『写真週報』昭和13年2月13日創刊号より
メインテキスト:近衞文麿『最後の御前会議 戦後欧米見聞録 - 近衛文麿手記集成』(中公文庫平成27年)
1921年11月から、翌2月まで続いたワシントン会議は、パリ講和会議(その結果作成され批准されたのがヴェルサイユ条約、1919)、国際連盟の創設(1920)、に次いで、主に東アジア方面に関する世界秩序を構築しようとする試みだった。主導したのは第一次世界大戦で強力な存在感を示した新大国米国、秩序に入れるべき対象として強く意識されていたのは、明治43年(1910)の韓国併合以来大陸への足掛かりを築いていた新たな帝国日本だった。
ここで決まった条約は三つ。
①海軍軍縮条約。建造中の主力艦(戦艦など)全部と現有艦の一部を廃棄し、米英日の海軍軍事力比率を5:5:3に定める。これを基準にして各国の保有量を決める。
②四カ国条約。英米仏日の四国で、太平洋東岸の諸島の権益保全を定めた協約。この本当の狙いは、この年に期限を迎えた日英同盟の解消だったのではないかとも考えられる。それに代わるものとしては、この条約は、締結国に脅威が迫った場合にはお互いに意見の交換を行うなどだけ定めた「協議条約」であり、軍事同盟の色彩は払拭されていた。
③九ヵ国条約。正式名称は「支那ニ関スル九カ国条約」。すべての会議参加国(英米仏伊にオランダ、ポルトガル、ベルギー、それに中華民国、日本)が締結した、チャイナに関する初めての包括的な国際条約である。
このうち、いわば総論に当る第一条の四項目全文を以下に掲げる。
(1) 支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2) 支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3) 支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4) 友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること
(1)と(2)は、チャイナの主権を尊重し、かつ主権が実のあるものになるための安定した政府ができるように援助する、としたもの。(3)は本シリーズの前回述べた門戸開放・機会均等政策で、締約国国民がチャイナの領土でどんな商売をしようと自由、(4)はその邪魔をしない、ということだが、「支那の情勢」を利用せず、「友好国の安寧を害する行動は是認しない」と謳っている。これは、日本では、死活的な権益があると感じられていた満州の地をめぐって、チャイナ内部で激しい抗日運動があったが、それに乗じたり、まして味方はしない、ということだと受け取られていた。
その反面で、日本が大陸でこれ以上勢力を伸ばすことは、中華民国を含めた各国の意思によって、かなり明確に禁じられた。日本はそれを承認したのである。
二つを合わせると、チャイナに権益を持つ欧米列強は、日本に向かって、「ここまでにしろよ。そしたら、これまでのことは認めてやるよ」と言ったことになる。よくある、双方が他方の条件となり合う妥協案だから、一方が守られなかったらもう一方を守る要もなくなる。この後のチャイナをめぐる角逐は、言論としては、どちらの側が条件を守らなかったのか、をめぐって展開された。
一方、現実の取引の生々しさを和らげるのが①と②で、チャイナを助けようという人道主義の看板になった。これらを総合して、「ワシントン体制」と呼ぶ。大日本帝国は、これに反した、ということで国際社会で孤立し、大東亜戦争の破局を迎えた、と言われている。
上とは別の歴史観を建てようとする動きもかなり昔からあって、日本の「歴史修正主義」だと呼ばれることがある。私はそちらに近い立場ではあるが、今まで何度か述べたが、なんでもかんでも日本が正しい、というのは、どうも……と感じる。
そもそも、各国の利害と面子がぶつかり合ったあれだけの大戦争について、「よい・悪い」が簡単に割り切れるはずはない。すべてを曇りなく見る、ということは神でない限り不可能ではあるけれど、複数の利害と面子のぶつかり合う様相を一連のドラマとして眺めることはできそうな気がするし、そのほうが面白いのではないだろうか。本シリーズはそのような、ささやかな試みです。
ワシントン体制には一見して問題がある。当事国にとっては、あまりにも自明なので、敢えて言挙げする気にもなれなかったのではないかと思える問題が。
第一に、チャイナの国家主権を尊重し、機会を与える、と言っても、そのために積極的に援助しようとは言っていない。九ヵ国のうちのどれかが、それをやろうとすれば「抜け駆け」になる。かの地に恩を売ることで、余分な権益を得ようとしているのだとみなされ、叩かれるだろう。それが「機会均等」の裏の意味なのである。
