<2002年4月25日に書いた以下の記事を復刻します。>
1) 20世紀にはさまざまな戦争、革命、大事件があったが、第2次世界大戦を引き起こした「独ソ不可侵条約」ほど、世界を驚かせたものは他にないだろう。 これほど電撃的に、秘密裏に超スピードで締結された条約も珍しい。 まさに、世界にとって青天の霹靂(へきれき)となった条約である。 締結されたのは、1939年8月23日であった。
ファシズムを信奉し共産主義を最大の敵とするナチス・ドイツと、共産主義をイデオロギーとしファシズムを最大の敵とするソ連邦が、このような不可侵条約を結ぶとは、常識では考えられないことである。 しかし、歴史の現実はそれを可能にした。そして、世界は破局へと向かった。1週間後に第2次世界大戦が勃発したのである。
この条約の締結については、歴史的大事件なのですでに多くの歴史書で検証されており、詳しい説明は要しないだろう。 私としては、条約締結の経緯と意味に簡単に触れるとともに、「国家とは何か」ということを考えていきたい。 というのも、イデオロギーより「国家・国益」の方がいかに重い意味を持つかということである。
2) ナチス・ドイツ(以下、ドイツと記す)が1938年から39年にかけて、オーストリアを併合しチェコスロバキアを解体していった段階で、ソビエト連邦(以下、ソ連と記す)はドイツに恐るべき脅威を感じるようになった。 やがてファシズムに制圧されるという危機感がソ連を襲った。ファシズムと共産主義は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵である。 ドイツはポーランドとソ連を滅ぼして、ゲルマン民族の生存権を拡大しようとしていた。ソ連が脅威を感じるのは当然のことである。
イギリスとフランスはもちろん戦争はしたくなかったし、凶暴なヒトラー・ドイツの矛先をなんとしても東方へと向かわせたかった。 従って、1938年9月のミュンヘン会談で英仏両国はヒトラーに妥協し、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲せざるをえなかった。 これによって、ドイツとの戦争を一時は回避することができたのである。
しかし、ソ連は完全に蚊屋(かや)の外に置かれた形となり、孤立感を深めていった。 ドイツの侵略に東ヨーロッパの各国が次々と餌食になっていくのを、呆然と見守るしかなかった。 ドイツの脅威がひしひしとソ連に迫ってくる。なんとかしなければならない。ソ連は必死になってイギリス、フランスに接触するが、両国の対応は冷たいものだった。 このままいけば、ドイツが次に牙をむくのはポーランドである。そして、その次はソ連・・・危機が目の前に迫ってきた。
3) 1939年5月、ソ連はリトビノフ外相を更迭し後任にモロトフを起用した。「反ファシズム・親欧米」の外交路線を取っていたリトビノフを解任し、モロトフを外相に据えたのである。 彼の妻はユダヤ人だったが、そのことは反ユダヤのヒトラーに内密にして、いわゆる「全方位外交」を可能にさせようというものだ。 スターリンはあらゆる事態を想定して、モロトフを外相に起用したのである。
モロトフ外相の就任は、ソ連流に目立たない形で行われた。新聞発表も極めて地味だったと言われる。 しかし、この外相更迭劇が、やがて世界を驚倒させる導火線になるとは、どれほどの人が予想しただろうか。 モスクワは起死回生の方策を模索することになるのだ。
ところで、第1次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)では、敗戦国・ドイツと新生・ソ連は除けものにされていた。 両国とも邪魔者扱いされていたのだ。その両国が1922年4月、ラパロ条約を締結して友好関係を樹立した時は、欧米諸国を驚かせたという。 蚊屋の外の両国が、まさかそんな条約を結ぶとは思ってもいなかったのだろう。 ヒトラーの登場によってラパロ条約は意味を持たなくなったが、独ソ両国の間には、そういう伏線がいつも垣間見えていたのだ。(第1次世界大戦中に、ボリシェビキ政権がドイツ帝国と単独でブレスト・リトフスク講和条約を結び、戦争から一方的に離脱したことも有名な話だ。)
話が少しそれたが、モロトフ外相の登場を西側諸国はどう見ていたのだろうか。 一時的に戦争の危機がなくなり、平和が到来したとイギリスやフランスは安心していたのだろうか。 それ以前の1939年の初め頃、独ソ間に新通商協定の話が持ち上がった時、ロンドンのある新聞が「スターリンはドイツと不可侵条約を結ぼうとしている」と大胆な予測記事を掲載し、センセーションを巻き起こしたという。 そういう“悪夢”はある程度ささやかれていたのだ。 イギリスやフランスは、どうしてソ連に冷たい態度を取り続けたのだろうか。(特にイギリスが冷たい態度を取った。)
