こういう話を聞いても、啓太はあまりピーンと来ない。会社や系列局のことより、身近な仕事の方がどうしても気になるからだ。しかし、テレビ報道の重要性がいっそう増してきたことだけは、草刈の能弁によって分かった感じがしたのである。
それから数日して、27日の火曜日が来た。その日は小雨が降るあいにくの天気だったが、啓太は弾むような気持ちでイタリアン・レストラン「T」へ向かった。午後1時前に店に着き待ち受けていると、やがて木内と白鳥が店に入ってきた。
「やあ、お久しぶりです。白鳥さんもお元気そうですね」
半年ぶりに会う彼女は、どこか穏やかで落ち着いた雰囲気に見える。この前は紺色のスーツ姿だったが、今日は明るいベージュ色の半袖姿だ。半年前は真冬だったが、今は暑い季節だからそうなって当然だ。
3人は挨拶を交わして席に着くと、軽い昼食と飲み物を注文した。啓太と木内がさっそく雑談を始める。この前と同じように、白鳥京子はもっぱら聞き役だ。啓太は彼女を意識しながら、最近の大学紛争や学生運動などの話を続けた。彼はこんなことしか話題にできない。
しかし、世の中が騒然としてきたせいか、2人とも無関心な素振りには見えない。思いのほか興味深く聞いているようだ。木内がいくつか質問してくるので、啓太は調子よく答えていた。やがて食事を取り、コーヒーや紅茶を飲んでいると、木内が少し改まった様子で話し出した。
「あのう・・・近く話そうと思っていたのですが、ちょうど良い機会なので聞いてください。私、山村邦男さんと婚約しました。年内に結婚する予定です」
「えっ、山村さんと・・・そうか、それはおめでとう!」
ある程度予期していたとはいえ、啓太は少し驚いた。
「それで、今の会社はどうするの? 続けないの?」
「ええ、9月一杯で退職することにします」
「そうすると、筑波の方へ行くということか・・・」
「ええ、山村さんと一緒に農作業をします。例の無農薬農業ですね、ほっほっほっほ」
こう言って、木内典子は恥ずかしそうに笑った。しばらく啓太は無言だったが、どこか安堵する自分を意識した。もう典子のことを思う必要はない。想うとすれば、目の前にいる白鳥京子の方だ!
「そうか、本当におめでとう。『女性の未来社』のことが少し残念だけど・・・でも、良かったね。お幸せに」
京子の方をうかがうと、彼女も穏やかな微笑を浮かべていた。きっと典子のことを祝福しているのだろう。啓太はそう言ってから、思いっきり話題を変えた。
「今年は“スチューデントパワー”が火を吹いた年なんですよ。いいですか、ベトナム反戦運動は世界中に広まっているし、フランスでも5月革命が起きド・ゴール政権は危機に瀕しました。
中国では文化大革命が荒れ狂い、つい最近ではチェコスロバキアで自由を求めるデモが繰り広げられています。ソ連はこれを軍事弾圧していますがね。だから日本でも、新左翼を中心に大学紛争が起きても何らおかしくない。今年はそういう年なんですよ」
「だからって、どういうことですの?」
啓太が得意になってしゃべるので、典子がまぜ返した。京子は少し当惑した顔付きで彼を見つめている。
「だから、今年は特に厄介で忙しいのです。ところで、白鳥さんは東京にお住まいですか?」
啓太がまた話題を変えて京子にいろいろ聞いた。彼女は東京・杉並の井荻(いおぎ)に住んでいるそうで、大学はOCYANOMIZU(お茶の水)女子大卒で、前にも言ったが、4歳年上の兄がASAHI新聞の社会部記者だという。
「そうですか、白鳥さんは優秀なんだな。将来は何を目指しているのですか? このまま出版社に勤めているとか・・・」
「いえ、先のことは分かりません。今はただ『女性の未来社』のことで精一杯です」
啓太の質問に京子は素直に答えたが、横から典子が口を挟んだ。
「京子さんは未来の“編集長”ですよ。こんなに積極的な人は他にいません。問題意識も強いし、目の付け所が違います。私よりずっと優秀なんですよ」