しかし、清に代ってチャイナの政権を担うはずの国民党は、あまりに弱体であった。初代大統領袁世凱が亡くなると(1916年)、各地の武装集団、いわゆる軍閥が乱立して、一種の戦国時代となる。名実ともに正統と言える政府が存在しないのだから、正常な外交もない。そんな中で日本は、北方の段祺瑞や張作霖など、いわゆる北洋軍閥の後ろ盾となり、彼らの勢力を伸長することで、利権を確保・拡大しようとした。他の国も、似たような方策はやっていた。
第二。チャイナに隣接する大国ロシアは、会議には全く参加していないし、条約上言及もされていない。当時の情勢では当り前のことであった。
1917年にロマノフ王朝が崩壊、旧体制支援のため派遣されたチェコ軍がロシア国内に取り残された。これを救援するという名目で英米仏伊日にカナダと中華民国を加えた七カ国が共同出兵。本当の目的は、できればボルシェヴィキ政権を倒し、共産主義革命が飛び火するのを防ぐことにあった。この目論見は失敗したが、その後も日本は単独で、ワシントン会議の間も兵を留め、撤兵は翌年のことになった。ソビエト社会主義共和国連邦がナバロ条約によってドイツに承認され、正式に発足したのは1922年12月のことになる。
それよりより先、世界の共産化を目指す第三インターナショナルことコミンテルンは、ボルシェヴィキがソビエトの権力を掌握した1919年3月に結成されている。その支部として、チャイナ共産党が結成されたのは1921年、日本共産党は22年。以後、共産主義は、マルクス/エンゲルスのいわゆる妖怪(「共産党宣言」)として、ヨーロッパのみならずアジアをも徘徊し、歴史の原動力の一つとして働いた。これもまたワシントン体制の埒外にあったものだ。
より根本的な問題があった。ワシントン体制は所詮は欧米のアジア支配を追認するものではないか、という拭い難い疑問である。いや、疑問というのもマヌケな話であろう。英米にしろ、他のどの国にしろ、自分の不利益になることをわざわざ決めるなんてことを、期待できるはずはないのだから。
近衛文麿は大正7年(1918年)、第一次世界大戦終結直前に、エッセイ「英米本位の平和主義を排す」を雑誌『日本及日本人』に発表している。
既に国際連盟設立の話は出ていたし、戦後の世界がどのようになるかは、この段階ではしかるべき地位の人々には容易に予見できることだったのだろう。世界の中心は英米、中心原理はウィルソン大統領やロイド・ジョージ英首相が唱えていた国際協力=平和主義になる、と。
西のヴェルサイユ条約と、東のワシントン三条約で、その具現化が図られた、というわけだが、そもそも原理の部分に大きな欺瞞がある、と近衛は指摘する。「英米の平和主義は現状維持を便利とするものの唱うることなかれ主義にして、何ら正義人道主義と関係なきもの」だと。
吾人は黄金をもってする侵略、富力を以てする征服あるを知らざるべからず。すなわち巨大なる資本と豊富なる天然資源を独占し、刃に血塗らずして他国々民の自由なる発展を抑圧し、以て自ら利せんとする経済的帝国主義は武力的帝国主義否認と同一の精神よりして当然否認せらるるべきものなり。
他国を武力で支配しようとする帝国主義とは別に、経済で支配するやり方もあり、同じぐらい悪しきものだ、と言う。これは現在の世界でも普通に見られるやり口である。このとき、時代の覇者であった英米は、後者の方向に舵を切ろうとしたのだが、舵取りにいったんは失敗する。
だいたい、前に述べたように、英米仏にオランダなど、第一次世界大戦の勝者である国は、旧来の植民地を手放そうとはしなかった。そこには、門戸解放も機会均等も、それ以前にウィルソンが唱えてヴェルサイユ条約に入った民族自決も、全然適用されなかった。
近衛も起草に関わった国際連盟人種差別撤廃条項も葬り去られた。有色人種は劣等民族で、国を治めるなんてできない。白人種が指導してやらねば、という優越意識は、公に口に出されはしなくても、半ば常識であり続けた。この時代の、平和、即ち安定とは、このような状態を続けること他ならない。
近衛は、「(英米が)国際連盟軍備制限と言うごとき自己に好都合なる現状維持の旗織を立てて世界に君臨」すれば、「我国もまた自己生存の必要上戦前のドイツのごとくに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らん」と物騒なことも言っているが、やがて同じように感じ、実行する国が他にも出てきたのである。
これを書いた時の近衛は若干二十七歳。天皇家に最も近い家柄に生まれ、元老の西園寺公望からはどうやら後継者として嘱望されていた。そのような恵まれた立場を差し引いてもなお、時局を見る目に関しては、慧眼であったと言える。あくまで、観察者・評論家としては。
