ひどいことになってきた。オリンピックに邁進する菅政権は、この国の医療の逼迫という現実を蹴散らしながら、あくまでもオリンピック・パラリンピック完遂をめざしている。菅首相は昨日(20210802)の会見でこういった。「重症患者や重症化リスクの高い人には必要な病床を確保する」、「それ以外の人は自宅療養で」、「症状が悪化すれば、入院できる体制を整える」と。
こう言わざるをえなくなったのは、東京などの病床が塞がってきたからだ。中症以下を切り捨て、自己責任を押しつけるものだ。新型コロナウイルスは、人間の呼吸器を襲うのだ。心臓と並ぶこの命の要を襲うのだ。これまでも多数の例が報告されているようだが、突然状態が悪化して亡くなられている方が出ているのだ。すでに「症状が悪化すれば、入院できる体制を整える」ことができていないから、切り捨て御免になっているのだ。寝言を言うな。
因みに、私は6月の四国巡りの時、体調が優れず、まさかと心配していた。しかし山登りで、呼吸・脈拍に異常なく、一糸も乱れなかった。これは全く違うと安心したのだった。長年の経験から、自分の体が歩くとき、どうなるか、どうなっていくかは、かなり正確にわかっているつもりだ。
あの1964年東京オリンピックは、高度成長の号砲になり、自然をぶちこわし、公害をばらまく態勢を美化・正当化していった。この意味で、私は忘れることができないのだ。あれから57年もたちながら、この国の人々は、こうした経験を総括することができずにいるのだ。今はコロナ禍で世相をくっきりと見ることができるはずだが、それでもオリンピックが始まってしまえば、競技に歓喜する人が多数派だという。あえて言う。愚図。
57年前と今回は違うという向きもあるかもしれない。しかし今回の2020東京オリンピックは福島原発隠しから始まったのだ。あの有名になった安倍首相(当時)の「アンダーコントロール」による「復興」への祝杯だ。こうした政治のために、スポーツを使う政権。
あえて言う。こうした傾向は、沖縄でも同じだ。残念ながら、沖縄のマスコミも同じ役割を担っている。情けない。「沖縄の選手がメダルをとりました!!」などと。選手の活躍ぶりと、オリンピックの政治舞台の区別ぐらいつかないのか。また、個々の選手も、あいにくの舞台になってしまい、どうしようぐらいの判断がつかないのか。いや、全身全霊を投じなければ好結果をだせないのも人間だ。だからこそ、スポーツ選手である前に、人間として冷静な判断が求められているのだ。私は、ここの選手にも人間としての判断を求める。
「陽はまた昇る」と私は信じて生きてきたが、いよいよこの命のサイクルが危うくなってきた。このオリンピックという化け物の背後に、軍事態勢・戦争の危機が迫っているからだ。平和の祭典の中に隠されている亀裂。選手個々人の様々な意思表示や亡命。警備に軍隊(自衛隊)がでていること、既報だが米日政府は、安保・軍事を巡る会談でオリンピックに最大の関心を持っていると表明していることなど、油断ならないことが多数あるのだ。
現にこのコロナ禍で、新基地建設を止める闘いは後退を余儀なくされている。奴らは工事を何事もないかのように進めているのだ。「祝祭」の後にやってくるものは何か?!
私たちはどうしたらだまされず、正しい判断がくだせるのか、ここが肝心だ。危機は闇に包まれ深いが、それを超える思考力が私たちに問われているのだ。