<以下の記事は2013年12月13日に書いたものですが、内容を一部修正して復刻します。>
「誰(た)そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ」という短歌がある。これは石川啄木の歌だが、知っておられる人も多いだろう。伊藤とは伊藤博文のことで、1909年10月に彼が今の中国・黒龍江省のハルビンで、朝鮮の民族活動家・安重根(あん・じゅうこん)に暗殺された直後に作られた歌である。
意味は「誰か私にピストルでも撃ってくれないか。伊藤のように死んで見せよう」というものだろう。私は啄木の研究家ではないが、この歌は明らかに伊藤博文の死を悼んで作られたものだと思う。そして、当時23歳の血気にはやる啄木らしい、侠気に満ちた青年の歌だと言えるのだ。
それほど、伊藤博文の“存在感”は大きかったのだろう。ここで伊藤の歴史的業績を述べる時間はないが、石川啄木でさえ伊藤の死を悼んだのである。それは実に意義深いものだ。何故かと言うと、私は啄木を社会主義者、いやむしろアナーキストだと思っているから、その彼が明治政府の最高権力者の死を悼んでいることに、驚きというか違和感を覚えるのである。
翌1910年に韓国併合(朝鮮併合)が行なわれると、啄木はこれに批判的な歌を作る。「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ秋風を聴く」というものだ。さらにその後、明治天皇暗殺計画とされる“大逆事件”が起きると、彼は幸徳秋水ら社会主義者への弾圧を心から嘆き悲しむ。つまり、啄木は根っからの左翼、社会主義者、アナーキストだったのだ。その彼が明治政府の最高権力者、当時は枢密院議長の伊藤博文の死を悼んだということに、驚きと違和感を覚えるのだ。伊藤はそれほど、国民的な大政治家だったのだろう。
さて、ここで安重根の話に移るが、処刑された彼の記念館が2014年にハルビンに建てられた。安重根は日本では暗殺者・テロリストとされ、韓国では義士、つまり“英雄”とされているのだ。この点が日本と韓国では天地雲泥の差がある。
しかし、啄木は『ココアのひと匙』という有名な詩の中で、テロリストについてこう述べる。「・・・われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を」と。 さらに「やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も近づく日のあり」という歌も詠んでいるのだ。
石川啄木ほどテロリストの悲壮な心を分かっている人はいないだろう。ということは、安重根の気持を痛いほど分かっていたに違いない。その上で「・・・伊藤のごとく死にて見せなむ」と詠んだのだ。啄木にも普通の愛国心はあったと思う。いや、愛国心というよりも深い“郷土愛”だったのだろうか。
いま安重根も伊藤博文も、そして石川啄木も死後100年を越えた。そうした歳月に想いを寄せながら、私は啄木の歌に惹かれていく・・・
この拙文は散漫になった。はじめは日中韓の話をしようと思ったが、途中からどうでもよくなった。申し訳ない。 最後に、好きな啄木の歌をもって締めくくりたい。
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
石川啄木
そりゃ、啄木だって若い人間でしたからね。。。^^
私も啄木の歌は心にしむものがあります。
とにかく感性が豊かですね。短歌はもちろんですが、彼の詩は特に好きです。
中学時代、学校劇で啄木の役を指名されてからなおさらです。担当の先生にずいぶん教えられました。
人間的にはだらしないところもありましたが、26歳で他界しただけあって、いうなれば“永遠の青年”だったと思います。