翌年その西園寺からパリ講和会議代表団への随行が許された。「戦後欧米見聞録」はその時の記録で、実際に目にする西洋文明の偉容に感動する若い素直な心はよく伝わってくるが、白人優位主義への疑惑はこの機会により深まったようである。「(パリ講話会議の)所感第一。講和会議地としてのパリにおいてまず第一に感ずることは力の支配という鉄則の今もなお儼然としてその存在を保ちつつあることこれなり」。力による支配から金による支配への、形式上の進化(?)も、まだなかったのである。
当時の東南アジアの西洋支配状況を具体的に記す。19世紀以来、タイを除いてすべて欧米列強の植民地または保護国(外交権など国家主権の一部を他国に奪われている)になっていた。大東亜戦争以前の状況を宗主国(支配した側)別にまとめると。
イギリス……インド、ビルマ(現ミャンマー。インド帝国の一部とされた)、マレーシア(シンガポールと北ボルネオを含む)。
オランダ……インドネシア、ボルネオ南東部。略して、蘭印。
フランス……ベトナム、ラオス、カンボジア、この三国を合わせて仏領インドシナ、略して、仏印。
アメリカ……フィリピン。
日本は直接の侵略はずっと免れてきたわけだが、大正13年(1924)に排日移民法がアメリカで成立するなどすると、あらためて、白人支配の埒外にいるわけではない、と実感されるようになった。アジアの独立は、アジア人の手によって成し遂げられなくてはならない。西洋人の手の内にある間は、国際協調も民族自決も自分たちとは全く関係ないものであり続けるだろう。
ここで登場するのが、アジア主義、あるいは大アジア主義。これを標榜する団体は我が国では明治13年(1880)設立の興亜会にまで遡る。それはまずチャイナ・朝鮮・日本の産業と文化交流を推進するものとしてあった。
明治31年(1898)、この興亜会に同文会、東亜会などが合併して、東亜同文会が発足、文麿の父で貴族院議長を務めたこともある近衛篤麿が会長に就任すると、彼は「亜細亜のモンロー主義」を唱えた。
アメリカのモンロー主義と言えば、自給自足で、他国への不干渉の理念を思い浮かべるのが普通で、このため米国は自分が設立を提唱した国際連盟に参加しなかったほどだが、むしろキモは、自国及び自国の勢力圏への干渉を排除するところにある。具体的には、南北アメリカにはヨーロッパは決してちょっかいを出すな、そのような動きがあれば絶対に許さない、と宣言したものだった。
これをアジアに応用するとなれば、この地から今現にある西欧各国の勢力を駆逐することが先決、という、より攻撃的な話になるのが必然であった。ただし、近衛父子共々、そこまでちゃんと考えたかは疑問ではある。
一方、東亜同文会の活動としては、元東亜会の宮崎滔天や内田良平たちが、日本に逃れてきた孫文などチャイナの革命家を支援し、自らも大陸へ行って革命運動に携わったことが最もよく知られている。革命の直接の対手は清朝政府でも、理想として、自国の完全独立はあった。1840年の阿片戦争からずっと、西洋に蹂躙されてきたチャイナ人としては、当然すぎる話である。
孫文は大正13年(1924)11月、最後の日本訪問を行い、神戸で講演した。その「大アジア主義」は、『大阪毎日新聞』に筆記録が掲載されている。ここで主張されていることは大別して二つ。
第一に、日本が不平等条約改正に成功し、さらに日露戦争に勝利したことは、全アジアの人民に大きな勇気と、民族としての自覚をを与えたこと。この言葉には日本へのヨイショもあるだろうが、この頃は実際多くのアジア人が共通して抱いていた感情ではあったろう。黄色人種が白人種と互角以上に戦うなんぞということは、誰の記憶にもなかったのだから。
第二に、西洋は力が優先する文化・文明であるのに対して、東洋は道義を重んじる、などと言われている。その後大東亜戦争終了まではたびたび、今でも時々は、この種の「西洋の覇道対東洋の王道」とかいう見取り図は目にする。
歴史を遡れば、これは納得し難くなる。モンゴル帝国もオスマン帝国も東洋だろう(孫文はこの講演で、日本とトルコは、アジア東西の、「最も信頼すべき番兵である」と言っている)し、その他、主に漢民族によるチャイナの歴代王朝も、侵略や残虐行為の点で西洋におさおさひけをとるとは思えない。19世紀以後は向こうにやられっぱなしではあっても、それは要するに弱かったからで、こっちが道徳的に優れていた証拠にはならない。
と言うなら、逆にこちらが武力をもって西洋の勢力を駆逐しようと、何も悪くはないことになる。言うまでもなく、できればの話だけれど。
ところで、『孫文革命文集』(岩波文庫)でこの講演録を読むと、最後に、『大阪毎日新聞』にはない末尾が加わっていることに気づく。これは、記事から欠落しているのではなく、講演中にはなくて、孫文が帰国してから後に書き加えたものらしい。それだけに、非常に重要な内容になっている。
あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れているのと同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。
