ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

今朝、「憲法の意思を変えるな!」の意見広告が沖縄タイムスに載っていた(20200503ー①)

2020年05月03日 | 暮らしと政治
 今日、2020年5月3日は憲法記念日だ。沖縄タイムスを開いたら、「憲法の意思を変えるな!」が飛び込んできた。広告の真ん中にデカイ文字「生きる」が踊っている。呼びかけは「市民意見広告運動/市民の意見30の会・東京」だ。
 この紙面デモは2003年のイラク戦争の年から始まっていたが、私は沖縄に来た2013年以降は縁遠くなっていた。『生きる』ということばが、現在のコロナ禍でどう響くのか。文字通り、人々が生きることを考えるならば、立憲主義に基づく憲法こそが、国家権力(早い話が、安倍の横暴)を縛るものであり、同時に、諸個人の諸権利・自由が描き出され、価値付けられている憲法の意思を変えることは、日本史・人類史に反する道だと、私は考える。
 沖縄は文字通り基地の島にさせられて早75年が経つ。これは「沖縄戦を忘れるな!」に留まらない。何故、米軍が住民から奪ってできた普天間基地が75年間、席巻し、蹂躙し続けているのか、何故、新基地建設を無理矢理、辺野古・大浦湾に造ろうとしているのか、全部繋がっている。「基地の島沖縄」を米国に差し出すことで、「日米安保条約」と共に、戦後日本は「独立」できたことを恥じ入るべきなのだ。そこを忘れては、いけない。
 私は、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争、東北大震災・福島原発爆破事故、そして今日のコロナ禍の中を生きてきたが、生きるという命題、いや、「生きる」ということこそ、誰しもの基本的欲求だろうと考えて生きてきた。武力で簡単に人を殺し、自分も殺す戦争も、大勢の人々の命を奪った震災・原発事故も、現在のコロナ禍も、文明の力を過信して、生きることに鈍感になっている側面を看過できないと思うのだ。
 自然権としての基本的人権とは、誰のためにあるのか? 自民党さんは大嫌いなようだが、私たちひとり一人がもっており、行使できるはずのものだ。
 歴史は回り、戦世に陥っている日本。今こそ沖縄から憲法を改めて考え、沖縄を、日本を、世界を問い直す意味は、とてつもなく大きな意義があるのではなかろうか。
 武力を隣に置かれながら生きている沖縄だからこそ、安倍改憲の軽薄さをもっともっと具体的に暴き出していくことが、できるのではないか。
 
◎掲載紙は、沖縄タイムス、琉球新報、東京新聞、毎日新聞、読売新聞とのことです。
◎意見広告運動のウエブページは、https://www.ikenkoukoku.jp


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