4) モロトフ外相の登場を最も敏感に受けとめたのはヒトラーだった。 これをスターリンからのシグナルと受けとめたようである。政治的嗅覚においては、ヒトラーはやはり天才だったのだ。 以後、独ソ両国の間で、まず「新通商協定」締結の話が急速に進んでいく。 両国とも非常に注意深く交渉を進めたので、諸外国に勘づかれることはなかったようだ。
それと同時に、最も重要な両国による東ヨーロッパ分割の話が事務レベルで詰められていき、7月下旬には大筋が固まったと言われる。 あとはトップ交渉が残るだけだ。この時点でドイツ側の方が積極的な姿勢を見せている。 これは戦争になった場合、ドイツとしては、東西の二正面作戦を避けたいという強い思惑があったからである。
8月19日、新通商協定が調印されたその日、ソ連政府は1週間後にリッベントロップ・ドイツ外相と会談する用意があることをドイツ側に伝えた。 これに対して事を急ぐヒトラーは、スターリンに親書を送り「その日時を数日早めて欲しい」と要請、スターリンもこれに同意したという。(以上、『ソヴェト・ロシア史』ゲオルク・フォン・ラウホ著 丸山修吉訳 法政大学出版局を参考)
リッベントロップ外相は8月23日急きょモスクワに飛んだ。 ただちにクレムリンに赴きモロトフ外相との折衝に入る。会談には一時スターリンも同席した。 独ソ不可侵条約の交渉は驚くべきスピードで進んだ。その日の夜のうちに調印が終了、両国外相にスターリンも加わって祝賀会が催され、乾杯に次ぐ乾杯の宴となった。 調印の知らせを聞いたヒトラーは狂喜した。 この時、ヒトラーもスターリンも共に「勝った!」と感じたのである。
握手するモロトフ・リッベントロップ両国外相
5) 翌24日、独ソ不可侵条約締結のニュースが全世界に電撃のごとく報道され、世界中に衝撃とパニックが走った。 事務レベルの会談が完全に秘密裏に行われていたので、驚天動地の出来事となった。 ファシズムと共産主義の国家が手を結ぶとは、ありうべからざる事態であった。 地球規模であらゆる動揺が起きてきた。 日本では、ドイツ・イタリアとの3国軍事同盟を推進しようとしてきた平沼騏一郎内閣が、盟友ドイツに裏切られた。平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して、内閣は4日後にあっけなく倒壊した。 日本は独伊との間に、ソ連を仮想敵国として「防共協定」を結んでいたからである。日本にとっても、正に“悪夢”が現実となったのである。
ヨーロッパ中が震撼し事態は極めて深刻になった。 共産主義・ソ連を信じて、反ファシズム闘争を推進してきた左翼・民主主義陣営は完全にソ連に裏切られた。絶望感が全ヨーロッパを襲った。 そして、ほぼ1週間後の9月1日、ドイツ軍の大部隊は得意の電撃戦でポーランドに侵入、第2次世界大戦が勃発したのである。 また、それに呼応してソ連軍も9月17日にポーランドに侵攻し、ドイツとの間の秘密議定書に基づきポーランドを分割支配した。 弱肉強食とは正にこの事である。
6) イデオロギーがこれほど簡単に無視された例を、私は他に見たことがない。 イデオロギーよりも国益第一ということだろうが、この場合、イデオロギーは単に“衣装”か“飾り”のようになってしまった。ファシズム対共産主義という図式は、どこかへ消えてしまったのである。
民主主義国家なら多様な思想・信条が認められているが、この時のドイツとソ連は全体主義国家だから、国内にも一部の驚きはあったが、かえって容易に「独ソ不可侵条約」が受け入れられてしまった形跡がある。 つまり、全体主義にとっては、国家とは何物にも優る至上のものだったのだろう。
それから1年9ヵ月後(1941年6月)、今度はドイツが不可侵条約を破棄してソ連に侵攻することになる。 これもイデオロギーの戦いと言うよりも、国家対国家、民族対民族の戦いと言ってよい。 イデオロギーは単に“粉飾”に過ぎなくなってしまったのだ。
しかし、ソ連は国家としては存続できたが、イデオロギーの背信行為は後々まで大きな禍根を残すことになる。 怒りを抱いた多くの共産主義者が転向したり、ソ連に好意的だった人達の不信を招く結果となった。
第2次大戦後、ポーランドやバルト3国などの分割を取り決めた独ソ両国の密約が明らかになった。 ソ連政府はこの事実を決して認めなかったが、ソ連の背信と侵略行為は誰の目にも明らかであった。ソ連への不信は、心ある人達にとって決定的となった。 これが後に、陰に陽に現われてくるのは、歴史の因果応報と言って当然であろう。
ソ連は「独ソ不可侵条約」によって、一時的に領土と国益を守った。 しかし、それによって、後々まで世界の良心的な人達の信頼を失ったのである。(2002年4月25日)