この後の日本は、王道を歩むつもりで覇道に陥ってしまったのか、それとも最初から覇道しか念頭になかったのか。さらにまた、「東洋の王道」なるものが、実際にはこの世に出現したことのない、「絵に描いた餅」だったらどうだろうか。軽々に言うことはできない、各様相を、慎重に見極めていくべきだろう。
近衛文麿は昭和11年(1936)、父の跡を襲って東亜同文会の五代目会長になったが、もちろんそんなことよりずっと重大なのは、翌12年に、政府・軍部を含めたほぼ全国民の輿望を担って総理大臣となり、満州事変(昭和6年)から盧溝橋事件(12年)を経て日支事変の泥沼に陥ったチャイナ問題の処理に当ったことのほうである。
昭和14年まで足かけ3年続いた(実際は1年と2ヶ月にも満たない)いわゆる第一次近衛内閣で、彼は三度声明を出している。このうち最初の、13年1月11日付け「支那事変処理根本方針」が、「帝國政府は爾後國民政府を對手とせず」の宣言で有名だが、むしろ同年11月3日に出た「東亜新秩序建設に関する声明」のほうがより重要ではないかと思える。第一次では「元より帝國が支那の領土及主權竝に在支列國の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし」と、一応ワシントン体制の枠内に留まる姿勢はみせていたのに、第二次では「東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」を唱え、即ち、旧秩序=ワシントン体制からは離脱する、と明言しているからだ。
この新秩序の建設は日滿支三國相携へ、政治、經濟、文化等各般に亘り互助連環の關係を樹立するを以て根幹とし、東亞に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、經濟結合の實現を期するにあり。是れ實に東亞を安定し、世界の進運に寄與する所以なり。
この時蒋介石を主席とする国民党は首都南京を捨てて重慶に移動していた(この後南京に入って占領した日本軍がやったと言われているのが、現在まで歴史論争が続くいわゆる南京大虐殺)。その国民党については、「旣に地方の一政權に過ぎ」ないが、「抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし」、しかし、「國民政府と雖も從來の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の實を擧げ、新秩序の建設に來り參ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」と言う。
そっちがあくまで対抗するなら殲滅するが、協力するなら受け入れてやろう、と言う。「対手とせず」の一部修正と言うにしては、あまりに上から目線で、こんな国に、誰が協力などするものか、と、私が蒋介石でも感じたと思う。
その後、親日派の汪兆銘を首班とする新たな国民党政府を樹立しようとする企図もあったが、その求心力は弱く、日本にしてもどれほど本気で後押ししているものか、曖昧なところがあった。第一次近衛声明とは裏腹に、この後大東亜戦争終了時まで、ずっと蒋介石を対手とせざるを得なかったのである。
全体的に見て、「東亜新秩序」、後の「大東亜共栄圏構想」は、あまりにも茫漠としていて、今も昔も、その具体的な姿がつかめないところが一番の問題であろう。白人支配から脱する、というところが最深部に横たわる感情で、それは当時のアジア全体の悲願と言ってもよかったろう。そのためにこの地の国々が連帯する、というところまでは同意できても、そこから一歩踏み出すために、何に基づき、どのような形で、連帯を形成するか、となると皆目わからなくなる。
かつての横山大観の「大アジア主義→Asia is one」は、インド以東を仏教文化圏としてまとめた最も壮大なものだった。東亜同文会の「同文」は、近衛篤麿の好んだスローガン「同文同種」からきている。これは同一文化同一種類の意味。つまり、「漢字文化圏」であるチャイナ・朝鮮・日本の共同性がアピールされている。この後の日本の文書に日支満(日本・支那・満州。朝鮮は日本の一部になっていて、満州は日本がチャイナから独立させていた)の連携と言われるようになったのも即ちこれだ。
なるほど、漢字に基づいた文字を使っている、という共通点はある。が、我々日本人は、どれくらい、これらの国々と、さらに は東南アジア諸国と、「同一のもの」を感じているのだろうか? むしろ、福沢諭吉「脱亜論」(明治18年)の、「一切萬事西洋近時の文明を採り獨り日本の舊套を脫したるのみならず亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し主義とする所は唯脫亞の二字に在るのみ」などの言葉のほうが、気持にはしっくり合うのではないか?