「典子さんがそう言うなんて、なにか怖いみたいだな。僕なんかとても敵(かな)わないか、はっはっはっはっは」
啓太が笑って答えると、京子も苦笑した。このあと、典子の婚約などについて話が弾んだせいか、1時間半ぐらいして店を後にすることになった。彼女たちは新橋に用があるといって立ち去ったが、啓太はしばらく会合の余韻を楽しんでいた。今度は京子にじかに電話をしようと思ったのである。
そんなある日、記者クラブで雑談していると、坂井則夫が啓太のアパート住まいに興味を持ったのか、急に変なことを言い出した。
「啓ちゃんはいいね、田端なら近いし便利だ。こちらは遠くて時間がかかってしょうがないよ。いっそのこと毎朝同じ時刻に家を出るというのはどうかな。そうすりゃ、みんな“平等”ということじゃないか」
「そうはいかないよ、出勤時刻は決まっているじゃないか。則ちゃんも近い方がいいと言うなら、アパートでも探せばいいさ。こっちはアパート代で、毎月5000円を払っているんだぜ。タダで近くにいるんじゃないよ」
坂井が言ったことに、啓太はすぐに反論した。それを聞いていて先輩たちは笑ったが、それから数日して、坂井が参考のために、啓太のアパートに泊まらせてくれと言ってきた。
「ああ、いいよ。狭い部屋だが、今は暑いから布団もそう要らないしね」
そう言って、啓太はこころよく応じた。彼と坂井は以前、沖縄旅行で同じ部屋に泊まったこともあり、なにかと融通がきく間柄だ。
そして9月に入ったある日、坂井が啓太の部屋に一泊し、共に警視庁クラブに出勤したのである。
「どう? アパート暮らしも悪くないだろう。良かったら則ちゃんも探したらいいじゃないか」
啓太はそう言ったが、坂井は特に返事をしなかった。彼はアパート暮らしにそれほど好感は持てなかったようだ。
それから暫くして、日本大学では経済学部のバリケード封鎖を解除するため出動した機動隊員の1人が、屋上から学生が落とした大きなコンクリート片を頭部に受けて死亡するという事件が起きた。これによって、日大紛争はいっそう苛烈な様相を呈してきたのである。
啓太と先輩の池永は毎日、夕方になると警視庁警備部の部屋を訪れた。
「明日の警備出動の予定はどうですか?」
担当の課長補佐に聞くと、彼はやんわりと2、3の大学の名前を教えてくれる。そこで池永と啓太は翌日の取材場所を決めるのだが、そういう日が連日続いた。
「まるで“御用聞き”みたいだな」
池永が少し自嘲気味に言うので、啓太は苦笑いした。この当時、大学紛争は都内で100校前後に増え、授業放棄のストライキや校舎のバリケード封鎖が相次いだ。新左翼の学生たちの行動はますます過激になり、毎日のように機動隊が出動して彼らと衝突したのだ。
ヘルメット姿の学生たちは鉄パイプや角材などを持ち、火炎ビンや石、コンクリート片を投げて抵抗する。一方、機動隊はジュラルミン製の楯や警棒、ネットなどで武装し、時を見て催涙ガス弾を打ち込んだりする。校舎の“支配権”をめぐって激しい攻防戦が繰り広げられた。
取材をする記者やカメラマンは必ずヘルメットをかぶり、催涙ガスの被害を少しでも和らげるために目薬をいつも持っていた。催涙ガスをかぶると、涙やくしゃみ、咳などが出る。目はもちろん痛くなるが、ガスをいつも浴びていると涙も枯渇して仕舞いには出なくなるほどだ。
こうした苛烈な仕事をしていると、どうしても安らぎや慰めを求めるようになる。記者クラブではよく花札の“こいこい”をやった。また、将棋盤を持ってきて回り将棋や“金コロ”というゲームもやった。金コロは駒の「金将」を逆さに立てる遊びで、これがなかなか難しい。縦や横にはすぐに立つが、逆さには滅多に立たないのだ。
啓太は記者クラブにいる間にほぼ完全にマージャンを覚えた。他局の記者らとやるのだが、もちろん“賭け事”である。警視庁の広報はこれを大目に見てくれた。(当時は女性記者が1人もいなかったので、男性天国のルーズと言おうか極めて開放的な記者クラブだった。)
