<2020年6月18日に書いた以下の文を復刻します>
〈前書き〉
極左や極右の人で知っている人はほとんどいないが、私には忘れられない人が2人いる。いずれももう他界されたが、1人は小野正春さん、もう1人が野村秋介さんだ。野村さんは右翼の大物として有名だが、小野さんは革共同・中核派の幹部で、一般にはそれほど知られていない。
ただし、ここでは時代の経過と私の体験上、まず小野さんのことから語っていきたい。
A)小野正春さんのこと
60年前の1960年(昭和35年)のことだが、当時はいたる所で安保反対闘争が盛んに行われていた。ちょうどその年、早稲田大学に入った私は全学連の闘争に参加していたが、ある日、同じセクトの学友に誘われ、大学の2年先輩である小野さんと某喫茶店で初めて会った。
彼は同じ文学部で新潟県出身だと言ったが、私が新潟市生まれだと知ると、人なつっこい笑顔が一段と輝いた。彼はその頃、革命的共産主義者同盟全国委員会の下部組織・マル学同(マルクス主義学生同盟)に所属していたが、私ももちろんそこで活動していたのである。
小野さんはがっちりした体格で、明るく開放的な感じのする人だった。また、彼は仲間たちから“マオさん”の愛称で親しまれていたが、それは毛沢東風の人民帽をよく被っていたからだ。私はすぐに小野さんの魅力に惹かれていったが、その後も安保反対闘争を通じて、ますます親密な間柄になっていった。
ところが、闘争が一段落した6月頃から、小野さんとの関係が徐々に“ぎくしゃく”してきた。その一番の要因は、私がマルクス主義に疑問をいだき、次第にアナーキズム(無政府主義)に傾いていったからである。
ある時、アナーキストのOさん(1年先輩の女子大生)らと、某喫茶店で小野さんと議論したことがある。何を論じたかはもう覚えていないが、そのあとOさんはこう言った。
「小野さんはマルクス主義にどっぷりと浸かって、少しも進歩していないのね。自分のイデオロギーに安住して、なんの疑問も持たないのかしら」
彼女の言葉に、私は同感するところがあった。革共同・マル学同が勢力を増し、学生運動の中で中心的な役割を担ってくるようになると、理論やイデオロギーは二の次となり、どうしても“活動面”の方が重視されるようになる。
それは仕方のないことかもしれないが、いろいろな革命思想を学んでいるOさんや私にとっては、不満や疑問が湧いてくるのだ。
結局、その年の秋に、Oさんや私はマル学同を完全に離れ、1年先輩のMさんと共にアナーキストのある団体に移ることになった。
その後、私は思想的な変遷を重ね、学生運動や革命運動から完全に離脱したが、2年後のある日、大学のキャンパスで偶然 小野さんに出会った。
「いま、どうしてるの?」
小野さんは満面に笑みを浮かべ、人なつっこい様子で私に聞いてくる。とても学生運動の“闘士”には見えないのだ。だが、私は学生運動を離脱した後ろめたい気持から、挨拶もそこそこに逃げるようにしてその場を離れた。
これが若い頃の私の思い出だが、それから40年以上たって、小野正春さんに関する思わぬ出来事が起きたのである。
それは、2003年3月のイラク戦争が発端だった。アメリカはイラクが「大量破壊兵器」を保持しているとして空爆を開始したのである。
その頃、私はフジテレビを定年退職してのんびりした毎日を送っていたが、テレビなどで連日伝えられる戦争の行方を注視していた。
するとそのうち、戦争に反対する人たちが“人間の盾”と称して、首都バグダッドなどに滞在するようになった。ずいぶん勇敢なことをするもんだなと思ったが、その中には日本人の有志らも含まれていた。
そんなある日、私はテレビ報道で有志の中に小野正春さんがいることを知った。小野さんはもうすぐ65歳になるはずだが、彼は高齢を押して“人間の盾”に参加しているのだ! それは正に驚きだった。
テンションが上がった私は、思わずフジテレビの某情報番組に電話をかけた。すると、かつて私の部下だったY君が電話口に出てきた。
「いま伝えていた小野正春さんというのは、革共同・中核派の大幹部なんだよ。彼とは学生時代によく付き合っていたが、こういう男なんだな・・・」
私はそう言うと、できるだけ簡潔に小野氏のことをY君に説明した。彼は情報の提供にお礼を言っていたが、電話を切ると私は、改めて小野さんらの勇敢な行動に心を打たれたのである。
小野さんは結局 戦争中のイラクを3回も訪問し、あとで『イラク戦争の真実』という報告パンフレットを作り、多くの人に反戦・平和の尊さを訴えたという。
それはさておき、彼の活動が切っ掛けで私がテレビ局に電話をしたことが、思わぬ結果を呼んだ。電話を受けたY君が上司のU担当局長に報告したためか、U君が私に電話をかけてきた。
「この際、某情報番組の“アドバイザー”になってくれませんか。一つ席が空いているんですよ」
後輩である彼の申し出に、私は満更でもない気持になった。すぐには返事をしなかったが、どうせヒマを持て余している自分なのだ。間もなく私はU君に電話をかけ、アドバイザーを引き受けると答えた。
この仕事は原稿をチェックしたり、番組の内容についていろいろ意見を言ったりするのが役割だ。こうして私は毎週・月曜日の担当になり仕事を始めたが、小野さんとの“変な縁”を感じたのである。
彼は2018年10月に癌を悪化させて亡くなったが、小野さんの人柄を偲ぶ仲間の声は後を絶たなかったという。
参考→『前進』 http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2018/11/f29910403.html
B)野村秋介さんのこと
今から30年ほど前のことだが、私はその頃、フジテレビの夜のニュースの編集長(兼プロデューサー)をしていた。キャスターは今でも活躍している木村太郎さんだった。