大東亜共栄圏構想は単なる侵略の口実だったとは思わない。アジアの新時代を拓く壮大な試みだという思いは、確かにあったろう。それが今日明瞭な形としては容易に見えてこないのは、「東京裁判史観」のせいだけではない。こちらが元々抱えていた問題も大きい。それは何か、次からはこれを中心に考えてみたい。
メインテキスト:近衞文麿『最後の御前会議 戦後欧米見聞録 - 近衛文麿手記集成』(中公文庫平成27年)
1921年11月から、翌2月まで続いたワシントン会議は、パリ講和会議(その結果作成され批准されたのがヴェルサイユ条約、1919)、国際連盟の創設(1920)、に次いで、主に東アジア方面に関する世界秩序を構築しようとする試みだった。主導したのは第一次世界大戦で強力な存在感を示した新大国米国、秩序に入れるべき対象として強く意識されていたのは、明治43年(1910)の韓国併合以来大陸への足掛かりを築いていた新たな帝国日本だった。
ここで決まった条約は三つ。
①海軍軍縮条約。建造中の主力艦(戦艦など)全部と現有艦の一部を廃棄し、米英日の海軍軍事力比率を5:5:3に定める。これを基準にして各国の保有量を決める。
②四カ国条約。英米仏日の四国で、太平洋東岸の諸島の権益保全を定めた協約。この本当の狙いは、この年に期限を迎えた日英同盟の解消だったのではないかとも考えられる。それに代わるものとしては、この条約は、締結国に脅威が迫った場合にはお互いに意見の交換を行うなどだけ定めた「協議条約」であり、軍事同盟の色彩は払拭されていた。
③九ヵ国条約。正式名称は「支那ニ関スル九カ国条約」。すべての会議参加国(英米仏伊にオランダ、ポルトガル、ベルギー、それに中華民国、日本)が締結した、チャイナに関する初めての包括的な国際条約である。
このうち、いわば総論に当る第一条の四項目全文を以下に掲げる。
(1) 支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2) 支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3) 支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4) 友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること
(1)と(2)は、チャイナの主権を尊重し、かつ主権が実のあるものになるための安定した政府ができるように援助する、としたもの。(3)は本シリーズの前回述べた門戸開放・機会均等政策で、締約国国民がチャイナの領土でどんな商売をしようと自由、(4)はその邪魔をしない、ということだが、「支那の情勢」を利用せず、「友好国の安寧を害する行動は是認しない」と謳っている。これは、日本では、死活的な権益があると感じられていた満州の地をめぐって、チャイナ内部で激しい抗日運動があったが、それに乗じたり、まして味方はしない、ということだと受け取られていた。
その反面で、日本が大陸でこれ以上勢力を伸ばすことは、中華民国を含めた各国の意思によって、かなり明確に禁じられた。日本はそれを承認したのである。
二つを合わせると、チャイナに権益を持つ欧米列強は、日本に向かって、「ここまでにしろよ。そしたら、これまでのことは認めてやるよ」と言ったことになる。よくある、双方が他方の条件となり合う妥協案だから、一方が守られなかったらもう一方を守る要もなくなる。この後のチャイナをめぐる角逐は、言論としては、どちらの側が条件を守らなかったのか、をめぐって展開された。
一方、現実の取引の生々しさを和らげるのが①と②で、チャイナを助けようという人道主義の看板になった。これらを総合して、「ワシントン体制」と呼ぶ。大日本帝国は、これに反した、ということで国際社会で孤立し、大東亜戦争の破局を迎えた、と言われている。
上とは別の歴史観を建てようとする動きもかなり昔からあって、日本の「歴史修正主義」だと呼ばれることがある。私はそちらに近い立場ではあるが、今まで何度か述べたが、なんでもかんでも日本が正しい、というのは、どうも……と感じる。
そもそも、各国の利害と面子がぶつかり合ったあれだけの大戦争について、「よい・悪い」が簡単に割り切れるはずはない。すべてを曇りなく見る、ということは神でない限り不可能ではあるけれど、複数の利害と面子のぶつかり合う様相を一連のドラマとして眺めることはできそうな気がするし、そのほうが面白いのではないだろうか。本シリーズはそのような、ささやかな試みです。
ワシントン体制には一見して問題がある。当事国にとっては、あまりにも自明なので、敢えて言挙げする気にもなれなかったのではないかと思える問題が。
第一に、チャイナの国家主権を尊重し、機会を与える、と言っても、そのために積極的に援助しようとは言っていない。九ヵ国のうちのどれかが、それをやろうとすれば「抜け駆け」になる。かの地に恩を売ることで、余分な権益を得ようとしているのだとみなされ、叩かれるだろう。それが「機会均等」の裏の意味なのである。