ある時、啓太は役満の中でも最高級の“大三元”を達成したことがある。その時は思わず喜びのあまり「やった~!」と歓声を上げた。
「おいおい、あまり大きな声を出すなよ」
草刈キャップが見かねて、啓太に注意したほどだ。
こうして記者クラブ(警視庁ニュース記者会)の遊びごとには事欠かなかったが、泊まり勤務の時などは、民放テレビ4社の若者たちが部屋の大型テレビを見て楽しむなど、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。
やがて啓太は27歳になった。母の久乃が簡単なお祝いをするからと電話をかけてきたが、浦和に帰るヒマはないと言って彼は断わった。浦和へは“洗濯もの”を持って帰るだけだ。とにかく忙しかったのである。そうは言っても、啓太は白鳥京子のことが忘れられなかった。
9月下旬の金曜日、例の英会話レッスンの日が来た。外国語学院の塚本講師はFUJIテレビ見学に4人の女子生徒を連れて来たが、レッスンが始まる前に彼女らを啓太たちに紹介した。いずれも可愛い盛りの生徒さんだったが、啓太は京子のことが気になっていたのでほとんど関心を示さなかった。反対に、坂井は彼女らにけっこう惹かれたようだ。
「なかなか綺麗で可愛い子がそろっていたね。こんど塚本さんに話してみるかな」
坂井がこう話しかけてきたが、啓太は無言で返事をしなかった。
それから数日後の10月初旬に、彼は思い切って京子に電話をかけることにした。デートの場所は京子の都合の良い所で、時間にこだわらず食事でもお茶でも構わないではないか。
啓太はしばらく逡巡していたが、霞が関の公衆電話から『女性の未来社』に電話を入れた。すると、運良く京子が電話口に出たのである。彼は少しドギマギしたが、平静を装って率直に話しかけた。
「木内さんはもう退社したのでしょうか・・・」
木内典子を“出し”に使った感じだが、彼女は予定どおり9月末に退職していた。しばらく典子の話をしたあと、啓太は京子にデートを申し入れた。もちろん、場所や日時は彼女の都合に合わせるつもりだ。すると、京子は6日の日曜日が良いと答えた。
「場所はどうします? あなたの好きな所でいいですよ」
啓太がそう言うと彼女はしばらく考えていたが、やがて国鉄・御茶ノ水駅のすぐ近くにある喫茶店『S』を指定した。彼にはむろん異論がないので、6日の午後1時にそこでデートすることを決めたのである。
電話を切ったあと、啓太は嬉しくて仕方がなかった。彼は“記念”に何かを京子に贈りたいと思ったが、差し当たりこれといったものがない。高価なものはもちろん無理だし、だからと言って何も贈らないというのは・・・
すると、ふと昨年 坂井と沖縄旅行をした際に手に入れた“ケネディ・メダル”を思い出した。表にケネディ大統領の肖像をあしらったメダルだが、浦和の実家に大切にしまってある。啓太はこれだと思いついて、夜だったが急いで浦和に帰宅した。
「どうしたの? 急に帰って来たりして」
「いや、あした会社に届けなければならないものがあるんだ」
久乃がいぶかしそうに尋ねるので、啓太は適当に答えた。彼はケネデイ・メダルや見せかけの物などを持って、その晩、あたふたと田端のアパートに戻ったのである。
そして、6日の日曜日、啓太はアパートから直接 御茶ノ水方面へ向かった。時間があったので神保町の古本屋に寄ったり、近くのラーメン店で食事を済ませたあと、神田駿河台の明治大学界隈をぶらついた。
この明治大学も学費値上げの決定に端を発して、大規模な学園紛争が起きている最中だった。啓太も取材で2~3度来たことがあるが、三派全学連の重要な拠点であり学生の活動家も多い。彼は大学周辺の様子を見ながら、御茶ノ水駅の方へ歩いていった。
すると、喫茶店『S』はすぐに見つかった。午後1時前だったが、店内に入ると白鳥京子はすでに来ている。
