がついた。
目が見えなくなってからは音や匂い、気配にはことさら敏感に成った小枝であるのに、男に声をかけられるまで男の存在に気がつかなかった。
それは、気配を隠して獲物に忍び寄るマタギだから出来た事だろう。
小枝は小屋 . . . 本文を読む
「うまれたときからの、めしいか?」男は小枝の動作から感じた事をたずねた。
突っ立ったままの小枝のおももちは、複雑である。視力をうしなうまでに、二,三度幸太の荷車に乗り、町についていったこともある。
問屋の人間にいくつだと訊ねられ名前を聞かれた。
それ以来小枝が幸太以外の人間と口を利いたことがない。
十年以上、幸太以外の人間に触れたことの無い小枝にはおそろしいはずの男の存在は一方で好奇であっ . . . 本文を読む
男の腕の中にとらまえた生き物はたとえて、言えば傷をおった小鹿のようなものであった。
うちふるえる女の息はとまどいと惧れをみせながら、文治にすがるしかない。
手負いの小鹿はふるえながら、手を差し伸べる人間に身を任せる。
観念したといえる。すくわれたいという。
自然は、一瞬のうちに命の駆け引きをする。
いちか、ばちか。身をゆだねることしか、活路が無いと悟ると小鹿は文治の手の中にすべりこむ。
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男の気配が嘘のように消えた。
立ち尽くしていた小枝の足は力を放出し、身体を貫いた感覚が小枝を地面に立たせていることをゆるさなかった。
赤子のように這い蹲り小枝は家の中に入った。
かまちに腰をかけ、板の間にあがろうとするのもようようであるが、小枝の思いは時を止め先の甘い余韻を追う。
ぬめる男の舌はねばりこく、小枝の口中をさまよい胸の先をつまみあげられた。その心地は、小枝がいままで味わった事の . . . 本文を読む
幸太が帰ってくるまでの半時。小枝の夢想は文治に結ばれる。
幸せに色があるとすれば、小枝の今は、桜の花びらのように、薄い桃の色をしているのかもしれない。
それをあかしだてるように、小枝のほほはうっすらと色を染め炭俵を編む手がふととまる。
「おとっつあん・・・。小枝は・・・」おとっつあんを裏切っているのかもしれない。「だけど・・・。小枝もわかってる」文治になにをか、負わそうというわけではない。文 . . . 本文を読む
幸太は荷車をひさしのしたにかたせると、家の中に入ってくる。
小枝はなにごともなかったように、炭俵をあみつづけながら、「おとっつあん。おかえり」と、声をかける。
「ああ。そうだ。小枝」幸太は懐から小さな巾着袋をひっぱりだし、小枝をよぶ。
「今日は、みやげがあるんだ」幸太の声のするほうに首をねじまげて、小枝は応える。「あら?なんだろ?」小枝の手に巾着袋をにぎらせておきながら、幸太は言葉に詰まる。 . . . 本文を読む
小枝の朝は早い。起き上がると小枝はまず手水鉢にむかい、顔を洗い口をゆすぐ。
それから、畑にいって、伸び上がってきた大根菜を間引く。手探りで積んだ葉を触り、そっと、ひきぬく。それで、朝の采をつくる。青い葉の匂いは小枝の手に染み付き、小枝はそっと、指先をすりあわせてみる。
そうだ。尾根の向こうから文治が小枝を見ているかもしれない。小枝は間引いた大根菜をもつと急いで家に入る。くどの水場に大根菜をおく . . . 本文を読む
文治はマタギである。
マタギが獲物を狩るときは、まず、めどうとする獲物のすまう地形をつぶさに把握する事から始める。そののちに獲物の行動をじっくりと量りこむ。
あわてて、獲物を狩りだそうとはやる気持のままに動けば獲物を取り逃がし行方をうしなう事もある。
一度、マタギの難を逃れた獣は嫌に成る程臆病で、敏感になり、マタギの気配を感で知るようになる。殺気を気取りだした獲物を追い込むことほど危険な事は . . . 本文を読む
山の斜面に大きな岩がせり出し、其の後ろに祠がある。文治はこの土地での仮住まいをこの祠に決めると祠の奥に山の神への供物をささげるために土を盛り、平たくならすと、そこに白米をいれた小さな杯と、竹筒に入れたお神酒をそなえおいた。
この地での狩猟が実りあるものであること、狩りの無事を祈願し、山の神の聖域に入り込み、山の神の物である獣を頂戴する許しを請うた。
文治は其のまもなしに、小枝という女子に出会う . . . 本文を読む
幸太のくどいほどの念押しに、小枝は素直に「はい」と、応えると、幸太のいいつけどおり、小屋の中に入って、しんばり棒をかった。
俵に詰めた炭を問屋に持ってゆく幸太は己の留守の間の小枝が心配でならない。「むこうの尾根に、煙があがっていた。マタギがはいりこんでいるにちがいない」だから、小枝は外にでちゃいけないと、出掛ける寸前まで小枝にいう。
男親の勘というものは、男の生態を解したうえで、わきあがるもの . . . 本文を読む
立ち尽くす小枝の瞳に映るものを小枝には、認識できない。
ただ、光の温かさが変わった。
小枝に差し込む光をふさぐ何かが影を作ったに、違いない。
「文治さ・・・ん?」
小枝は、小声でそっと、たしかめてみた。雲の流れが日の光をさしとめただけなのかもしれない。
なのに、小枝は文治ではないかと、思うだけで、鼓動が大きくなる。
はたして・・・。「よう・・・わかったの」文治の声だった。
女が文治の . . . 本文を読む
祠の前に小枝をたたせると、文治は入り口を覆った木々を取り除ける。「入り口は狭いがとおりぬけたら、中は人が立って歩ける。頭の上の岩肌がきれたら、もう、たってもだいじょうぶだ」祠の中に小枝をいれこめおえると、文治はもう一度木々を引っ張り、入り口を覆う。別段、かくれるためではない。熊や猪が直ぐに入ってこないように用心のためである。
小枝が祠の中にたちつくすと、わずかな、煙の匂いを感じる。「火をいこらせ . . . 本文を読む