しかし、清に代ってチャイナの政権を担うはずの国民党は、あまりに弱体であった。初代大統領袁世凱が亡くなると(1916年)、各地の武装集団、いわゆる軍閥が乱立して、一種の戦国時代となる。名実ともに正統と言える政府が存在しないのだから、正常な外交もない。そんな中で日本は、北方の段祺瑞や張作霖など、いわゆる北洋軍閥の後ろ盾となり、彼らの勢力を伸長することで、利権を確保・拡大しようとした。他の国も、似たような方策はやっていた。
第二。チャイナに隣接する大国ロシアは、会議には全く参加していないし、条約上言及もされていない。当時の情勢では当り前のことであった。
1917年にロマノフ王朝が崩壊、旧体制支援のため派遣されたチェコ軍がロシア国内に取り残された。これを救援するという名目で英米仏伊日にカナダと中華民国を加えた七カ国が共同出兵。本当の目的は、できればボルシェヴィキ政権を倒し、共産主義革命が飛び火するのを防ぐことにあった。この目論見は失敗したが、その後も日本は単独で、ワシントン会議の間も兵を留め、撤兵は翌年のことになった。ソビエト社会主義共和国連邦がナバロ条約によってドイツに承認され、正式に発足したのは1922年12月のことになる。
それよりより先、世界の共産化を目指す第三インターナショナルことコミンテルンは、ボルシェヴィキがソビエトの権力を掌握した1919年3月に結成されている。その支部として、チャイナ共産党が結成されたのは1921年、日本共産党は22年。以後、共産主義は、マルクス/エンゲルスのいわゆる妖怪(「共産党宣言」)として、ヨーロッパのみならずアジアをも徘徊し、歴史の原動力の一つとして働いた。これもまたワシントン体制の埒外にあったものだ。
より根本的な問題があった。ワシントン体制は所詮は欧米のアジア支配を追認するものではないか、という拭い難い疑問である。いや、疑問というのもマヌケな話であろう。英米にしろ、他のどの国にしろ、自分の不利益になることをわざわざ決めるなんてことを、期待できるはずはないのだから。
近衛文麿は大正7年(1918年)、第一次世界大戦終結直前に、エッセイ「英米本位の平和主義を排す」を雑誌『日本及日本人』に発表している。
既に国際連盟設立の話は出ていたし、戦後の世界がどのようになるかは、この段階ではしかるべき地位の人々には容易に予見できることだったのだろう。世界の中心は英米、中心原理はウィルソン大統領やロイド・ジョージ英首相が唱えていた国際協力=平和主義になる、と。
西のヴェルサイユ条約と、東のワシントン三条約で、その具現化が図られた、というわけだが、そもそも原理の部分に大きな欺瞞がある、と近衛は指摘する。「英米の平和主義は現状維持を便利とするものの唱うることなかれ主義にして、何ら正義人道主義と関係なきもの」だと。
吾人は黄金をもってする侵略、富力を以てする征服あるを知らざるべからず。すなわち巨大なる資本と豊富なる天然資源を独占し、刃に血塗らずして他国々民の自由なる発展を抑圧し、以て自ら利せんとする経済的帝国主義は武力的帝国主義否認と同一の精神よりして当然否認せらるるべきものなり。
他国を武力で支配しようとする帝国主義とは別に、経済で支配するやり方もあり、同じぐらい悪しきものだ、と言う。これは現在の世界でも普通に見られるやり口である。このとき、時代の覇者であった英米は、後者の方向に舵を切ろうとしたのだが、舵取りにいったんは失敗する。
だいたい、前に述べたように、英米仏にオランダなど、第一次世界大戦の勝者である国は、旧来の植民地を手放そうとはしなかった。そこには、門戸解放も機会均等も、それ以前にウィルソンが唱えてヴェルサイユ条約に入った民族自決も、全然適用されなかった。
近衛も起草に関わった国際連盟人種差別撤廃条項も葬り去られた。有色人種は劣等民族で、国を治めるなんてできない。白人種が指導してやらねば、という優越意識は、公に口に出されはしなくても、半ば常識であり続けた。この時代の、平和、即ち安定とは、このような状態を続けること他ならない。
近衛は、「(英米が)国際連盟軍備制限と言うごとき自己に好都合なる現状維持の旗織を立てて世界に君臨」すれば、「我国もまた自己生存の必要上戦前のドイツのごとくに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らん」と物騒なことも言っているが、やがて同じように感じ、実行する国が他にも出てきたのである。
これを書いた時の近衛は若干二十七歳。天皇家に最も近い家柄に生まれ、元老の西園寺公望からはどうやら後継者として嘱望されていた。そのような恵まれた立場を差し引いてもなお、時局を見る目に関しては、慧眼であったと言える。あくまで、観察者・評論家としては。
翌年その西園寺からパリ講和会議代表団への随行が許された。「戦後欧米見聞録」はその時の記録で、実際に目にする西洋文明の偉容に感動する若い素直な心はよく伝わってくるが、白人優位主義への疑惑はこの機会により深まったようである。「(パリ講話会議の)所感第一。講和会議地としてのパリにおいてまず第一に感ずることは力の支配という鉄則の今もなお儼然としてその存在を保ちつつあることこれなり」。力による支配から金による支配への、形式上の進化(?)も、まだなかったのである。