「やあ、お待たせ。今日はよろしく」
啓太はドギマギしたが、あえて気安く挨拶すると京子の方も笑顔で彼を迎えた。彼女は明るい水色のツーピース姿で、仕事を離れリラックスした態度に見える。2人は打ち解けた感じで話し始めたが、啓太は相変わらず緊張感に縛られていた。
しかし、京子の方が落ち着いて和やかな雰囲気だったため、次第に彼女に慣らされて緊張が解けてきたのである。
「京子さんはこの辺をよく知っているんだね」
「ええ、高校の時から御茶ノ水はよく来ました。知っている店も何軒かありますよ」
「そうか、あとで散歩をしてもいいね」
そんな話をしているうちに、啓太はだんだん得意になって仕事関係の話題を口にした。
「この前、御茶ノ水を中心に“カルチエ・ラタン闘争”があったのには驚いたな。明治や中央大学の学生が積極的にリードしたようだが、あれは新しい闘争方式ですよ。これからまた、ああいう抗議行動が起きると思うな」
啓太が言ったカルチエ・ラタンとはフランスのパリにある地名で、5カ月ほど前にそこを中心に大規模な反政府抗議行動、ベトナム反戦運動が繰り広げられたのだ。過激派の学生はそれを見習って“神田カルチエ・ラタン闘争”を起こしたのである。
「ええ、あれにはびっくりしましたね。最後は機動隊に鎮圧されましたが、路上をバリケード封鎖するなんてこれまでになかったことでしょう。あとで聞きましたが、まるで“市街戦”のようだと地元の人は言っていました」
「京子さんもあとで取材したの?」
「ええ、神田界隈の取材の仕事が入ったんです」
共通の話題になったので、啓太はすっかり気分を良くした。話を聞いていると、京子は身近な生活のことから時事問題まで何でも取材するようだ。それが『女性の未来社』の編集方針なのだろう。
2人はなおも雑談に花を咲かせていたが、啓太が交際の記念にケネディ・メダルを贈りたいと言うと、京子はこころよく受け取ってくれた。
「ケネディ大統領を尊敬しているのですか?」
「うん、まあ・・・好きなんだな」
啓太が生返事をすると、京子はおかしそうに笑った。
2時間ほど喫茶店『S』にいたあと、2人は御茶ノ水周辺を散歩することになった。夜になれば京子をスナック・バーか居酒屋にでも誘うのだが、啓太はそれを諦め1時間近く彼女の行きたい所について行った。
そして、御茶ノ水駅で別れ際に彼は京子に言った。
「今度ぜひ、霞が関ビルで食事をしましょう。いいですか」
啓太の誘いに彼女は素直にうなずいたのである。
(22) 連続射殺事件と新宿騒乱
京子と会った数日後、港区芝公園のTPホテルで警備員が何者かに射殺される事件が起きた。啓太は相変わらず警備・公安の仕事をしていたが、この時は捜査1課担当の記者が病気で休んでいたため、急きょホテルに駆けつけ取材に当たった。
もともと殺人や強盗などの凶悪犯罪を担当していたから、まったく違和感はない。むしろ、久しぶりの殺人事件の取材なので彼は張り切ってしまった。しかし、この事件は目撃者も少なく捜査は難航する気配になったのである。
このため、啓太は白鳥京子と電話で打ち合わせをして、次のデートの予定を詰めていった。そして、次の週の中ごろに、霞が関ビル36階にあるレストランで食事を共にする予定を立てた。
霞が関ビルはその年つまり1968年4月に建ったばかりで、日本一の超高層(高さ147メートル)を誇っていた。だから、誰でも一度は行ってみたいと思ったものだ。そこで美しい女性と食事をするなんて、まるで夢みたいではないか・・・
口の軽い啓太はさも自慢げに、そのことを同僚に漏らした。
「お~、やるじゃないか。金も相当にかかるだろうな」
「いや、大したことはないですよ。一度ぐらいはいいでしょ」
先輩の池永たちが冷やかすので、啓太は虚勢を張って答えた。実は食事代がいくらかかるのか、内心は心配だったのである(笑)。