彼と私は相談の上、ニュースの後半に当時 最も話題になっている人物(ゲスト)を登場させ、自由に話してもらうコーナーをつくることにした。と言っても、話題の人物が必ず出てくれるわけでもないので、注目のニュースなどに関連した人に出演してもらうことが多かった。
しかし、毎日のことなので、最適のゲストがいつも見つかるわけではない。ある日のこと、どういう人に出てもらおうかと迷っているうちに、ふと、右翼の大物である野村秋介氏が思い浮かんだ。野村氏は「河野一郎邸焼き討ち事件」などで有名な人物である。
そうは言っても、私は右翼関係には詳しくない。そこで、警視庁クラブなどの経験がある配下のM君に、野村氏に当たってくれるよう頼んだ。M君はすぐに出演交渉を始めたが、私は野村氏が出てくれることにあまり期待していなかった。
と言うのは、右翼にはマスコミを毛嫌いする頑固な人が多いと聞いていたから、出演交渉が駄目になることも想定して、別のゲストの人選も考えていたのだ。ところが暫くして、M君が野村氏の出演がOKになったと言ってきた。
もちろん、前もって木村キャスターには本日のゲストの件を話していたから問題はなかった。ただし、いま思うと、なぜ野村さんに出演をお願いしようと思ったのか、その理由がよく分からないのだ。
“思いつき”と言ってしまえばそれまでだが、面白い人や変わった人を民放テレビは出したがる。私もそうだったかもしれない。大物の有名人だが、一般にはあまり馴染みのない人に出てもらおうと思ったのか・・・ それはよく覚えていないが、野村さんがその日のゲストに決まったのだ。
そして、夜ニュースの30分ほど前に、野村氏が局に到着したとスタッフの学生が知らせてくれたが、彼は目を輝かせてこう言った。
「驚きましたね、野村さんはすごい“リムジン”に乗って来ましたよ」
私はそれを聞いて、リムジンを見に行こうかと思ったが、原稿が追い込みになっていたので行けなかった。しかし、ゲストには必ず挨拶して番組の進行について簡単に説明しなければならないので、10分ほどして野村氏に会いに応接室へ行った。
相手が右翼の大物なので、私はかなり緊張していた。しかし、部屋に入ると、野村氏はとても晴れやかな笑顔を浮かべて会ってくれたので、私の緊張感はほぐれた。彼は鮮やかなベージュ色だったと思うが、長大なマフラーをかけていたのが印象的だった。
私はごく簡単に番組の進行について説明し、キャスターは木村太郎さんだと告げて退席した。
野村さんの第一印象が実に柔和で穏やかだったため、私は安心して夜ニュースの時間を迎えることになった。しかし、放送が始まると、とんでもない事態になったのである。
それは前半のニュースが終わり、後半のゲストとの対談に移った時だ。よく覚えていないが、今の日本の現状をどう見ているかというテーマで話が始まったと思う。
木村さんは野村氏ともちろん初対面だったので、やや緊張気味の感じがした。一方、私は事前に彼と会っていたので、気楽にテレビ画面を見ていた。
ところが、対談が始まって1分過ぎだったろうか、野村氏が突然 大声を上げて木村さんに迫ってきた。
「日本がこんな状況になったのに、君は黙って見ているのか!?」
「君は本当に命をかけて、やろうとしているのか!?」
「死んでもいいという覚悟はあるのか!?」などなど・・・
だいたいこんな感じで、野村氏はもの凄い形相をして木村さんを問い詰める。今にも飛びかからんばかりの調子だ。私はびっくり仰天し、これはどうなるものかと急に心配になった。
もし不測の事態になったらどうしようか。木村さんも必死になって抗弁している。私はもう居ても立ってもいられない気持になり、対談が早く終わってくれればと祈るばかりだった。
そんな状況が続き、やっと時間切れとなった。私は呆然としてしばらく声が出なかった。こんな“トーク番組”があっただろうか、前代未聞である。このことがあって、野村秋介さんは私にとって忘れられない人となったのだ。
それから3年余りが過ぎたか、1993年10月20日、野村さんはトラブルのあった朝日新聞の東京本社を訪れた。彼は朝日新聞の謝罪を受けようとしたようだが、中江社長らと話し合ったあと、その場で“拳銃自殺”を遂げたのである。58歳だった。
私はこのニュースを聞いた時、それほど驚かなかった。なぜなら、以前の報道番組でキャスターをもの凄い勢いで追い詰めたことを知っていたからだ。
野村氏は覚悟の自殺を遂げたが、彼の人となりは魅力に富んでいる。1つ例を挙げると、野村氏が河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた際、“獄中左翼”の在日韓国人・B氏を救ったというのである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、B氏が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたのに看守に虐待されているのを見かねて、管理部長にB氏の真面目さなどを報告したそうだ。このため、B氏は仮釈放面接を受けたが、彼は野村氏に厚くお礼を述べたという。
立場や思想が違っても、相手が立派な人であれば、野村氏は愛情あふれる対応を取ったのである。(参考・野村秋介→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%A7%8B%E4%BB%8B)
以上、私は極左の人・小野正春さんと、極右の人・野村秋介さんの話をしたが、信条や立場が違っても、優れた人格と行動力を持った人を忘れることはできないのだ。(終・2020年6月18日)