当時の東南アジアの西洋支配状況を具体的に記す。19世紀以来、タイを除いてすべて欧米列強の植民地または保護国(外交権など国家主権の一部を他国に奪われている)になっていた。大東亜戦争以前の状況を宗主国(支配した側)別にまとめると。
イギリス……インド、ビルマ(現ミャンマー。インド帝国の一部とされた)、マレーシア(シンガポールと北ボルネオを含む)。
オランダ……インドネシア、ボルネオ南東部。略して、蘭印。
フランス……ベトナム、ラオス、カンボジア、この三国を合わせて仏領インドシナ、略して、仏印。
アメリカ……フィリピン。
日本は直接の侵略はずっと免れてきたわけだが、大正13年(1924)に排日移民法がアメリカで成立するなどすると、あらためて、白人支配の埒外にいるわけではない、と実感されるようになった。アジアの独立は、アジア人の手によって成し遂げられなくてはならない。西洋人の手の内にある間は、国際協調も民族自決も自分たちとは全く関係ないものであり続けるだろう。
ここで登場するのが、アジア主義、あるいは大アジア主義。これを標榜する団体は我が国では明治13年(1880)設立の興亜会にまで遡る。それはまずチャイナ・朝鮮・日本の産業と文化交流を推進するものとしてあった。
明治31年(1898)、この興亜会に同文会、東亜会などが合併して、東亜同文会が発足、文麿の父で貴族院議長を務めたこともある近衛篤麿が会長に就任すると、彼は「亜細亜のモンロー主義」を唱えた。
アメリカのモンロー主義と言えば、自給自足で、他国への不干渉の理念を思い浮かべるのが普通で、このため米国は自分が設立を提唱した国際連盟に参加しなかったほどだが、むしろキモは、自国及び自国の勢力圏への干渉を排除するところにある。具体的には、南北アメリカにはヨーロッパは決してちょっかいを出すな、そのような動きがあれば絶対に許さない、と宣言したものだった。
これをアジアに応用するとなれば、この地から今現にある西欧各国の勢力を駆逐することが先決、という、より攻撃的な話になるのが必然であった。ただし、近衛父子共々、そこまでちゃんと考えたかは疑問ではある。
一方、東亜同文会の活動としては、元東亜会の宮崎滔天や内田良平たちが、日本に逃れてきた孫文などチャイナの革命家を支援し、自らも大陸へ行って革命運動に携わったことが最もよく知られている。革命の直接の対手は清朝政府でも、理想として、自国の完全独立はあった。1840年の阿片戦争からずっと、西洋に蹂躙されてきたチャイナ人としては、当然すぎる話である。
孫文は大正13年(1924)11月、最後の日本訪問を行い、神戸で講演した。その「大アジア主義」は、『大阪毎日新聞』に筆記録が掲載されている。ここで主張されていることは大別して二つ。
第一に、日本が不平等条約改正に成功し、さらに日露戦争に勝利したことは、全アジアの人民に大きな勇気と、民族としての自覚をを与えたこと。この言葉には日本へのヨイショもあるだろうが、この頃は実際多くのアジア人が共通して抱いていた感情ではあったろう。黄色人種が白人種と互角以上に戦うなんぞということは、誰の記憶にもなかったのだから。
第二に、西洋は力が優先する文化・文明であるのに対して、東洋は道義を重んじる、などと言われている。その後大東亜戦争終了まではたびたび、今でも時々は、この種の「西洋の覇道対東洋の王道」とかいう見取り図は目にする。
歴史を遡れば、これは納得し難くなる。モンゴル帝国もオスマン帝国も東洋だろう(孫文はこの講演で、日本とトルコは、アジア東西の、「最も信頼すべき番兵である」と言っている)し、その他、主に漢民族によるチャイナの歴代王朝も、侵略や残虐行為の点で西洋におさおさひけをとるとは思えない。19世紀以後は向こうにやられっぱなしではあっても、それは要するに弱かったからで、こっちが道徳的に優れていた証拠にはならない。
と言うなら、逆にこちらが武力をもって西洋の勢力を駆逐しようと、何も悪くはないことになる。言うまでもなく、できればの話だけれど。
ところで、『孫文革命文集』(岩波文庫)でこの講演録を読むと、最後に、『大阪毎日新聞』にはない末尾が加わっていることに気づく。これは、記事から欠落しているのではなく、講演中にはなくて、孫文が帰国してから後に書き加えたものらしい。それだけに、非常に重要な内容になっている。
あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れているのと同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。
この後の日本は、王道を歩むつもりで覇道に陥ってしまったのか、それとも最初から覇道しか念頭になかったのか。さらにまた、「東洋の王道」なるものが、実際にはこの世に出現したことのない、「絵に描いた餅」だったらどうだろうか。軽々に言うことはできない、各様相を、慎重に見極めていくべきだろう。