そんな浮き浮きした気分に浸っている時に、京都でとんでもない殺人事件が起きた。八坂(やさか)神社で年老いた守衛が射殺された事件で、銃弾の線状痕などから、TPホテルの射殺事件と“同一犯”だとほぼ断定されたのである。
警察庁はこれを「広域重要指定108号事件」に指定し、全国の警察を挙げて捜査に乗り出すことになった。これは放っておくことはできない。草刈キャップが啓太に声をかけた。
「山本君、京都へ行ってくれないか。この連続射殺事件は大事(おおごと)だぞ」
もちろん啓太も事件の重大さが分かっているので、ただちに京都へ行くことになった。それはいいが、京子とのデートを中止しなければならない。彼はすぐに『女性の未来社』に電話を入れたが、あいにく彼女は取材に出かけていた。そこで取り次ぎの女性に伝言を頼んで、早めの新幹線に乗って京都へ向かったのである。
京都駅に着くと、FUJIテレビからの連絡で地元のKANSAIテレビの記者が出迎えてくれた。2人はただちに所轄の東山警察署に向かい、手分けをして取材活動に移ったのである。そうは言っても、啓太には土地勘がない。高校生の時に、旅行で従姉妹に連れられて祇園祭を見に来た程度だ。
このため、もっぱらKANSAIテレビの小豆(しょうず)記者の指示に従って取材を進めた。そして、東京のTPホテル射殺事件との“類似性”などについて、記者レポートを行なったのである。
事件は急展開を見せる気配がなかったので、夕方になると、啓太は小豆に連れられて先斗町(ぽんとちょう)の某料理店へ行った。京子とのデートは中止になったが、同年輩の小豆との会食は楽しかったし、夜はSANKEI新聞の先輩記者と同宿するなど、事件が意外な人との接点をもたらすことに啓太は満足した気分になったのである。
京都の一泊出張から戻ると、10月21日の『国際反戦デー』を控えて緊迫した空気が高まっていた。多くの平和運動の団体がベトナム戦争に反対して各地で集会を開くのは当然だが、過激な新左翼の各派が暴動を計画しているという風聞が緊張を高めていたのである。
捜査1課担当の吉川が病気から復帰したので、啓太はまた公安・警備担当の仕事に戻った。彼は白鳥京子のことが気になって、彼女に再び電話を入れた。
「この前はごめんね。殺人事件の取材で急に京都へ行くことになったので、今度はいつ会えるかしら・・・」
啓太の問いに、京子もしばらく取材で忙しいと言う。彼の方も『国際反戦デー』を控えて落ち着かないので、2人は話し合った結果、10月21日を過ぎてから会おうということで一致した。それまでは“デート”はお預けだ。
それにしても、民放テレビは記者が少なくて不便だと時々思う。どんなに優秀な記者でも、同時に2カ所へ行くことはできない。どんなに“ぼんくら”な記者でも、2人いれば同時に2カ所に行くことができる。当たり前のことだが、その差は決定的なのだ。
もちろん、啓太は自分を優秀な記者なんて思ってもいないが、大新聞などに比べると、人員の差が結果に歴然と表れることを痛感していた。だから、民放テレビは“重点主義”で取材をしなければならない。対象を絞り込んで取材をしていくのだ。それはやむを得ないと彼は思った。
10月21日、国際反戦デーの日が来た。過激派の学生たちは米軍のジェット燃料輸送阻止を口実に、新宿駅を中心に破壊活動を起こす計画だった。そして、夜になると一斉に駅の構内に突入したが、啓太たち記者もヘルメットなどで身を固め取材に向かった。
学生たちは投石や放火を繰り返し、これを阻止しようとした機動隊と衝突、新宿駅周辺で凄まじい攻防戦が続いた。この乱闘騒ぎに野次馬も大勢詰めかけたが、駅の機能は信号機の破壊などで完全に麻痺した。破壊活動は22日未明まで続いたため警視庁はついに“騒乱罪”を適用し、700人以上の学生が逮捕されたのである。
駅やその周辺には瓦礫(がれき)などが散乱し、機動隊が放った催涙ガスの異臭があたりに充満した。電車の運行はもちろんストップし、それは22日のラッシュ時以降まで続いたという。啓太たちはほぼ徹夜の取材となり、終わってみればくたくたに疲れたのである。
