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不幸な大名・・・坂崎出羽守直盛

2024年11月25日 14時33分39秒 | 歴史

<以下の文を復刻します。>

坂崎直盛

友人の作家・山元泰生氏から『明石掃部』(あかし・かもん)という本が贈られてきたので、パソコンが故障中にじっくりと読むことができた。私は全く知らなかったが、明石掃部というのは戦国時代のクリスチャン(キリシタン)武将である。
彼は中国地方の大々名・宇喜多秀家の筆頭家老で、関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家康軍を相手に獅子奮迅の活躍をした武将だ。ご承知のように、関ヶ原でも大坂の陣でも豊臣方は敗れたが、宇喜多秀家は捕らえられ八丈島へ流刑の身となり、明石掃部は終生 逃亡と流浪を繰り返す身となった。
私が面白いと思ったのは、戦国末期は西国を中心にクリスチャン大名や武将がかなり多かったことである。高山右近などは有名だが、他にも大勢いる。明石掃部もその一人だが、実は最も驚いたのが、明石と同じ宇喜多家に、後の坂崎出羽守直盛(なおもり)となる宇喜多詮家(あきいえ)がいたことであった。

なぜ驚いたかというと、坂崎出羽守は大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀頼の正妻で家康の孫に当たる千姫(せんひめ)を救出するのに大手柄を立て、家康から千姫を与えると約束されたにもかかわらず、後に千姫がそれを嫌がって他家に嫁ごうとしたため、千姫奪回を企てて失敗、自害するという事件を起こした張本人だからである。この「千姫事件」には諸説があるが、当時としては大変な事件で、私も昔、大映かなにかの映画で見たことを覚えている。何はともあれ、この事件で坂崎出羽守は自害し、彼が治めていた石見・津和野藩4万3千石は取り潰しとなった。

坂崎出羽守がまだ宇喜多詮家と名乗っていた頃、彼は豊臣秀吉が起こした「文禄の役」で朝鮮から帰国後(1595年)、京都でクリスチャンとなり洗礼名をパウロと称したという。 明石掃部がクリスチャンになったのはその後である。二人はその後、秀吉のキリスト教弾圧で命が危うくなった大坂の神父らを救出したりしている。
詮家は当主・宇喜多秀家の従兄弟に当たるが、その彼がなぜ後に家康方に付いたのか。それは関ヶ原の戦いの前年(1599年)、不幸にも宇喜多家に一大お家騒動が起こり、詮家を含む250人もの武士が宇喜多家を離れたのだ。 その背景には、秀吉亡きあと天下を狙う家康の策謀があったというが、現に詮家ら大勢の武士が家康の配下になってしまった。
家康は関ヶ原で自分に対抗した宇喜多家を憎み、詮家に改名を迫ったという。そこで「坂崎出羽守直盛」の誕生となるが、すでに秀吉の晩年以来、キリスト教への弾圧は日ごとに強化されていたから、出羽守もクリスチャンを辞めざるを得なかったのだろう。

私はクリスチャンでも何でもないが、『明石掃部』を読む限り、戦国末の日本のクリスチャンは概して非常に純粋な人たちが多かったように思う。初期の信仰とはそういうものだろうか。殉教の精神に徹していたように思う。
最後は島原の乱(1637年)で大虐殺に遭いキリスト教は抹殺されたが、明石掃部らは最後まで純粋な信仰を持ち続けた。家康に対抗して敗れ一族は悲惨な目に遭うが、かえって信仰心は美しく輝いていったようだ。
俗世から見れば、明石掃部らクリスチャンは不幸だったろう。しかし、キリスト教を捨てて、大名にまでのし上がった坂崎出羽守も幸せにならなかった。人それぞれだが、もし彼が信仰心の篤いクリスチャンでいたら、「千姫事件」のようなことは決して起こさなかっただろう。 元クリスチャン・坂崎出羽守の運命に、人間の悲しさ、哀れさを思う。(2010年8月5日)


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