近衛文麿は昭和11年(1936)、父の跡を襲って東亜同文会の五代目会長になったが、もちろんそんなことよりずっと重大なのは、翌12年に、政府・軍部を含めたほぼ全国民の輿望を担って総理大臣となり、満州事変(昭和6年)から盧溝橋事件(12年)を経て日支事変の泥沼に陥ったチャイナ問題の処理に当ったことのほうである。
昭和14年まで足かけ3年続いた(実際は1年と2ヶ月にも満たない)いわゆる第一次近衛内閣で、彼は三度声明を出している。このうち最初の、13年1月11日付け「支那事変処理根本方針」が、「帝國政府は爾後國民政府を對手とせず」の宣言で有名だが、むしろ同年11月3日に出た「東亜新秩序建設に関する声明」のほうがより重要ではないかと思える。第一次では「元より帝國が支那の領土及主權竝に在支列國の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし」と、一応ワシントン体制の枠内に留まる姿勢はみせていたのに、第二次では「東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」を唱え、即ち、旧秩序=ワシントン体制からは離脱する、と明言しているからだ。
この新秩序の建設は日滿支三國相携へ、政治、經濟、文化等各般に亘り互助連環の關係を樹立するを以て根幹とし、東亞に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、經濟結合の實現を期するにあり。是れ實に東亞を安定し、世界の進運に寄與する所以なり。
この時蒋介石を主席とする国民党は首都南京を捨てて重慶に移動していた(この後南京に入って占領した日本軍がやったと言われているのが、現在まで歴史論争が続くいわゆる南京大虐殺)。その国民党については、「旣に地方の一政權に過ぎ」ないが、「抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし」、しかし、「國民政府と雖も從來の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の實を擧げ、新秩序の建設に來り參ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」と言う。
そっちがあくまで対抗するなら殲滅するが、協力するなら受け入れてやろう、と言う。「対手とせず」の一部修正と言うにしては、あまりに上から目線で、こんな国に、誰が協力などするものか、と、私が蒋介石でも感じたと思う。
その後、親日派の汪兆銘を首班とする新たな国民党政府を樹立しようとする企図もあったが、その求心力は弱く、日本にしてもどれほど本気で後押ししているものか、曖昧なところがあった。第一次近衛声明とは裏腹に、この後大東亜戦争終了時まで、ずっと蒋介石を対手とせざるを得なかったのである。
全体的に見て、「東亜新秩序」、後の「大東亜共栄圏構想」は、あまりにも茫漠としていて、今も昔も、その具体的な姿がつかめないところが一番の問題であろう。白人支配から脱する、というところが最深部に横たわる感情で、それは当時のアジア全体の悲願と言ってもよかったろう。そのためにこの地の国々が連帯する、というところまでは同意できても、そこから一歩踏み出すために、何に基づき、どのような形で、連帯を形成するか、となると皆目わからなくなる。
かつての横山大観の「大アジア主義→Asia is one」は、インド以東を仏教文化圏としてまとめた最も壮大なものだった。東亜同文会の「同文」は、近衛篤麿の好んだスローガン「同文同種」からきている。これは同一文化同一種類の意味。つまり、「漢字文化圏」であるチャイナ・朝鮮・日本の共同性がアピールされている。この後の日本の文書に日支満(日本・支那・満州。朝鮮は日本の一部になっていて、満州は日本がチャイナから独立させていた)の連携と言われるようになったのも即ちこれだ。
なるほど、漢字に基づいた文字を使っている、という共通点はある。が、我々日本人は、どれくらい、これらの国々と、さらに は東南アジア諸国と、「同一のもの」を感じているのだろうか? むしろ、福沢諭吉「脱亜論」(明治18年)の、「一切萬事西洋近時の文明を採り獨り日本の舊套を脫したるのみならず亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し主義とする所は唯脫亞の二字に在るのみ」などの言葉のほうが、気持にはしっくり合うのではないか?
大東亜共栄圏構想は単なる侵略の口実だったとは思わない。アジアの新時代を拓く壮大な試みだという思いは、確かにあったろう。それが今日明瞭な形としては容易に見えてこないのは、「東京裁判史観」のせいだけではない。こちらが元々抱えていた問題も大きい。それは何か、次からはこれを中心に考えてみたい。
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