〈新宿騒乱の参考映像・・・https://www.youtube.com/watch?v=JcYRS9a7mpc〉
国際反戦デーが終わり少し落ち着いたころ、啓太は再び京子に電話をした。
「お忙しいようですね。大丈夫ですか?」
「ええ、まあなんとか・・・」
彼女の方から気遣いの声がかかったので、啓太はあいまいに答えた。実は何が起きてもおかしくない昨今だし、公安・警備の仕事もいつ果てるともない状況だ。しかし、京子との関係は大切にしなければならない。啓太はすぐに彼女の都合を聞いた。
すると、京子は今度の週末が都合が良いと言う。それで2人は27日の日曜日に霞が関ビルで会うことにした。
そして週末になり、いつものように洗濯物を持って浦和の実家に帰った啓太は、テレビニュースを見て驚いた。北海道の函館市で、タクシーの運転手が何者かに銃で撃たれ死亡したというのだ。すわ、連続射殺事件の犯人の仕業か・・・
彼は気になって草刈キャップの自宅に電話をかけた。草刈も函館の事件はもちろん知っていたが、何かあれば1課担当の吉川を現地に行かせると言うので、啓太はほっと胸を撫で下ろした。予定どおり京子とデートができるのだ。(もし、それが駄目になれば、京都の事件に続いて2度目のことになる)。
一体、何が起きるか分からない。彼は京子の自宅に電話を入れ、今日のデートは予定どおりだと念を押した。彼女も気を揉んでいたのか、明るい声の返事があった。2人はデートの時間を繰り上げ、午後4時ごろにしたのである。
函館の射殺事件はその後すぐに、2発の銃弾や線状痕などから連続射殺事件の犯人の仕業だと断定された。3件目の犯行である。テレビニュースはほどほどにして、啓太はデートのことが気になり早めに霞が関ビルに向かった。
高さ147メートルのこのビルは、間近で見ると正にそびえ立っている。日本にもこんなビルが次々に建つのか・・・ 啓太はそんなことを思いながら近くを散歩した。やがて4時前になったので、ビル1階の大ホールで待っていると京子が現われた。秋も深まってきたせいか、彼女は薄手のコートをまとっている。
「やあ、ようやくここで会えたね。ご苦労さん」
彼が挨拶すると、京子はいつものようにほほ笑みを浮かべた。2人は36階に直行するエレベーターの所へ行くと、数人の乗客がいた。
「今日は日曜日だから混んでるみたい。でも、時間はまだ早いから」
「どんな景色かしら・・・山本さんは東京タワーに昇ったのでしょ?」
「うん、2回ほど行きましたよ」
京子の問いかけに答えていると、エレベーターが来たので他の乗客と共に乗り込んだ。それは体験したことのない速さで上昇する。
「ずいぶん速いね」
啓太がつぶやいているうちに、エレベーターはあっと言う間に36階に到着した。夕刻前の時間だったせいか、2人はすぐにレストランに入ることができた。窓際に近い席に座るとウェイトレスがやって来る。
「今日は僕が持ちますからね。遠慮なくどうぞ」
「そんな・・・いいのですか」
「もちろん」
啓太は自信たっぷりに答えると、ミディアムのステーキを注文した。前菜やスープなどはむろん付いている。京子も同様の注文をした。
「もっと暗くなると夜景が綺麗だろうな。京子さんも東京タワーには行ったでしょ?」
「ええ、学生時代に友だちと一度だけ行きましたよ」
「あそこの夜景も綺麗だけで、ここは東京のど真ん中だから、また趣きが違うだろうな」
2人はすっかり打ち解けた感じになり雑談を交わした。料理が出てくるとしばらくそれを味わっていたが、やがて京子が啓太に話しかけた。
「実は兄がもうすぐ、墨田区などの“サツ回り”から警視庁の本庁に移ることになりました」
「えっ、兄さんが。それは結構だな」
京子の兄は前にも言ったようにASAHI新聞の記者で、東京の墨田区などいわゆる“下町”のサツ回り(警察まわり)をしていた。名は邦雄と言うそうだが、今度 警視庁の記者クラブ『七社会』へ異動になるという。担当は警備・公安だそうだ。
「それじゃ、これからいろんな現場で一緒になりそうだね。楽しみだな」
「山本さんのことは言っておきますので、よろしくお願いいたします」
「いや、こちらこそ」
京子の兄は彼女より4歳年上で、大学(WASEDA)は啓太より1年先輩に当たる。取材経験は豊富だろうから、何かと教えてもらうのはむしろこちらの方だ。
「兄妹そろって記者ということだね。新聞と出版社の違いはあるけど」
啓太が気分良く話しかけると、京子は黙ってうつむいてしまった。少し変だなと思っていると、彼女が思いもよらないことを言い出した。
「あの~、実は私、いま“青年海外協力隊”に関心があるのです」
「えっ、青年海外協力隊だって?」
「はい、そうなんです」
啓太はこれには驚いた。『女性の未来社』の仕事に全力で取り組んでいるものとばかり思っていたのに、彼女は一体どうしたのだろうか。木内典子だって、京子の才能と熱意を褒め上げていたではないか。
「何かあったの? 今の仕事が不満だとか」
「いえ、今の仕事にはやり甲斐を感じています。何の不満もありません。ただ実は・・・」
そう言ってから、京子は最近の出来事について淡々と説明を始めた。
「2カ月ほど前、青年海外協力隊のことを取材しました。それは記事にしましたが、協力隊員を志望する若い人たちから私は感銘を受けたのです。できれば、あの人たちのようになれないものかと」
そう言って、彼女は啓太の反応をうかがうように彼を見据えた。しかし、啓太は急にそういう話が出たことに戸惑って、言葉が出なかった。
「そこで、大学時代の友人の須藤さんという人に相談してみたのです。彼女はクリスチャンで、そういう人道的なことにとても熱心な人なんです。須藤さんは私が良ければ、一緒に協力隊に応募しようと言っていました。私はその考えに賛同しています」
そこまで言うと、京子は一段落したのか啓太の返答を待っているようだ。彼はようやく口を開いた。
「お母さんや兄さんは何と言っているの?」
「私が望むようにしろと言ってくれました」
「それじゃ、協力隊に応募するわけね」
「ええ」
啓太はそれ以上は聞かなかった。京子の本心を知った思いで、彼はポケットからタバコを取り出した。彼女の前ではあまり吸わないように心がけていたが、今は違う。一服してくつろいだ気分になると、啓太はつぶやくように言った。
「京子さんが外国へ行ってしまうと寂しいな・・・」
「でも、1年かそこらでしょう。次々と交代で行きますから」
そう言って、彼女は含み笑いを浮かべた。しばらく沈黙が続いたが、やがて啓太が吹っ切れたように言う。
「外でお茶でも飲みましょう、いい所がありますよ」
京子がうなずいたので啓太は席を立った(精算をしたが、約○千円だったのでほっとする)。2人は霞が関ビルを出ると、人混みの中を虎ノ門の方へ歩いていった。
馴染みの喫茶店に入りコーヒーを飲んだが、啓太はどうしても“寂しさ”を感じずにはいられなかった。目の前にいる京子が、来年にも海外へ行ってしまうかもしれない。そんなことは考えたくないと思っても、いくらか空しい気持になってしまうのだ。
しかし、2人は次のデートを約束し、やがて喫茶店を出て家路についたのである。
(備考・・・青年海外協力隊は3年前の1965年〈昭和40年〉に発足した海外ボランティア派遣制度で、JICA・国際協力機構が実施している。開発途上国への協力や援助、友好親善などが主な仕事だ。)
それから数日して啓太が記者クラブにいると、草刈キャップが剣道2段に昇段したとの知らせが届いた。
「どうだ、大したもんだろう!」
草刈が自慢げに言うので、池永や坂井が茶々を入れた。
「おかしいじゃないですか。この前 初段になったばかりなのに、もう2段ですか。何かあるな~」
「キャップは政治力があるから、警視庁にいろいろ働きかけたのでしょう」
「おいおい、冗談はよせよ。毎日 稽古に励んでいるから、実力がついたっていうわけだ。はっはっはっはっは」
草刈は上機嫌で笑った。周りのみんなも苦笑したが、やがて彼は啓太に声をかけてきた。
「山本君、君は『平凡パンチョ』を知ってるね」
「ええ、あの大衆的な娯楽雑誌ですか」
「うん、あの雑誌が“事件記者”の特集をやるというのだ。警視庁の記者を何人か取り上げるというが、君も雑誌の取材に協力してやってくれないか」
「えっ、僕が・・・」
「うん、頼む。向こうにはそう伝えてあるのだ。もうすぐ取材に来るだろう」
これは意外な話だが、啓太は素直に応じた。対象になるテレビ記者は彼1人だそうだが、キャップの指示に従うしかないと思ったのだ。
そして2日後、連絡があって『平凡パンチョ』のO記者が取材に来た。彼は啓太より若く、事件のテレビ報道の仕方に関心が高いように見えた。新聞報道との違いに興味があったのだろう。
啓太が聞くと、次の特集で“事件を追う猟犬たち”といったタイトルで記事をまとめるのだそうだ。
そうしているうちに、今度は名古屋市でタクシー運転手が射殺される事件が起きた。 犯行の状況が函館のものとよく似ていたため、始めから連続射殺事件の犯人の仕業ではないかと見られていたが、弾痕の鑑定などですぐにそのように断定された。これで連続殺人は4件目だが、こんな凶悪な殺人事件は滅多にない。
犯人を逮捕できるのか、いつまで犯行が続くのか世間を震撼させる出来事だったが、啓太は当面の警備・公安の仕事に打ち込むしかなかった。
〈備考・・・この事件は翌年4月に19歳の少年が逮捕されたが、『永山則夫連続射殺事件』として世間に衝撃を与えた。なお、永山死刑囚は1997年8月に絞首刑に処せられた。〉
そうしているうちに、東大紛争が一段とエスカレートし泥沼の状態になってきた。11月上旬には、文学部の林健太郎学部長が、過激派の学生たちによって構内に監禁されるという事件が起きた。
一方、無期限ストの長期化や“全学バリケード封鎖”といった過激な闘争に対し、日共系や無党派グループの学生たちが立ち上がり、東大全共闘と激しく対立するようになったのである。
「おい、山本君、東大は大変だぞ。当分は現場へ行って取材をしてくれ。今の取材班だけでは手が足りない。彼らを助けてやってほしい」
草刈がそう言うのは当然で、東大では何が起きるか分からない状態だ。啓太はすぐに現場へ向かったが、大学の構内は一段とものものしい雰囲気に包まれていた。過激派の学生たちは時々、スクラムを組んで学内をデモ行進する。スピーカーを通したアジ演説がやけに耳障りだった。
「山本、助かるよ。手分けして取材をしよう」
同期の今村直樹が言うので、啓太はそれに従った。彼はほとんど毎日 東大に取材に来ているのだ。また、警視庁クラブからも、先輩の池永敦夫がしばしば応援取材で来るようになった。
林健太郎文学部長の監禁はそのうち解除されたが、全共闘(過激派)の攻勢はいっこうに収まらない。 ある日の夜、日共系や無党派グループが守る校舎に対して、過激派が猛烈な示威行動を行なった。スクラムを組んで防備する学生たちに対し、過激派のデモ隊が体当たりをしたり足で蹴り上げたりする。
大乱闘になるのではと心配されたが、防衛側は必死に堪えているようだった。双方とも学生歌や労働歌などを唄って気勢を上げている。一触即発の事態だったが、デモ隊が通り過ぎるとその場はようやく収まったのだ。
「いや~、はらはらしたね。体を張って守る“防衛隊”に俺は目頭が熱くなったよ。こんな光景は見たことがない」
池永が感極まったのか、啓太に語りかけてきた。
「まったくそうですね。僕も学生同士のこんな衝突は見たことがありません」
啓太も正直に答えたが、東大紛争は学生同士の前代未聞の激しい衝突に拡大してきたのだ。そうした背景には、他の大学から多数の学生が紛争に加わってきたことが大きな要因だったと言えよう。